説教「神様が呼んでくださるから」

2013年1月13日、横須賀上町教会
「顕現後第1主日

説教、「神様が呼んでくださるから」 鈴木伸治牧師
聖書、 ホセア書11章1〜11節、
     マタイによる福音書2章13〜23節
賛美、(説教前)讃美歌21・289「みどりもふかき」
   (説教後)讃美歌21・542「主が受け入れてくださるから」


 新しい年も今朝は第二週となりました。もはやお正月気分ではなく、通常の歩みをしています。しかし、今朝はまだクリスマス物語の続きであります。前週の1月6日は新年礼拝でありましたが、顕現祭でありました。日本基督教団の教会歴は「公現日(栄光祭)」としています。東の国の占星術の学者たちがお生れになった救い主イエス様にお会いになった日とされています。「顕現」とは「はっきりと姿が現れる」ことであり、救い主イエス様が世界の人々にはっきりと現れたのであります。従って、クリスマスより顕現祭を大事にする国が多いようです。クリスマスも大事なお祝いですが、顕現祭はそれ以上にお祝いされる国もあるのです。
 娘がスペインのバルセロナに滞在していますが、顕現祭の行事を知らせてくれました。三人の王様、これは占星術の学者ですが、その王様を中心にして仮装した兵士達が、マーチングバンドに合わせて町を練り歩き、子供たちにキャンディやプレゼントを渡すのだそうです。それらのプレゼントは親が用意した物で、それぞれの子ども達に渡すということです。子どもたちは王様がくれた物だと信じているということです。こうして町中が顕現祭のお祝いをしますが、1月6日でクリスマスが終わるということでした。顕現祭が終わるとバーゲンセールが始まり、店やデパートには多くの人々が詰めかけるということです。このように外国では1月6日までクリスマスが続いていました。日本では12月25日が終わると、あっという間にクリスマス飾りがなくなり松飾りになってしまいます。その松飾りもなくなりつつある頃になっています。
 クリスマスを改めて思いますとき、クリスマスは神様が人々を呼んでくださっていることだと示されています。イエス様がお生れになったとき、野原にいた羊飼い達が天使に呼ばれて馬小屋の飼い葉桶に馳せ参じたのです。これはルカによる福音書の証しですが、マタイによる福音書は東の国の占星術の学者たちが星の光の導きをいただいてベツレヘムに生まれた救い主イエス様にお会いしたのです。いずれも神様が羊飼いや占星術の学者たちを救い主イエス様のもとへお呼びになったのです。そして、その後、人々がクリスマスをお祝いするということは、神様がクリスマスを通してお呼びになっていることを示されるのです。クリスチャンであるとか、ないとか、すべての人々が神様のお呼びに応えたと思っています。そのお呼びに真にお応えすることが今朝の示しです。
 お正月には多くの人々が神社に初詣に行きました。いつも散歩をしているのですが、追浜の雷神社の前を通り、野島から金澤八景の瀬戸神社を経由して歩いています。いつもはひっそりとしている神社ですが、多くの人が並んで初詣を待っていました。一年の初めに、幸せ、幸運を願うことは人の常ですが、これらは呼ばれて神社に行くのではなく、自分の思いで行くのです。自分の思いで人生を切り開いていくことも大切ですが、私達は神様に呼ばれていること、そして御心を示されていることをまず第一に知らなければならないのです。クリスマスに神様から呼ばれ、そこで御心を知ることが出来たら、大きな恵みです。自分の思いを適えさせたまえと祈りつつも、神様のお呼びに耳を傾けながら歩む一年でありたいのです。

