説教「これほどの信仰」

2019年5月26日、三崎教会 
「復活節第6主日

説教・「これほどの信仰」、鈴木伸治牧師
聖書・ ダニエル書6章10-18節
   ルカによる福音書7章1-10節
賛美・(説教前)讃美歌21・333「主の復活ハレルヤ」
   (説教後)讃美歌21・470「やさしい目が」


5月の歩みも、今朝は最終の礼拝になりました。4月の新年度の始まりを歩んでまいりましたが、早くも5月も終わろうとしています。2018年度は求められまして伊勢原幼稚園の園長を担いつつ歩みました。一年間の約束でしたが、事情により2019年度も園長を担うことになりました。4月からは園長を退任するので、のんびりと過ごそうと思っていましたが、再び園長に就任してしまい、のんびりはお預けになりました。
エス様のご復活を今年は4月21日に迎え、喜びつつお祝いしました。そのイエス様はキリスト教の暦では、まだご復活を人々に示されているのであります。そして、今年は今週の5月30日がイエス様の昇天日でありますので、間もなく、見える姿ではなくなります。そして、今年は6月9日が聖霊降臨日、ペンテコステになります。イエス様はかねてより、ご復活後には「弁護者」、「助け主」、「聖霊」が与えられる約束をされていました。イエス様が現実に見えるお姿では存在しなくなるのでありますが、お導きの聖霊を与えてくださるという約束です。しかし、その聖霊降臨は、今年は6月9日になるのです。従って、イエス様のご昇天から聖霊降臨までの10日間は空白の時となるのです。ご復活のイエス様はおられない、約束の聖霊はまだ与えられない、そういう期間が今週になります。この空白の期間をどうするか、どのように歩むのか、それは今朝の聖書で示されることでありますが、「これほどの信仰」とイエス様から祝福される信仰をもって歩みたいのです。

 信仰に生きる人生がどんなにか祝福であるかが今朝の聖書の示しです。まず旧約聖書における信仰を示されます。今朝はダニエルの信仰です。ダニエル書は聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕らえ移されたことが背景になっています。背景と言っていますが、ダニエル書が書かれるのは、背景よりはるか後の時代であります。バビロンに捕えられていた時代を示しながら、後の時代の人々の信仰に生きる人生を励ましているのです。バビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕われます。捕らえ移された者の中にダニエルと3人の若者がいました。彼らは真の神様を心から信じ、異教の世界の中にあっても、信仰に強く生きたのであります。この四人の若者は、知識と才能を神様から与えられており、文書や知恵についても優れていたと記されています。特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができました。それは神様の御心をいただいているからです。バビロンの王様はネブカドネツァル、ベルシャツァル、ダレイオスと代わりますが、そのダレイオス王の時代が今朝の聖書、ダニエル書6章であります。今までの王様もダニエルを大事にしてくれましたが、ダレイオス王様もダニエルを三人の大臣の一人にもしていたのでした。しかし、捕われの身分でありながら大臣になっているダニエルに対して妬む人々がおりました。何とかしてダニエルを陥れようとしていました。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、妬む人々は訴え出る口実を見つけることができなかったのです。しかし、一つだけ見つけることができるのです。それはダニエルの真の神様への信仰であります。
 それで、妬む人々は王様に進言するのであります。「向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、誰であれ獅子の洞窟に投げ込まれる」との禁令を発布することでした。王様はそれに署名します。ダニエルはダレイオス王がそのような禁令に署名したことを知っていましたが、家に帰ると、いつもの通り二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を神様にささげていたのです。妬む人々はこの事実を見届け、ダレイオス王に訴えたのでした。王様は何とかしてダニエルを救済したいと思うのですが、自分が署名して出した禁令であり、どうすることもできません。家来の言うとおり、ダニエルを獅子の洞窟に投げ込ませたのであります。さて、ダニエルはどうなるのでしょうか。
 そこで今朝の聖書になります。ダレイオス王はダニエルのことで心が痛み、食事をとることもしませんでした。そして朝になると急いで洞窟に行ったのであります。そして不安に満ちた声で洞窟に向かって言うのです。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救いだす力があったか」というのでした。すると洞窟の中から、「王様がとこしえまで生き永らえますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしは何の危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません」とのダニエルの声が帰ってきたのであります。すぐさまダニエルは洞窟から引き出されました。何一つ体に害はありませんでした。
 このダニエルの物語は、信仰に生きる人々を励ましているのであります。このダニエル書の背景は、バビロンに捕われている人々を示していますが、時代的には後の時代になります。その時代はマカバイ時代ということですが、信仰に生きる人々の迫害の時代でした。ダニエル書の著者は時代を遡って、バビロンに捕われの時代における、苦しい状況の中でも信仰に力強く生きた人々を示し、今の迫害の時代に生きる人々を励ましているのであります。神様に向かって生きるならば、必ず祝福が与えられるということです。このことは旧約聖書の信仰の中心なのであります。それはモーセを通して与えられた十戒に示されているのです。神様に向かい、神様の御心に生きるならば、「千代に至るまで恵みが与えられる」ということなのです。これが旧約聖書の基本です。

