説教「天における喜び」

2023年6月25日、三崎教会

聖霊降臨節第5主日

                      

説教・「天における喜び」、鈴木伸治牧師

聖書・ エゼキエル書34章1-6節

   ルカによる福音書15章1-10節

賛美・(説教前)讃美歌21・459「飼い主わが主よ」

   (説教後)讃美歌21・527「み神のみわざは」

 今朝は6月の最後の日曜日でありますが、私にとりまして、6月はとても大切な日として、その発端を感謝しています。私がキリスト教の世界で人生を歩むことになりましたのが、この6月であるからです。私が小学校の3年生の頃でした。日本の敗戦から3年後の頃です。私の母が身体を損ねて病院に入院していました。ある日、見知らぬ子供たちが病室に入ってきて、お花を差し出しながらお見舞いしてくれたのです。今ではそのようなことは出来ませんが、昔は認められていたようです。見ず知らずの子ども達にお見舞いされ、母は深い感銘を与えられたようです。その日は6月の第2日曜日、教会では「子どもの日・花の日」行事を行っています。その頃もその日を覚えて行われていたようです。その後、母は退院しまして、日曜日になり、自分をお見舞いしてくれた教会に小学校3年生であった私を連れて出席したのでした。花の日のお見舞いのお礼を述べ、これからは息子が教会学校に出席しますと挨拶したようです。それからは日曜日になるとその教会学校に通わされたのでした。その頃の私の思いがどうであったのかわかりませんが、夏期学校の写真やハイキングの写真が残されており、結構喜びつつ教会学校に出席していたと示されているのです。私の母は息子を教会学校に通わすものの、自分は教会に出席することはありませんでした。むしろ、母は鈴木家が仏教の家であり、親鸞上人の教えをしっかりと持ちながら歩んでいました、それでも子供たちがキリスト教の教会に出席することを励ましていたのでした。私の二人の姉たちも横浜の清水ヶ丘教会に出席していたのです。そして、私が神学校に入るときにも、励ましてくれたりしているのです。

毎年6月になりますと、いつも私のキリスト教の人生の出発点を示され、今日の歩みを感謝しているのです。今朝は「天における喜び」と題して示されていますが、まず人生の喜びを示されているのであります。神様が私達を見つめ、導いてくださっていることを示されているのです。

「わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ書49章15節)と神様は言われます。神様を忘れてしまうのは人間であり、神様は私達の存在を決して忘れないのです。それなのに、「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」と人間は言うのです。神様は私を決して忘れないのです。苦しい時、助けてくれないと思ってしまいますが、それでも助けられて生きていることを忘れてはならないのです。

 今朝の旧約聖書エゼキエル書を通して、神様の導き、決して忘れないでお導きくださる神様を示しています。エゼキエル書は聖書の国、南ユダがバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕らえ移されましたが、捕われの人々に神様の御心を示しています。エゼキエルもバビロンに捕らえ移された一人でありますが、そこで神様の召命、使命をいただくのです。捕らわれ人として苦しく、悲しく過ごしている人々を慰め、希望を与えるのです。この捕らわれの身はいつまでも続くものではなく、必ず神様の導きがあり、再び都エルサレムに帰ることを人々に示すのです。

 今朝の聖書は、そもそも捕らわれ人としてバビロンに連れて来られた理由を示しています。このエゼキエル書34章は「イスラエルの牧者」と標題に示されますように、神様が羊、すなわち捕われの人々の羊飼い、牧者となり、緑の牧場に導くことを示しています。その前に人間の羊飼い、すなわち指導者達ですが、指導者達の至らぬ姿がこの現実に導いたことを示しています。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに預言し、牧者である彼らに語りなさい」とエゼキエルは人間の牧者、羊飼いへの神様の御言葉を示されます。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない」と厳しく述べます。指導者達は人々を導き、守り、安全に生きるようにすることです。それらをすることなく、自分達の良き歩みしか考えていなかったのです。当時、大国の狭間にあり、右の大国に頼るのか、左の大国に頼るのか、真に神様の御心を求めることはしなかったのでした。その結果がバビロンに滅ぼされるということでした。指導者達の振る舞いが、結局は人々をあちらこちらに散らされる結果になったということです。「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」と指摘しています。これが牧者なのか、指導者なのかと問うているのです。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、それを探すように、わたしは自分の羊を探す」と御心を示しています。神様の人間に対する姿勢です。「わたしがあなたを忘れることは決してない」と神様は言われます。