 旧約聖書はホセア書から示されています。11章は「神の愛」との表題になっています。旧約聖書には預言者が登場します。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルと言う預言者達です。神様の御心を示されて人々に示すことが預言者の働きです。これらの預言者たちは、神様から呼ばれてその使命に立ったのです。そのお呼びは多くの場合、幻を示されて使命を与えられるのです。例えば、イザヤと言う預言者は、「高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」と言っています。エレミヤは「アーモンドの枝を見」、また「煮えたぎる鍋を見た」と言っています。神様がお呼びになって幻を示し、彼らに使命を与えているのです。ところが、今朝のホセアの場合は幻ではなく、自らの体験を通して神様のお呼びを示され、預言者として立つのです。ホセアはゴメルという女性と結婚しますが、その妻ゴメルは彼の愛を裏切って彼を捨て、他の男性のもとに走ってしまうのです。彼はこの不貞の妻を捨てず、かえって彼女を迎え入れたのです。この体験を通して、神様と聖書の人々の関係を示されたのです。神様が不変の愛を示しているのに、人々は自分の思いを満足するために偶像なる神に走るのです。しかし、不貞の人々に対して、神様の愛は変わることなく、人々に注がれていることを示すのがホセアの働きでした。
 今朝のホセア書11章は不貞の人々に対する「神様の愛」を力強く示しているのです。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼びだし、わが子とした」とまず示しています。「エジプトから呼びだした」とは、聖書の人々が400年間もエジプトの奴隷であったことです。神様はモーセを立てて、ついにエジプトから脱出させたのです。導き出した人々と約束を交わします。すなわち、十戒を与え、この十戒を守るならば祝福の歩みとなるということでした。しかし、守らなければ審判があるとも示されています。十戒は神様の「お呼び」であったのです。しかし、「わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去っていき、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた」と現実を示しています。歴史を通して人々を導いているのに、「わたしが癒したことを、彼らは知らなかった」とも示しています。そのような人々ですが、「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることが出来ようか」と言われている神様なのです。エフライムは北イスラエルのことですが、言い直して「イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか」と示しています。そして、ホセアは、このような神様のお呼びに対して、「獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声を上げるとき、その子らは海のかなたから恐れつつやって来る」と述べています。神様は「獅子のようにほえて」いるのです。「ほえている」ことは人々を呼んでいるということです。そのお呼びに応えて、神様のもとに帰るならば、「わたしは彼らをおのおのの家に住まわせる」と言われているのであります。神様のお呼びに応えるならば、祝福の歩みとなり、平安の日々であると言われているのです。神様は私達をお呼びになっているのです。あるときは「獅子がほえる」ように、あるときは人々の喜びの中に、あのクリスマスの喜びの中に神様のお呼びが含まれているのです。

