説教「祝福のとどまるところ」

2014年5月18日、六浦谷間の集会
「復活節第5主日

説教・「祝福のとどまるところ」 鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記19章1-6節
   ペトロの手紙<一>2章1-10節
   ヨハネによる福音書15章1-10節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・154「地よ、声たかく」
   (説教後)讃美歌54年版・525「めぐみふかき」 


 私は先日の5月10日で75歳になりました。そのあたりの心境をブログでも記しています。もはや5月10日は過ぎ去った日々でありますが、改めて75歳になって、なお御言葉に向かう姿勢に導かれていることを感謝しています。現役の牧師が隠退したとき、どこかの教会に出席します。私たちも現役を終わる頃、どこの教会に出席するか話し合っていたものです。日本基督教団には「隠退教師を支える運動」推進委員会があり、その委員会が30年の歩みを記念して「夕べになっても光がある」と題して記念誌を発行しました。その頃、私は日本基督教団の総会書記を担っていましたので、三役も寄稿したのでした。隠退を見ながら記しています。その頃の思いと現在の思いを示される意味で引用しておきます。

「隠退に向かう夫婦の会話」
「何処の教会に行こうか」と連れ合い。「そうだねえ」と言ったきり黙っている私。こんな会話が多くなった。いよいよ教会を退任する方向がはっきり決まってから、なにげなく出てくる言葉である。来年3月末で退任することを教会に申し出た。そして、臨時総会が開かれ、退任が決まった。今年は夫婦共に70歳を迎え、この教会では30年の牧会であり、前任時代を加えると40年間となる。聖書に関わる40年であり、この時をもって退任することを数年前から示されていた。そして、その退任がはっきりしたとき、退任後の方向もぼつぼつ話されるようになった。「退任したら、スペインに行こうね」と連れ合い。「家でのんびりしていたいよ」と私。娘がバルセロナでピアノの演奏活動をしている。連れ合いは今までも2度程訪ねている。退任したら絶対に一緒に行こうと言うのである。当然のことながら、現職中は長期の休みが取れない。退任後、当分の間は人生の整理に明け暮れるだろうと思っている。むしろ外国よりも国内の観光をしたいとの思いが強い。教団書記を四期も担っていると、教区総会問安使として各地に赴いている。しかし、日本列島各地を訪ねるものの、いつもとんぼ帰りであり、ゆっくりと観光のときを得なかった。
「庭に花をいっぱい咲かせて、野菜も取れるようにするね」と連れ合い。「何とか支えられて余生が過ごせるよ」と私。いよいよ隠退を視野に入れたとき、隠退教師を支える運動が心に示されるようになった。この運動が発足して30年は、私が現在の教会に赴任したときでもある。全国の皆さんが祈りつつ支える運動を担っていること、その祈りが励みとなると思っている。発足30年をお祝いする。「今までご苦労さまでした」と連れ合い。「あんたもね。でも、まだ終わってないよ」と私。隠退に向かう夫婦の日々の会話である。(2009年執筆)

2011年6月に隠退しているので、今年で隠退後3年になります。どこの教会に出席しようか、との課題は「六浦谷間の集会」で、夫婦二人で礼拝をささげるようになり、毎月、横須賀上町教会や三崎教会からお招きをいただいているので、「どこの教会」について心配する必要はなくなっています。念願のスペイン・バルセロナにも夫婦で二回も行っています。庭が結構広いので、少しばかりの野菜が取れ、園芸を楽しむことが出来ています。先日のブログでも紹介していますが、まき割り台を手にしましたので、小枝の処理を楽しみながらしているのです。75歳にして、なお御言葉にむかうことが出来、住まうところは祝福がとどまっていると示されているのです。
今朝は「祝福のとどまるところ」として示されています。

 今朝の説教は「祝福のとどまるところ」と題して示されています。今朝は私達の現実に神様の祝福をいただいていることを示されるのです。言うまでもなく、私達にとって、「祝福」とは神様の御心をいただくことであります。主イエス・キリストの十字架の救いをいただくことが私達の「祝福」なのであります。聖書は全体を通してこの祝福を示しているのであります。旧約聖書出エジプト記19章であります。聖書の人々はエジプトという国に400年間も寄留していました。最初は寄留でしたが、奴隷とされ、過酷な労役を課せられるようになったのであります。その苦しみを神様はモーセという指導者を立てて救い出したのであります。エジプトの王様ファラオに対してモーセが掛け合う時、王様は承知しませんでした。奴隷としての労働力がなくなるということはエジプトにとって大きな損失となるからであります。モーセは神様の力をいただきつつエジプトに審判を与えます。水が血にかわったり、イナゴの大群、雹の災害などの審判を与えます。審判の中で、王様ファラオは聖書の人々がエジプトから出ることを許可しますが、審判の苦しみがなくなりますと、心を翻し、今まで以上の労役を課すようになるのです。ついに神様は最後の審判を与えます。エジプトにいる最初に生まれた者は死ぬという恐ろしい審判でした。その審判が聖書の人々に及ばないように、聖書の人々の家の入口、かもいに羊の血を塗っておきます。神様の審判は羊の血が塗られている家は過ぎ越していくのであります。とうとう王様ファラオは奴隷の解放を許すのでありました。
 そして、今朝の聖書に至ります。19章1節以下、「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」のであります。そこで天幕を張り、宿営することになります。このシナイ山の麓で、モーセは神様の召しをいただき、エジプトで苦しむ人々を解放する役目をいただいたのであります。最初は躊躇しますが、神様の強い励ましをいただき、召しに応えたのでありました。そして、解放された人々をシナイ山の麓に導き、モーセシナイ山に登っていきます。今、神様のご使命を果たし、このところに連れ戻った報告をするためでもあります。そのシナイ山で神様はモーセにお語りになるのであります。「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなた達は見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを」と救いの事実と経過を示しております。今いる事実は、神様の導きの賜物であること、聖書の人々は常にそこに原点を持ちます。救われた事実を繰り返し朗唱すること、すなわち信仰告白をするのであります。
 信仰告白については、申命記モーセの説教集でありますが、6章21節以下に信仰告白が示されています。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導きだされた。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導きいれ、それを我々に与えた」と朗唱するのであります。救いの歴史を改めて心に留める、口に出して告白する、信仰告白であります。今、この出エジプト記はその信仰告白の原型を神様がお示しになっているのであります。何よりも、今あなたがいる事実、それは神様のお恵みとお導きがあるということ、それをしっかりと心に刻み、口で告白するのであります。しかし、救われた歴史を回顧すると共に、約束をしなければなりません。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」と示されています。救われた喜びを告白するとき、神様の御心に生きる約束をしなければならないのであります。従って、申命記信仰告白は「主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった」と信仰告白をするのであります。聖書の人々は常に信仰告白をしました。それが人々の生きる祝福であります。信仰告白をすることは私の祝福は神様の導きであり、主イエス・キリストの十字架の救いにより生かされていることを確認することなのであります。

