説教「喜びにあふれる」

2013年1月6日、六浦谷間の集会
「顕現祭」新年礼拝

説教、「喜びにあふれる」 鈴木伸治牧師
聖書、 エレミヤ書1章11〜13節、
ペトロの手紙<一>1章3〜9節
    マタイによる福音書2章1〜12節
賛美、(説教前)讃美歌54年版412「きかずや、あかぼし」
   (説教後)讃美歌54年版118「くしき星よ」


 2013年の歩みが始まりました。クリスマスにおいて新しい歩みが始まっていますが、この世のカレンダーが新しくなり、それなりに新しい歩みを導かれたいのであります。
 何処の国でもいろいろな儀式を持ちつつ歩んでいますが、日本の国もお正月の儀式を持ちながら始められています。仕事初め、お稽古初め等と、考えてみれば、今までしていたわけでありますが、年が改まったということで気持ちを新たにすることなのでありましょう。「書初め」と言う習わしがあります。筆字で希望を込めて字を筆で書きます。前任時代、さがみ野ホームの礼拝に行くと、ホールには皆さんの書初めが掛けられていました。その一枚一枚に賞が付けられています。「がんばり賞」とか「よくやったで賞」と言うわけです。皆さんはそれぞれの思いを寄せながら筆で書いているのです。そのようなことを思い出しつつ、改めて「書初め」に思いを寄せるとき、こういう習慣はだんだんとん無くなって来ていると思わされます。今は字をかくという生活が薄れているのです。文章にしてもパソコンで作ってしまいますし、手紙等も手書きで送られることは少なくなってきています。今年も皆さんから年賀状をいただきましたが、半分以上は宛先の住所もパソコンで書かれているのです。ペンを持つこと、手で書くことが遠のいています。そういう中で、字を見ただけで、あの人であると分かるような年賀状にふれ、懐かしく拝見するのでした。字がきれいだとか、下手であるとか、そういうことではなく、思いを手に託して書くことが大切であると思っています。書かれた字を見つめるだけでも、その人が示されるのです。
2013年が始まり、思いを改めて歩みたいと願っています。年が改まるとき、いつも示される聖書はローマの信徒への手紙12章2節であります。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
 常に心を新たにして神様に喜ばれる歩みをしたいと願っています。
 今朝は新年礼拝としてささげていますが、キリスト教の暦で言えば、今朝の6日がクリスマスの最後になります。1月6日に東の国の占星術の学者達が、救い主としてお産まれになったイエス・キリストベツレヘムでお会いしたのであります。羊飼いは聖書の国の人々ですが、占星術の学者達は外国人であります。イエス・キリストの福音は、お弟子さん達のペトロさんやパウロさんの働きにより世界の人々に伝えられたのでありますが、むしろ最初から世界の人々に福音が与えられていたのであります。従って、12月25日のクリスマスよりも1月6日の顕現祭を重んじる国々があるのです。