 まことの牧者が旧約聖書のメッセージであるなら、主イエス・キリストは、そのまことの牧者の実現でありました。今朝の新約聖書ルカによる福音書15章1節から10節ですが、ここには「見失った羊」、「無くした銀貨」のたとえを示し、尋ね求める人を示しているのです。そもそもイエス様がこのたとえをお話するのは、当時の指導者達がイエス様を批判したからであります。彼らは時の社会の指導者でありました。この人たちもイエス様のお話を聞こうとしてきたのです。そこには徴税人や罪人といわれる人たちもお話を聞きに来ていました。指導者達は「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言うのです。徴税人は支配するローマのために税金を徴収する人です。しかし、人々はローマのために税金を収めたくないので、徴税人を悪者呼ばわりしていたのです。また、罪人と言われますが、当時の社会は因果応報的に物事を捕らえていましたから、病気であるということは、本人または家族や先祖が悪いことをしたから病気になったと思っているのです。体の障害等も同じです。従って、それらの人たちは社会的にも阻害され、片隅へと追いやられている人達なのです。イエス様はそれらの人たち、どのような人たちとも交わりを深めていました。指導者達がそのイエス様を批判しているので、たとえを通して神様の御心をお示しになりました。

 一つのたとえは「見失った羊」であります。百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った羊を探しまわるお話です。そして、ついに発見した時、その羊飼いはその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて喜び会うというお話です。迷い出た羊を尋ね求めるのは、まさに主イエス・キリストなのです。だから徴税人や罪人と言われる人たちと交わりを深めているのです。社会の片隅に追いやられた人達なのです。「無くした銀貨」のたとえも同じ意味です。銀貨10枚を持っている女性が、家の中で1枚を見失ってしまいます。それで家の中を探し回り、ようやく見つけたとき、友達や近所の人たちを呼び、一緒に喜びあったというお話です。いかにも大げさなお話です。家の中で無くしたのであるから、今は見つけられなくても、いずれは出てくるものです。見つけたからと言って、何も大騒ぎして皆と喜び会うことはないと思います。しかし、ここで結びの言葉は、見失ったものが見つかった場合、「喜びが天にある」と言い、「神の天使たちの間に喜びがある」ということなのです。失われた存在が復帰するなら、天において喜びがあるということです。

 主イエス・キリストは、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10章)と示されています。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。わたしは羊のために命を捨てる」とまで言われているのです。神様の御心から離れる私達を、自己満足と他者排除に生きる私達を、それは失われた存在になっているのですが、尋ね求め、再び神様の御心へと戻してくださるのです。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との神様の御心に導いてくださるのです。私達はなかなかその御心には生きられません。そのため、主イエス・キリストは十字架にお架りになられ、私達の罪なる姿を滅ぼしてくださったのであります。

 私達は失われた存在であります。自分の思いのままに過ごしたい、好きなところに転がって行きたいとの思いがあります。好きなことができるでしょう。常にイエス様が私の羊飼いとなって導いてくださっています。最初に私自身のキリスト教に導かれたことを証しさせていただきました。それを今日に生きる原点であると申し上げました。私の原点が与えられた時、「天における喜び」があったと示されているのです。すなわち「天における喜び」がいつも私の人生の支えになっているということなのです。迷子の羊が見つけられたと同じように、なくして銀貨が見つけられたと同じように、私のキリスト教に結び付く原点は「天における喜び」であったと示されているのです。皆さんも今朝、導かれて礼拝に出席していますが、皆さんも「天における喜び」が原点になっているのです。そういう原点を与えられているのです。主イエス・キリストが常に私の羊飼いとして導いてくださっているのです。いつも「天における喜び」があるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。私の存在を導いてくださり感謝致します。いよいよ御心に歩ませてください。キリストの御名によりおささげします。アーメン。

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