 私達がいつも信仰告白をしつつ力強い人生を歩むようにと、イエス様が示されています。ヨハネによる福音書15章はイエス様がぶどうの木として私達をお導きになっておられます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と示されています。イエス様はぶどうの木であり、私達はその枝であると示しているのであります。
 聖書にはぶどう園に関する示しがいくつかあります。旧約聖書イザヤ書5章には「ぶどう畑の歌」が記されています。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった」と示しています。ここではぶどうの木は聖書の人々です。神様の導き、恵みをいただいているのであるから、祝福の果実を生みださなければならないのであります。それなのに酸っぱいぶどうであっと示しているのであります。聖書の人々は信仰告白をささげつつも、神様の御心ではない方向に歩んでしまいます。神様の掟ではない自分の思い、そしてそれは偶像礼拝へとつながっていくのであります。表面的には信仰告白を繰り返しつつも、自らの思いが中心になっているからであります。
 主イエス・キリストはご自身をぶどうの木にたとえられました。そして、あなた方はぶどうの木につながる枝であるとしているのであります。枝はぶどうの木から栄養をいただき、それによりおいしいぶどうの実を生むのであります。もし、酸っぱいぶどうであるならば、それはぶどうの木にしっかりとつながっていないからなのであります。ぶどうの木につながる枝でありますが、ぶどうが実らないこともあります。それは木につながっている枝のように見えますが、実はつながっていない状態なのであります。枝の根本に虫食いがあり、十分につながっていないのです。当然栄養がいきません。実らないのであります。しかし、多くの場合、枝はぶどうの木につながっているのでありますから、みな良いぶどうを実らせることになります。これは自然の成り行きです。イエス様は枝に御心を与えているのであります。枝であるあなたはイエス様のぶどうの木につながるか、との問いであります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と示されています。
 前週もイエス様の教え、「自分を愛するように隣人を愛する」ことは掟であると示されました。今朝の聖書はヨハネによる福音書15章1節から10節でありますが、その後の12節で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と示しているのであります。イエス様のぶどうの木につながる枝は、イエス様の掟を守ることであると示されているのであります。しかし、今朝の示しは、私を生かす祝福として示されています。旧約聖書で示されましたように、私が今いる状況は神様のお導きであり、主イエス・キリストの十字架の救いによるものであるということ、その私自身の信仰告白をすることなのであります。聖書の人々が今に至る神様の導きを告白したように、私達もイエス様のぶどうの木につながるに至る導き、信仰の告白をしなければならないのであります。神様は私達に対して忍耐を持って関わり、導いておられるのであります。

 昨年の今頃、3月13日から6月4日までマレーシア・クアラルンプール日本人キリスト者集会のボランティア牧師として赴いてまいりました。マレーシアの教会は2012年3月までは専任牧師がおられました。しかし、高齢になられて退任されたのです。すぐには後任が決まりませんので、日本基督教団の隠退牧師が応援することになりました。パスポートの許容滞在期間の三ヶ月ずつ、隠退牧師が務めることになったのです。私は昨年の3月から三ヶ月間、五番目の牧師として連れ合いと共に赴きました。三ヶ月間でしたが、教会の皆さんとのお交わりが深められ、感謝しています。2014年4月からは専任の牧師が就任しました。もう入れ替わりの牧師でなく、皆さんはほっとされたのではないでしょうか。それにしても教会の皆さんは三ヶ月毎に牧師が変わるので、なんとなく落ち着かなかったのではないでしょうか。しかし、皆さんは順次赴任する牧師と共に、よく歩んでくださいました。皆さんのお世話をいただきながら、ボランティア牧師を務めさせていただいたのです。クアラルンプール日本人キリスト者集会の皆さんは、その集会、その教会にしっかりと結びついて信仰生活をされているのです。
 教会の皆さんは半永住的にマレーシアに住んでおられる方、そして、会社から派遣されておられる方々です。派遣されておられる方は、いずれは帰国されるのですが、今はマレーシアに住んでいるのであり、原点を教会において歩んでおられるのです。祝福のとどまるところに身を置いているということです。ご家族で祝福のとどまるところにおられるのです。まさに祝福の歩みがマレーシアで導かれているのです。
 主イエス・キリストの十字架の贖いをいただき、イエス様の救いをしっかりと見つめながら歩むことが、「祝福のとどまるところ」なのです。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様のぶどうの木につながるお導きを感謝いたします。豊かなぶどうの実として証をさせてください。主イエス・キリストの御名によりささげます。アーメン。