 示されることは、この事柄に何が見えるかと言うことです。楽しいクリスマスに人々は何を見たのでしょうか。多くの場合、ただ「楽しい」だけに終わっているのです。お正月に何を見るか。この場合は、人々は「新しさ」を見ているのではないでしょうか。新たなる思いで歩み出すことは大切なことであります。この新しさ、今与えられている事柄の中に何を見ているのか、このことが大切なことなのです。
 今朝の旧約聖書エレミヤ書1章11節以下ですが、神様がエレミヤに「何が見えるか」と問うています。エレミヤは「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます」と答えます。すると神様は「あなたの見る通りだ。わたしは、私の言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)」と言われたのです。へブル語で「アーモンド」と「見張る」との言葉が似たような言葉であり、「アーモンド」を見ては「見張る」ことが示されるということです。神様が世の動きを見張っていることを示しているのです。まず、エレミヤに神様の「見張り」を示し、見張りの結果を示すのです。さらに神様は幻を示し、「何が見えるか」と尋ねています。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています」とエレミヤは答えるのでした。「北から災いが襲いかかる。この地に住む者すべてに」と神様はエレミヤに示しているのです。だから神様はエレミヤに、「あなたは腰に帯を締め、立って彼らに語れ。わたしが命じることをすべて。彼らの前におののくな。わたし自身があなたを、彼らの前でおののかせることがないように」と言われています。北からの恐るべき侵入者に対して、この国の指導者達はうろたえるが、はっきりと神様の御心を示しなさいと告げているのです。そのために神様はエレミヤに「アーモンド」を示し、神様が見張っていることを示しているのです。アーモンドはアーモンドです。ただアーモンドであると理解しただけでは、真に見ていないということです。アーモンドを見ることにより、言葉が似ている「見張り」を見なければならないのです。
 私達は見方によって異なる絵があります。一枚の絵の中で、見方によっては「若い娘」に見えますが、視点を変えると「老婦人」としても見ることが出来るのです。昨年9月10月にバルセロナに行き、その期間にダリ美術館を見学しました。ダリの作品の中に「だまし絵」があります。リンカーンの顔が描かれているのですが、見方によってはダリの愛人ガラにも見えるのです。目の錯覚でもありますが、多くの場合、自分の意思が先行して物事をみますから、自分の思いのように見てしまうことがあるのです。この事柄の中に何を見るのか、常に問われていることです。

新しい年が始まり、新しいということで喜べないのが現実の社会です。今までの課題はそのまま残されているのです。不安の社会の中に、苦しみの社会の中に神様のお導きがどこにあるのか、しっかり見つめなければならないのです。
新約聖書は「何が見えるか」との旧約聖書の問いを示しています。マタイによる福音書2章1節以下であります。これはクリスマス物語であります。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった」と報告しています。主イエス・キリストベツレヘムで現れることは旧約聖書からの待望でありました。占星術の学者達が「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と言いつつ、都のエルサレムにやってきたのであります。それを聞いたヘロデ王は不安を抱きます。そしてヘロデ王は祭司長たちや律法学者たちを集めて、占星術の学者たちが言っているメシアについて調べさせるのです。そこで得たことは、「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決して小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」との旧約聖書のミカ書5章の預言でありました。つまり、救い主はベツレヘムから現れるということをマタイによる福音書は強調しているのであります。そのため、ヨセフさんとマリアさんベツレヘムに住んでいたことになり、その後ナザレの村へ逃れて行ったことになるのです。
 ユダヤの国はローマに支配されていますが、人々はユダヤヘロデ王により治められてもいるのです。両方の支配者の中で苦しい状況に生きていたことは確かなことであります。その状況の中で、占星術の学者たちが来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と言いつつ都にやってきたのでありますから、人々にとって穏やかなことではありません。また、別の王様が現れたのか、一体我々はどうなるのかということであります。一方、それを聞いたヘロデ王も不安を抱いたのであります。王は自分であるのに、別の王が現れたとなると、当然のように不安を抱いたのであります。
 面白いという言い方は語弊がありますが、占星術の学者たちは東方で救い主出現の星を見ました。その星に導かれてやってきたのですが、目的地を見失ったのでしょうか。ベツレヘムではなく都エルサレムに来たのです。そして、どちらにいますかと捜しています。それで、ヘロデ王が調べた結果、ベツレヘムであることが分かり、学者たちに教えてあげるのであります。ヘロデ王ですから、本来は自分の家来を学者たちと共に行かせるのでありましょうが、それをしないで占星術の学者たちだけを行かせるのでありました。ヘロデ王は不安を抱いており、都の人々も同様でありました。ここは秘かにことを運ばなければならないのであります。しかし、学者たちは救い主の幼子に出会いますが、彼らはヘロデ王に報告することなく自分の国へと帰って行ったのであります。学者たちがヘロデ王の言葉を聞いてベツレヘムに向かうと、再び東方で見た星が先立って進み、救い主のいる場所の上に止まったのでありました。星が見えなくなり、学者たちがエルサレムに行ったことは、ヘロデ王や人々への告知であったのでありましよう。不安を抱く、恐れが生じる、それは救い主が現れたからであります。新しい歩みが始まるとき、不安と恐れが生ずるのであります。
 占星術の学者たちは星を見ては世の中の流れを人々に示していました。ですから毎日天を仰いでは星を見つめていました。どんな星をも見ようとしていたのです。いろいろな星を見つめるうちにも、一つの星を見つめることになるのです。「何を見るか」との神様の問いは占星術の学者たちにも与えられました。そして、その星は単なる星ではなく、大切な星であり、救い主が現れたというしるしの星であることが示されたのです。「何を見たか」の答えは、星ではなく救い主降誕のしるしであったのです。そして星に導かれて、お生れになったイエス様のもとに行きました。「喜びにあふれた」と聖書は記していますが、導きの星を見て、喜びにあふれたのであります。この星は救い主降誕の告知であり、その後遠い道のりを導いた星でありました。ところが都エルサレムでその星を見失ってしまいます。そして、ベツレヘムに向けて歩み出すと再び導きの星が先だって進んだのでした。占星術の学者たちは、その導きの星を見て喜びにあふれたのでありました。「あなたは何を見るか」と聖書は問うているのです。

