説教「福音が告げ知らされる」

2015年1月11日 横須賀上町教会礼拝
降誕節第3主日

説教・「福音が告げ知らされる」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨシュア記3章9-17節
    ルカによる福音書3章15-22節
賛美・(説教前)讃美歌21・278「暗き闇に星光り」
    (説教後)讃美歌21・475「あめなるよろこび」

 前週1月4日が顕現祭で、東の国の占星術の学者さん達がお生まれになったイエス様にお会いしたのであります。その顕現祭をスペイン・バルセロナで体験しました。私どもの娘が15年前よりスペイン・バルセロナに渡り、当初はピアノの研鑽でしたが、今ではピアニストとしていろいろな場で演奏活動をしています。2013年の11月には一時帰国した娘がこちらの教会でもコンサートを開かせていただきました。その娘がスペイン人と結婚することになり、昨年10月25日にサグラダ・ファミリアで式を挙げることになりましたので、10月21日に出発しまして、今年の1月8日に帰国したのでした。娘の羊子はサグラダ・ファミリアのミサで奏楽をしています。結婚式について神父さんに相談するうちにも、羊子の父親がプロテスタントの牧師であることを知った神父さんが、それでは一緒に結婚式の司式をしましょうと提案してくださり、私にとっても教会にとっても前代未聞のカトリック神父とプロテスタント牧師の結婚式共同司式ということになりました。私も感銘深い経験をさせていただきました。
 その結婚式と共に、今回はカトリックの国でありますスペインのクリスマスを体験するため、顕現祭の1月6日まで滞在し、7日に帰国の途についたのでした。日本にはないクリスマスの体験をいたしました。いろいろとお話ししたいのでありますが、いくつかにとどめておきます。一つは、待降節になりますとクリスマス物語が飾られるようになります。馬小屋の中にヨセフさんとマリアさんが、馬槽を見つめています。そこにはまた羊飼いさんや東の国から来た博士さんも馬槽を見つめています。その馬槽のなかには赤ちゃんのイエス様が寝かされているのですが、12月25日前は馬槽の中にはイエス様がいないのです。まだこの世に出現していないからです。25日になると馬槽にイエス様が寝かされることになります。クリスマス・ミサは私も神父さんと共にミサを担当させていただきました。これも不思議な体験でした。クリスマスのミサが終わると、神父さんはお人形のイエス様を腕に抱き、会衆のみなさんは順次、赤ちゃんイエス様にキスをして帰っていくのでした。
 そして1月6日は顕現祭です。東の国の博士さんたちがイエス様にお会いしたことです。スペインでは博士ではなく王様たちでした。王様をレイジェスと言いますが、ですから顕現祭を「レイジェスの日」と言われていました。そのレイジェスは船に乗って海の向こうからやって来るのです。三人のうち一人は黒人でなければならないのです。そのレイジェスが街の中を歩き、お菓子をばらまくのでした。レイジェスがプレゼントをくれることも子供たちの喜びなのです。夜、寝ている間にレイジェスがプレゼントを持ってきてくれるということでした。
 クリスマスといえばサンタクロースですが、誰でも良く希望をかなえてくれる存在に思いを投げかけるのです。金沢八景からシーサイドラインの電車がありますが、その沿線の駅に「幸浦」と「福浦」があり、両方で「幸福」として記念切符を売り出しており、多くの人が買い求めているということです。相鉄線には「希望ヶ丘」という駅と「ゆめが丘」という駅があり、その切符が大変な人気であるということでした。夢をかなえてくれる、希望を与えてくれる、これらは人間の素朴な願いであります。いわばこの私に救いが与えられることを求めているのです。

 神様のお導きが大いなる救いを与えてくださることは、聖書が報告している通りです。まず旧約聖書ヨシュア記に示される神様の導きを示されています。ヨシュア記は、エジプトで奴隷であった人々が神様によって立てられたモーセにより脱出し、一路カナンを目指して歩んでいるのでありますが、今はモーセの後継者ヨシュアを指導者としています。モーセの後の指導者として、若きヨシュアは不安を覚えながらも神様のお導きに委ねて歩んでいるのです。今朝はヨルダン川を渡る聖書の人々です。ヨルダン川を渡ることは約束の土地カナンに進入することになるのです。今、そのヨルダン川を前にして宿営しています。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を超えんばかりの水嵩であったと言われます。従って、ヨシュアの悩みは、このヨルダン川をどのようにして渡るかということでした。しかし、ヨシュアは神様の導きを信じていたのであります。まだ、神様の導きが与えられていませんが、必ず導きがあることを信じて、人々に命令するのであります。ヨシュアは、「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約2千アンマ(900メートル)の距離を取り、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる」と人々に示したのであります。神様がどのように導いてくださるか分かりません。ヨルダン川を前にして、もう三日も経っています。神様の導きを信じて歩み始めたのであります。前方は水嵩があふれるほどのヨルダン川なのです。さあ、どのようにしてヨルダン川を越えてカナンに入って行くのでしょうか。いつまでも考えているのではなく、神様の導きを信じて動き始めることなのです。
ヨシュアが動き始めた時、神様はヨシュアに言いました。「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなるものにする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」と言われたのであります。神様を信じて腰を上げたヨシュアに対する祝福であります。箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、遥か遠くの方で壁のようになったというのです。川床は干上がりました。それにより聖書の人々はヨルダン川を渡って行ったのであります。まさに水からの救いでありました。この経験は二度目ということができるでしょう。それはモーセの時代でした。奴隷から解放されて、神様の約束の土地へと旅を始めたとき、後ろからエジプトの軍隊が追ってきたのです。しかし、前は紅海という海でした。どうすることもできません。その時、神様は海の水を分けました。干上がった海底を人々は歩き、ついに向こう岸に達したのです。渡り終えると、エジプトの軍隊も後を追って海底を渡ってきますが、神様は水を元に戻したので、軍隊はおぼれてしまうのです。水からの救いを既に与えられているのです。今、ヨシュアは人々を促して、行くてはヨルダン川ですが、神様の導きを信じて歩み始めたのでした。大いなる神様の導きを与えられたのであります。またもや水からの救いを与えられたのでした。
聖書において、水の救いは意味深く示されています。まず創世記においてエデンの園から流れ出る四つの川があります。それらの川により人間は命をはぐくむのであります。そして、創世記には悪を滅ぼすノアの洪水物語が示されています。エゼキエル書にも神の都から流れる命の水が示されているのです。詩編にも黙示録にも、命の川のほとりに植えられている木について示しています。水は悪を滅ぼし、命を与え、水の中を通ることにより救いが与えられることを示しているのであります。