 さて、今朝の新約聖書マタイによる福音書は2章13節からであります。その前の段落はイエス様のクリスマス物語であります。東の国の占星術の学者達が、救い主がお生れになったというしるしを星に見つけ、星に導かれて都エルサレムにやって来たのでした。「ユダヤ人の王としてお生れになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言って都中を捜したのです。これを聞いたヘロデ王、そしてエルサレムの人々も不安を抱いたと記されています。現実にはヘロデ王がいるわけです。中心である存在が変わるということは、人々にとっても不安になります。これは現代においても、中心になる人を選ぶということが行われていますが、わずかな差で選ばれることもあります。その場合、半分にも近い人々は反対の立場ですから、中心になって国を支配するのは大変なことであります。世界のそのような状況を知るのでありますが、日本の国も、いつも中心になる存在が変わっており、決して安泰と言うことではありません。これからは憲法改正問題が次第に大きくなってくると思われます。
 聖書のユダヤの国は、今はヘロデ王に支配されています。しかし、更にローマ帝国に従属されていますので、二重の支配を受けているのです。そういう中で、また新しい王様が現れたとなると、人々の不安が高まることは言うまでもありません。戦争がおきるのではないかと言うことです。ヘロデ王としても、これは密かに葬らなければならないと思っているのです。そのため、占星術の学者達に、救い主が生まれたのはベツレヘムであることを教え、彼らを送り出すのでした。占星術の学者達は、再び現れた導きの星を見て喜び、ついに幼子のもとに行ったのであります。そして、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのでした。彼らはヘロデ王に報告することなく、別の道を通って自分達の国に帰って行ったのであります。
 それがクリスマス物語ですが、今朝はその後のことが記されています。占星術の学者達が帰って行った後に、主の天使が夢でヨセフに現れて示すのです。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と言うことでした。ヘロデ王が生まれた子供を探し出して殺そうとしているということなのです。ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母親を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいたと記されています。そして、その後に「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と記され、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであったと記されています。この預言の言葉は、今朝のホセア書に記されていました。ホセア書では「エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」と記されていました。聖書の人々がエジプトで奴隷として苦しく生きており、その彼らを呼び出して「わが子」としたのです。その預言の言葉を、マタイによる福音書はイエス様にあてはめているのです。イエス様の場合は、エジプトで奴隷であったわけではなく、普通の生活をしていたのですが、今こそ公に現れる準備の時として「エジプトから呼び出した」のであります。
 マタイによる福音書1章16節以下には、ヘロデ王の残虐な行為が記されています。占星術の学者達が「ユダヤ人の王として生まれた方」と言っていたので、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を、一人残らず殺させたと記されています。これらのことはほかの福音書には記されていませんので、事実は不明です。しかし、マタイによる福音書旧約聖書との関連を重要視しているのです。すなわち奴隷の人々を救いだしたモーセが生まれたとき、エジプトの王様ファラオは生まれる男の子は殺させていたのです。殺されないで、その後、奴隷救出の指導者になったモーセと、残虐なヘロデ王から逃れて成長するイエス様を重ねて示そうとしているのです。ここで大切なのは、「エジプトから呼び出す」と言うことなのであります。もともとイスラエルの人々はカナンに住んでいましたが、飢饉が襲ってきたのでエジプトに渡り、寄留者となって生きるようになり、そして奴隷の境遇になったのでありました。イエス様の場合も、ヘロデが生まれた子供を殺そうとしているということでエジプトへ逃れたのでした。そのエジプトは仮の住まいでありました。神様はエジプトから呼び出されたのです。イスラエルの人々は十戒を与えられ、神様の民として、神様の栄光を現す使命を与えられていました。しかし、彼らはできなかったのであります。そこで、神様は主イエス・キリストをこの世に生まれせしめ、再びエジプトから呼び出し、神様のご栄光を現されたのでした。エジプトから呼び出されるということは、神様のご栄光を現すということになるのです。

 私達にとって、現実の生活は「エジプトから解放された場」です。その現実を歩むわたし達を、神様が「呼んで」くださっているのです。イエス様のお弟子さんへと招かれたペトロ、アンデレ、ヤコブヨハネさん達は漁師でした。いつものように漁の仕事をしていると、イエス様がお呼びになったのでした。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、彼らはエジプトから出て、イエス様の現実へと導かれたのです。旧約聖書のホセアは現実の生活、体験の中に、神様のお呼びを聞きました。現実は彼にとってエジプトでありましたが、新しい現実になったのです。
 私達は現実を生きていますが、こんな生活に追いやられたと思うのでしようか。右を見ても左を見ても嫌なことばかり、社会の人たちも変な目で見ている、と思っているのでしようか。こんな生活に追い込まれたと思ってしまうことがあるのです。そうではありません。神様がこの現実にエジプトから呼びだしてくださったと思わなければならないのです。神様がこの私を呼んでくださって、今の現実に生きる者へと導いてくださっているのです。その現実から逃れて、再びエジプトに帰ろうとしたのは、奴隷から解放された人々でした。しかし、荒れ野の旅路で食べ物がなくなり、飲み水がなくなったとき、いつもモーセに詰め寄っていたのです。「この荒れ野で死ぬために、我々を連れだしたのか。餓死するくらいなら、奴隷であっても、再びエジプトに帰りたい」と言うのです。しかし、神様はエジプトから出た人々にマナと言う食べ物を与え、乾いた喉を潤す水を与えて養ったのでした。
 今、私達はエジプトから出て現実の歩みへと導かれているのです。神様が呼んでくださったからです。ともすると現実に不平を述べてしまう私達ですが、神様は更にお呼びになっています。主イエス・キリストの十字架の贖いが神様のお呼びの声なのです。私達は十字架を仰ぎ見ては、神様が私をお呼びになっていることを知るのです。この現実を歩んで、どのような状況でありましょうとも、神様がこの現実に呼んでくださっていると示されたいのです。呼ばれている喜びを証しするのが私達の新しい歩みなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。この現実へとお呼びくださいまして感謝致します。現実を力強く、喜びつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。