 今朝の聖書、ペトロの第一の手紙1章8節以下には次のように記されています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びにあふれています」と示しています。「キリストを見たことがない」とは確かです。この手紙が書かれたのは紀元後150年くらいとされています。イエス様が十字架にかけられてから100年以上経ている訳です。だから「キリストを見たことがない」と言っているのですが、しかし、十字架の信仰が原点であることは言うまでもありません。すなわち、「キリストを見たことがない」が、十字架を見ているのです。その十字架に何を見るのか。単に十字架ではなく、主イエス・キリストが十字架により人間の罪を贖ってくださった、救いのしるしを見ているのです。
 トルストイの童話「靴屋のマルチン」は良く知られています。孤独に生きるマルチンさんが聖書を読んでいると、「明日、行くから待っていなさい」とイエス様の声が聞こえたのです。そして、翌日の朝になって、マルチンさんはイエス様が今来るかとそわそわしていました。ふと外を見ると雪かきの仕事をしているおじいさんがぼんやりしていました。マルチンさんは気の毒に思って、おじいさんを家に入れ、温かい飲み物を振舞ってあげました。それからしばらくすると、外で赤ちゃんの泣き声がします。見ると、この寒さの中で女の人が普通の服で、泣いている赤ちゃんをなだめているのです。マルチンさんはすぐに声をかけて家に入れてあげました。温かい食べ物を食べさせてあげ、マルチンさんの外套を与えてあげました。涙を流しつつ帰って行きました。またしばらくすると、外で騒々しい声がします。男の子がおばあさんが持っている籠からリンゴを盗もうとしたのです。マルチンさんはすぐに二人のもとに行き、なだめてあげました。おばあさんも怒るのをやめ、子供もおばあさんに謝っています。二人は仲直りし、子供はおばあさんの荷物をもって帰って行きました。さて、もはや夜になったとき、マルチンさんはイエス様は来なかったと思うのです。すると何やらもの音がしました。後ろを振り返ると、あの雪かきのおじいさん、赤ちゃんを抱いた女の人、リンゴのことでいざこざを起こしていたおばあさんと男の子が現れたのです。そして、イエス様の声が聞こえてきました。「マルチン、わたしは今日、あなたの家に行ったのだよ。あなたが親切にしてあげた人たちはわたしだったんだよ」と言われたのです。
 マルチンさんは出会った人々がイエス様には見えませんでしたが、イエス様のお心を持って出会った人たちにしてあげたのです。「何が見えるか」との問いは、一人の存在でした。その存在に心を寄せたとき、イエス様には見えませんが、イエス様に出会っていたのです。先ほどのペトロの手紙にも示されていました。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びにあふれています」と言うことなのです。一人の存在をしっかりと見つめること、「何が見えるか」との問いに応えていることになるのです。十字架のイエス様がそこにおられるのです。イエス・キリストは十字架にお架りになり、すべての人々が心を寄せあい、共に生きるように導いてくださっているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架を仰ぎ見させてくださり感謝致します。真実を見ることができますようお導きください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。