説教「祝福の人生へと導かれる」

2016年6月12日、横須賀上町教会 
聖霊降臨節第5主日

説教、「祝福の人生へと導かれる」 鈴木伸治牧師
聖書、ミカ書4章1-8節 
    ヨハネによる福音書4章7-15節
讃美、(説教前)讃美歌21・484「主われを愛す」
    (説教後)讃美歌21・544「イエス様が教会を」

 私達は日曜日になると教会に集められ、共に礼拝をささげています。いつもの生活リズムなのですが、その生活が人生の祝福へと導かれているのです。神様に向かいつつ歩んでいるのですから、人間関係におきましても、嘘偽りがなく歩んでいるのです。横浜本牧教会時代にお交わりをいただいたご夫婦のお証を最近示されました。ご夫婦は自分達の信仰は、人に対して正しく対処していることを証言したそうです。日曜日の礼拝に出席し、その後の集会に出席したりして家に向かい、帰ってきました。間もなく、警察官がやってきて、今日、どこどこの道を通りましたか、と尋ねられたとのことです。確かにその道を通って帰ってきたのです。その道で事故を起こしていますよ、と言われたのです。そんな覚えはないので、ご夫婦は、私達はクリスチャンで、神様を信じていますから、今日も教会で礼拝をささげ帰ってきましたので嘘偽りは言いませんよ、事故を起こした覚えはありませんし、事故を起こしていたら、速やかに対処していたはずです、と言われたのでした。しかし、警察官の言われるように、自家用車を調べますと、確かに車体に傷が残っていたというのです。帰る途中、バイクと接触したのですが、全然気がつかなかったと言います。幸い、バイクを運転していた人は転倒しましたが怪我はなく、バイクが破損したというのです。ご夫婦は全く気がつかなかったのです。証拠が残っているし、バイクを運転していた人も車のナンバーを覚えていたので、警察官が調べに来たと言うわけです。結局、事故の責任をとったのですが、「私達はクリスチャンですから、嘘偽りは申しません」とはっきり述べられたご夫婦は立派な証をしたと思います。実際、知らないうちに事故を起こしていたのですから、嘘偽りではないのです。そういう場合、自分が信仰者であることは言いたくないものですが、嘘偽りを言わない生き方をしていると言われたことです。
 昔、テレビで報道されていたことですが、何かのことで取材されている人が、「私はクリスチャンだから」と繰り返し言っていたことが印象に残っています。昔は、クリスチャンは品行方正であると評価されていましたから、クリスチャンであることを誇りにしている人がありました。しかし、今は、クリスチャンであると自己証明しても、人々は何とも思いません。事故を起こしても気がつかなかったご夫婦は、本当に知らなかったのですから、嘘偽りを言っていないわけです。今時、神様を信じている者として、嘘偽りは言わないと宣言されたことは、大きな証だと思っています。
 今朝は「祝福の人生へと導かれる」示しをいただいています。祝福の人生とは、言うまでもなく「幸せな人生」とか「何不自由のない生活」を言うのではなく、その人の人生が、信仰を土台としたものであり、表面的には哀れな存在に見えても、内なる姿は、永遠の生命に導かれる希望と喜びを持っている人生なのです。信仰に生きる人生が祝福の人生であることを今朝は示されているのです。
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 旧約聖書はミカ書により示されています。今朝の聖書はミカ書4章1節以下ですが、神様の御心をいただきつつ歩む人生が祝福であると示しているのです。ミカ書は4章、5章で、「終わりの日の約束」を示しています。聖書の背景としては、バビロンに捕われの身分でありましたが、今は解放されており、しかし、苦しい歩みをしているのです。その様な苦しい歩みでありますが、祝福の人生へと導かれていることを示しているのです。4章3節には、「主は多くの民の争いを裁き、遥か遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と示しています。「その日が来れば」と繰り返していますが、「その日」はすべての人々は御心に養われる日であります。「その日」は必ずやってくるのです。だから、今は苦しくても、苦しい状況を神様が導いてくださっているので、希望をもって歩みなさいと示しているのです。それが祝福の人生なのですよと示しています。
 「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と3節に記されていますが、この言葉はニューヨークの国連本部のロビーの壁面に記されているとのことです。私は見てもいないのですが、国連に集まる世界の人々が読んでいるはずです。この言葉を読みながらも、国々が牽制しあっているのです。いつ戦争が起きるか分らないような状況でもあるのです。読んでも、自分のこととなると、その言葉が消えてしまうのです。バルセロナサグラダ・ファミリア教会の大礼拝堂の一角に主の祈りが掲げられています。その主の祈りは世界の言葉で記されているのです。日本語でも記されています。主の祈りは「み国を、来たらせたまえ、みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」とお祈りしています。地上の人々が、神様のお心により共に歩むならば、戦いは起きないのです。共に生きるために、協力しあって歩むのです。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」お祈りしています。地上は豊かな人がいれば貧しい人がいる。どうして同じように生きられないのか、自分中心の姿があり、他者排除が行われているのです。この人間の根本的な罪のゆえに、主イエス・キリストは十字架にお架りになり、人間の奥深くにある罪を滅ぼされたのです。しかし、人々は十字架の救いを無駄にしているのです。サグラダ・ファミリア教会はいわば観光が目的で訪れますので、掲げられている「主の祈り」も芸術として鑑賞しているのでしょう。また礼拝堂の中心には十字架に架けられているイエス様の像が吊るされているのですが、これも芸術として人々は見ていることになります。
 フランスでは洪水が起きて、セーヌ川沿いにあるルーブル美術館オランジュリー美術館、オルセー美術館は、芸術品の水害からの救済で大変のようです。2011年にバルセロナに住む娘の羊子のもとに滞在しましたが、羊子は私達、連れ合いと二番目の娘ですが、フランスのパリに連れて行ってくれたのです。これらの三大美術館を見学していますが、イエス様の十字架の絵画や彫刻が、これでもかこれでもかと展示されています。人々は芸術作品として見るのであり、信仰の導きではないのです。今朝のミカ書は、「その日」のために導きを与えていますが、単に言葉だけではなく、「終わりの日の約束」として、はっきりと示しているのであり、人々は、今この時点で神様の御心として示されているのです。神様のお心は、人々が共に歩むということです。自己満足を取り去り、他の存在と共に歩むことなのです。そこに世界の平和が訪れ、人々に祝福の人生が与えられるのです。

