説教「祝福される信仰」

2023年6月18日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第4主日

                      

説教・「祝福される信仰」、鈴木伸治牧師

聖書・ 申命記8章11-20節

   使徒言行録4章5-12節

   ルカによる福音書8章40-48節

賛美・(説教前)讃美歌21・342「神の霊よ、今くだり」

   (説教後)讃美歌21・532「やすかれ、わがこころよ」

 前週は6月の第二主日であり、日本基督教団はこの日を「こどもの日・花の日」としております。前週の週報には報告していますが、私のキリスト教の歩みはこの日が原点となっているのです。今回は説教でお話をすることはありませんでした。うっかり忘れていたということであります。私が小学校3年生の時ですが、私の母は入院していました。その母の病室に近くの教会学校の子どもたちがお見舞いしてくれたのでした。6月の花の日と言うことになります。見ず知らずの子供からお見舞いされて、母は感銘を与えられたのでした。それから退院するのですが、さっそく日曜日になると私を連れてその教会学校の礼拝に出席したのでした。花の日のお礼を述べ、これからは息子が出席しますからと挨拶したようです。それからは、日曜日になると教会学校に通わせられたのでした。私の二人の姉たちが清水ヶ丘教会に出席していたことも、私の教会学校出席が続けられたとも思えます。中学生になると姉たちの清水ヶ丘教会に出席するようになるのです。そのような原点があって今の私の存在を感謝しているのです。そのような私自身の信仰の歩みを感謝していますが、今朝は特に連れ合いのスミさんの信仰の人生を示されています。連れ合いのスミさんは昨年の10月に尿路感染と言うことで三週間入院いたしました。その後退院することになりましたが、歩行が困難になっており、寝たきりの療養生活です。私たちは2010年3月に前任の大塚平安教会を退任しました。その後、4月から9月までは横浜本牧教会の代務者として連れ合いのスミさんと共に出席していたのです。そして、10月からはどこの教会にも所属しない身分になりましたが、六浦谷間の集会として、自宅で連れ合いのスミさんと共に礼拝をささげるようになりました。その礼拝は今でも続いています。スミさんは寝たきりの状態であると紹介しましたが、日曜日の礼拝では車椅子で礼拝に参加し、聖書を読んだり、讃美歌を歌ったり、お祈りをしたりしています。連れ合いのスミさんは二十歳そこそこで高輪教会で洗礼を受け、それ以来の信仰の人生であります。まさに祝福された信仰の人生を今日まで歩んできたのであります。今朝は祝福される信仰を示されるのでありますが、まず連れ合いのスミさんの信仰の証しを示されています。

 旧約聖書申命記8章11節以下が今朝の示しとなっています。「主を忘れることに対する警告」として人々にモーセが語っているのです。「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」と諭しています。「今日命じる戒めと法と掟」としていますが、戒めと法と掟は、今日初めて示されるのではなく、エジプトを出てシナイ山に宿営したとき、モーセが神様から十戒を与えられ、その時から「戒めと法と掟」が与えられているのです。十戒は人間の基本的な生き方を示しているのですが、基本の生き方ができない人々にとって、戒めとなり、法となり、掟となっているのです。その十戒の示しを守らず、神様のお導きを忘れることのないようにしなさいとモーセは諭しています。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」と諭しています。人間は豊かになり、食べ物や生活の必要な物が困らなくなることで、神様の恵みを忘れてしまうのです。

 イエス様は、「心の貧しい人は幸いである」と教えておられます。物が豊かになると、心も豊かになります。自分にある豊かさは神様の恵みであることを忘れてしまうのです。その意味で、例えば物が豊かであっても、心を貧しくして神様の恵みをいただくことが大切なことであると示しています。何よりもあなたがたの原点に立ち返りなさいということです。苦しいことがあったとしても、あなたが幸福になるための訓練であったとしているのです。それに対して人々はどうであったか。飲む水がないと言ってはモーセに詰め寄りました。食べるものがないと言ってはモーセに抗議していました。人々はモーセに向かって不平を述べ立てます。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れだし、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と抗議したのです。しかし、今振り返って、誰が飢え死にしたのか、誰が水がなくて渇き死んだのか。誰もが神様の恵みをいただき、約束の土地の前にいるのであります。「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならないのです。「富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」とモーセは人々に示しています。だからこの原点、奴隷の我々を神様が救い出されたこと、恵みを与えて導いてくださっていること、常にこの原点に立って歩むことを示しているのです。救いの原点に立つことであります。この原点に立つならば、新しい土地での歩みが祝福されるのです。