 神様に向かうならば必ず恵みが与えられるという基本は主イエス・キリストにおいて奨励されているのです。ルカによる福音書7章1節以下は「百人隊長の僕をいやす」との標題で示されています。イエス様の一行がカファルナウムの町に入ると、ユダヤ人の長老達がイエス様にお願いにやってきます。ユダヤにはローマから遣わされている兵隊がいます。百人の兵を率いる隊長、百人隊長はイエス様が町にやってきたことを知り、部下が病気で死にかかっているので、ユダヤ人の長老達に使いを出し、イエス様によって部下を助けてもらいたいとお願いするのです。そこで長老達はイエス様のもとに来て、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛し、自ら会堂を建ててくれたのです」とお願いしたのでした。普通なら自分達を支配しているローマ兵のために何かをするということはないのですが、長老達が言うように、この百人隊長はユダヤ人の人望を得ていたのです。それを聞いたイエス様は長老たちと百人隊長の部下のもとへ向かいました。それを知った百人隊長は友達によりイエス様に使いを出すのです。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします」というのでありました。
 イエス様は、この百人隊長の言葉に感心します。そして、イエス様についてきた群衆に向かって言われるのです。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と信仰というものを教えられました。百人隊長によって使いに出された者が家に帰ると、部下は元気になっていたのであります。百人隊長の神様への信仰、主イエス・キリストへの信仰が祝福されたということです。苦しい時の神頼みという言葉がありますが、この百人隊長は部下が死にそうだから、神様にお願いしようということではなく、日ごろから神様に向かう姿勢を持っていたのです。長老達が言うように、この百人隊長は「ユダヤ人を愛し、自ら会堂を建てた」のであります。それは神様に向かう姿勢です。神様に向かう姿勢がそのままイエス様に向けられたということなのです。日ごろから神様に向かう姿勢が祝されているということなのです。イエス様は「これほどの信仰」と言われて感心されていますが、感心される信仰は他にも記されています。他の聖書にも「あなたの信仰があなたを救った」と言われ、祝福されています。多くの場合、女性たちの信仰でした。

 信仰とは神様を仰ぎ見ることです。それにより神様の御心をいただくことであります。神様の御心は主イエス・キリストにより私達に与えられています。神様の御心は、人間が祝福の人生を歩み、永遠の生命に生きることです。しかし、人間は自己満足、他者排除に生きていますので、どうしても神様の祝福の歩みができないのです。そのため、神様は主イエス・キリストの十字架により私達を真に生きる者へと導いてくださいました。十字架は私の奥深くにある罪なる姿を滅ぼしてくださるのです。私達が主の十字架に向かいつつ歩むとき、「これほどの信仰」として祝福されるのです。
 去る5月1日に前任の大塚平安教会時代からお交わりのあった笠倉昭子さんという方が天に召され、葬儀が行われました。私は1979年に大塚平安教会に赴任しますが、その翌年には笠倉さんの一人息子と出会うのです。大学浪人中であった彼が牧師に話をしに来たのです。翌年、大学に合格しましたが腰痛で病院に入院するようになりました。しかし、その腰痛は腫瘍であり、手術しましたが、下半身麻痺となりました。その彼をお見舞いするようになり、その時からお母さんの笠倉昭子さんとお話しするようになりました。彼は発病してから1年半で天に召されたのでした。21歳の若さでした。洗礼は教会で受けたいと言っていた彼ですが、彼のお父さんは退院はできないと判断されたのです。それで、彼が天に召される1ヶ月前にお父さんも一緒に病院の病室で洗礼を受けました。お母さんはその年のクリスマスに洗礼を受けました。結局、一人息子の召天が両親を教会に導き、信仰の歩みへと導かれたのです。両親は、その後教会員として皆さんと共に信仰の歩みをするようになったのです。その後、お父さん、笠倉昭子さんのお連れ合いが天に召され、昭子さんご自身も病となり、車いすの生活になっていましたが、教会の皆さんとのお交わりが導かれていました。  
私は笠倉さんのご家族を示されるとき、イエス様が「これほどの信仰」と祝福されていると示されています。21歳で天に召された一人息子からイエス様への信仰が導かれたのです。「これほどの信仰」は、何も熱心な信仰の姿ではありません。日々の生活の中で、神様を仰ぎ見つつ、イエス様の十字架の救いを受け止めつつ歩むことなのです。人々が感心するような信仰の姿ではありません。それでもイエス様は「これほどの信仰」として祝福してくださっているのです。日曜日に教会の礼拝に出席すること、「これほどの信仰」なのです。信仰を持っているから立派なことをするのではなく、日々の生活を神様に委ねつつ歩むことなのです。「これほどの」と言われると、特別な姿を思うのですが、日々、イエス様の十字架を仰ぎ見ること、「これほどの信仰」とイエス様が祝福してくださっているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様を仰ぎ見る歩む人生へとお導きくださり感謝いたします。御心に委ねて歩ませてください。主の御名によりおささげ致します。アーメン。