信仰によって生きる、それは主イエス・キリストの十字架の救いを信じることであります。その信仰を導くのは、私達に取って礼拝であります。この礼拝で、いつもイエス様の十字架の救いを示されているのです。今朝の聖書は、「十字架の救い」を、私達が礼拝に導かれることによって、「命の水」が与えられると示しています。聖書は「イエス様とサマリアの女性」の対話から示されています。
エス様はお弟子さんたちと共にサマリアの町にいました。サマリアは聖書の国ユダヤに対して外国になります。もともと同じ国でありましたが、歴史において南ユダと北イスラエルに分かれてしまいました。その北イスラエルの中心の町がサマリアでした。従って、民族的には同じであります。イエス様はサマリアのシカルと言う町のヤコブの井戸の側に休んでいたのです。この時代、井戸があるからと言って、やたらに飲めないのです。井戸の所有者の許可が必要なのです。お弟子さんたちは食事の用意で町に買い物に行っています。イエス様が休んでいると、一人のサマリアの女性が水を汲みに来ました。そこで、イエス様は水を飲ませてくださいと頼むのです。すると女性は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」というのです。聖書にも説明されているように、ユダヤ人はサマリア人とは交際していなかったのです。ユダヤ人がサマリア人を差別していたのです。北イスラエルアッシリアの国に滅ぼされ、異なる文化の中に生きるようになっているからです。
このサマリアの女性の言葉と関連して示されるのは、ルカによる福音書10章に記されている「善いサマリア人」というイエス様のたとえ話です。ユダヤ人のある人が強盗に襲われ、瀕死の重傷を負い倒れています。そこに三人の人が順次通りかかるのです。一番目の人も二番目の人も、倒れている人と同じユダヤ人ですが、彼らは倒れている人を見ても、見ぬふりをして通り過ぎてしまうのです。三番目に通りかかった人はサマリア人でした。サマリアの女性が言うように、「ユダヤ人はサマリア人と交際していない」状況です。しかし、通りかかったサマリア人は倒れている人に寄り、介抱したというのです。イエス様はこのたとえ話をしながら、まことの「愛」について示されたのです。愛は、どのような感情をも超えるということです。
エス様はサマリアの女性と対話しているうちにも、「生きた水」、「命の水」について示されるのです。イエス様は言われました。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とお話しされたのでした。私達に取って、この水はイエス様の十字架の救いであります。しかし、今朝の聖書におけるサマリアの女性との対話では、十字架の救いはまだ先のことであります。だから、今イエス様が示している「永遠の命に至る水」は、神様の御心ということであります。神様の御心は、ユダヤ人とサマリア人が交際しない、というような人間的なことではなく、すべての人々が平等に喜びつつ生きるということなのです。それが「命の水」であります。私達はイエス様の十字架によって、共に生きる者へと導かれ、「命の水」をいただくことになるのです。
日本の国は水事情がよろしいです。自宅で飲んでいる水も、公園にある水道水も同じです。毎日散歩をしています。以前はペットボトルに水を入れて出かけていました。しかし、散歩の途上、公園があちらこちらにありますので、水を持って出かけなくても、公園の水をいただくようになりました。日本の国の水のありがたさを示されるのは、外国生活をしているからです。バルセロナに滞在していますが、家の水道は飲めないこともないのですが、飲料水は買ってくるという状況です。水道水で料理したりしているのですが、生水は飲まないようにしていました。公園には水道がありますが、その水道は犬が飲む水で、人間は飲まないようです。レストランに入っても、水は注文して、代金を払って飲むのです。日本のように、レストランに入れば、すぐに水が出されますので、ただで飲めるのです。そして、日本のように飲み物の自動販売機はありません。だから、外国の生活は水筒を持って歩く様ですが、水筒を持っている人も見かけません。水を飲まなくても大丈夫なのかと思います。日本では水は当たり前のようですが、この時、「命の水」をしっかりいただきたいのです。