 今朝はルカによる福音書8章40節以下56節までが今朝の聖書として示されていますが、今朝お読みいただいたのは48節までです。ここには二つの出会いの出来事が示されています。一つは、会堂長ヤイロの娘の癒しであり、もう一つは、12年間病気の女性の癒しであります。この二つの出来事は、主イエス・キリストが人々に深く関わっていることを示されるのであります。このイエス様の姿勢が私達の原点となっていくのです。

 今朝のガリラヤの人たちはイエス様を歓迎して迎えています。それに対してイエス様も一人一人に深く関わろうとしているのです。そこへヤイロという会堂長がやってきました。ユダヤの国はユダヤ教の会堂がそれぞれの土地に建てられています。その会堂の責任者ということでしょう。このヤイロの娘が病気であり、しかも死にかけているというので、ヤイロはイエス様に娘のところに来ていただきたいとお願いしました。お願いすると、イエス様はすぐにヤイロの家に向かうのです。ところが向かう途上、一つの出来事が起きました。イエス様が立ちどまり、あたりを見回しているのです。ヤイロとしては、こんなところで立ちどまらないで、早く自分の家の娘のところに来てもらいたと思っています。

 イエス様は立ち止まって周囲を見回しているのです。実は一人の女性がイエス様の服の房に触れたのです。この女性は12年間病気であり、今までいろいろな医者に診てもらいましたが、治してもらえず、全財産を使いはたしていたのであります。この女性はイエス様の服に触らせていただければ治ると信じていたのです。女性がイエス様の服に触れると、イエス様から力が出て行ったということです。それでイエス様は、御自分に触れたのは誰かと立ちどまって周囲を見まわしておられたのです。女性はふるえながらイエス様の前に進み出ました。ふれた理由と癒されたことを皆の前でお話されました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と祝福したのであります。ここではイエス様に生きる希望を求めた女性が祝福されたことが記されています。

 そのようなことがあって、少し遅くなりました。そしたらヤイロの家から使いが来ました。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と使いの者は言うのです。それに対してイエス様は、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とヤイロに言われ、ヤイロの家に行ったのであります。そして、死んだとされている娘に向かって、「娘よ、起きなさい」と呼びかけました。すると娘は起き上がったのでありました。イエス様が深く関わってくださることで祝福の人生が導かれることを示しているのです。そのイエス様に人生の希望をおきました。12年間も病の女性、ヤイロの娘の場合は父親のヤイロがイエス様に人生の希望を委ねたのでした。イエス様もこれらの人たちに深く関わってくださったのです。祝福される信仰を示しているのです。

 最初に連れ合いのスミさんの信仰について示されました。新潟の十日町の出身です。高校を卒業してから数年後に上京しました。そして明治学院大学に勤めるようになったのです。明治学院キリスト教の大学であり、大学の近くにある高輪教会に出席するようになりました。丁度その頃、高輪教会に新しい牧師が就任しました。中島牧師です。中島牧師は、礼拝ではいつも一番前に座っているスミさんは、この教会の教会員だと思っていたようです。そのスミさんが洗礼を申し出たので、驚いたということです。教会員だと思っていたほど熱心に礼拝に出席していたからです。しかも、毎回礼拝堂の一番前の席に座っていたからです。洗礼を受けてからは教会学校の先生をしたり、日本聖書神学校の信徒講座に出席したりして信仰生活を励んでいたのです。導かれて牧師と結婚したのですが、教会ではいつも一番前に座っていて、礼拝をささげていました。そして、教会の皆さんとのお交わりを深めていました。先日も大塚平安教会の礼拝の御用を担当しましたが、礼拝終わったとき、皆さんからスミさんの消息を尋ねられ、本当にお世話になりましたとお礼を述べられるのでした。信仰の証しが人々に喜ばれていたのです。六浦谷間の集会では、今も讃美歌を歌い、聖書を読み、お祈りをささげています。寝たきりの療養生活ですが、イエス様に祝福されている信仰の歩みなのです。

<祈祷>

聖なる御神様。イエス様の祝福の御導きを感謝します。日々、十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。

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