 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とイエス様は示されています。永遠の命へと導かれる喜びがあるからです。苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、イエス様がくださっている水を飲んでいるからです。その水をいただくために今朝も礼拝に導かれ、皆さんと共に神様にお祈りをささげ、賛美の歌をささげているのです。この礼拝によって、「命の水」をいただいていると示されたいのです。
 「牧師の説教を神様の声だと思いなさい」と、7人の子どもさん達に言いつつ、礼拝に導いていた方がありました。前任の大塚平安教会時代に佐竹正道さんという方がおられました。正道さんは綾瀬市が町である頃、町長にもなられ、その後、県議会議員を歴任されています。祖父の時代から社会福祉の活動があり、佐竹正道さんも社会福祉法人の綾瀬ホームやさがみ野ホームの施設長を歴任されたのです。ご夫婦には7人の男のお子さんが与えられていました。そのお子さんたちを信仰に導くために言われていたことが、「牧師の説教を神様の声だと思いなさい」ということでした。この佐竹正道さんは歌を詠まれる方で、信仰の歌も心に示されています。いくつかを紹介しましょう。
 「本棚に文語の聖書古びゐて あまたの朱線母の残せし」
 母上様の聖書を手にして、その信仰を示される歌であります。
「スミ夫人の丹精さるる花鉢の 横にどくだみ白き十字架」
 毎年、初夏になるとどくだみ草の花が咲きますが、佐竹さんの歌で示され、十字架草として鑑賞しています。
「あの方の感謝の祈りにリズムあり 主の祈りの如詩編読む如」
 礼拝に出席されている方のお祈りを、感動をもって示された歌です。
 「この週も悔い改めの数多き 説教聞きつつ悔いつ祈りつ」
真に礼拝を喜び、御言葉を聞く喜びを証されています。

佐竹正道さんの信仰の人生を示されるとき、まさに礼拝をささげ、その礼拝から「命の水」をいただき、永遠の命への喜びを持って歩まれたことを示されるのです。私達は「祝福の人生へと導かれる」、そのお恵みをいただいているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いを与えてくださり感謝致します。「命の水」を人々に与えることができますようお導きください。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。