 新約聖書はイエス様が成人した状況になっています。イエス様が洗礼を受け、そして人々に現れて、神様の救いの御心、福音を宣べ伝えて行くことが始まるのであります。
 まず、バプテスマのヨハネについて示しています。ヨハネはイエス様より先に生まれ、そして先に人々に現れました。神様の御心に生きるよう、人々に悔い改めを迫るのであります。厳しく神様の御心に生きるよう示すので、人々はヨハネに質問するのです。「わたしたちは、どうすればよいのですか」と尋ねた人に、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物をもっている者も同じようにせよ」と諭しています。徴税人に対しては、「規定以上のものは取り立てるな」と示しています。兵士に対しては、「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と教えるのでした。厳しく神様の御心をもって諭すヨハネに対して、人々は彼がメシアではないかと思うのです。それに対して、ヨハネは救い主、メシアはこの後に現れることを示しています。今は水で洗礼を授けているが、後から来られるメシアは聖霊と火で洗礼を授けて下さるというのです。このように救い主の出現を予告するヨハネでありましたが、彼は悪を悪とはっきりと示しました。時の領主ヘロデがよからぬ生活をしているので、はっきりと悪であることを指摘しました。それで領主ヘロデは彼をとらえて牢に入れてしまうのです。
 洗礼を授けているヨハネのもとにイエス様もやってきました。そしてヨハネからイエス様も洗礼を受けるのです。ヨハネとイエス様のやり取りについては、ルカは割愛しています。マタイによる福音書によりますと、イエス様がヨハネさんから洗礼を受けようとすると、「わたしこそ、あなたから洗礼をうけるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」とヨハネさんは言いました。それに対してイエス様は、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われました。
 洗礼は罪の悔い改めであるのに、主イエス・キリストが洗礼を受けるということは、では主イエス・キリストも罪があったのか、との素朴な疑問がもたれます。ヨハネはイエス様に言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」それに対して、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言われたのであります。つまり、主イエス・キリストがこの世に現れたのは人間として現れたということです。人間であれば、人々が持つ罪の方向は当然持ち合わせているということです。このことはその後のマタイによる福音書4章1節以下でも示されるとおりであります。悪魔との戦いは、人間として持つ欲望との戦いであったのです。この誘惑については後に示されます。人間として通らなければならない道を歩み、悪を退け、神様のお心に従うことであります。主イエス・キリストは常に神様に向かい、御心を仰ぎ、実践してゆく姿勢であります。イエス様が洗礼を受けると、天がイエス様に向かって開き、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのでありました。神様が「わたしの心に適う者」と言われたとき、主イエス・キリストは死に至るまで、神様に心を向けて歩まれたのであります。御心を仰ぎ、従う主イエス・キリストは十字架の死に至るまで従順でありました。イエス様はゲッセマネの園で祈りました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られ、すべては御心に委ねたのであります。イエス様の洗礼は人間として必要な道順でありました。新しい命に生きるために、洗礼を受けることが出発点になるのです。
 バプテスマのヨハネが授けた洗礼の意味は、神様の御心に生きる決心のしるしであります。それに対して主イエス・キリストの名による洗礼は、単に決心というのではなく、イエス様の十字架の贖いが、私の罪をぬぐい去ったことを信じるのです。イエス様の十字架の死と共に、私が持つ罪の姿、自己満足、他者排除を滅ぼされたのであります。私達は十字架を仰ぎ見て、救いの確信を与えられるのであります。イエス様が十字架により、私に福音が告げ知らされるのです。

 先ほどもスペインの「レイジェスの日」についてお話ししました。レイジェスは王様であり、本来はその王様がイエス様にお会いしたということで喜びの日なのであります。しかし、そのことはあまり前面に出てこないで、レイジェスがプレゼントを贈ってくれることが中心になっているようです。羊子と結婚したスペイン人ですが、レイジェスの日に友達から電話があり、子供が寝ないので、レイジェスとして電話で話してほしい言うことでした。それで彼はレイジェスとして、プレゼントはみんなが寝ている時に配るので、あなたも早く寝なさいとお話しするのでした。プレゼントを与えてくれるレイジェスは、日本ではサンタクロースです。イエス様のお生まれになったことの喜びよりも、サンタクロースの贈り物が中心になります。幼稚園の園長在任中、いつも考えさせられていたのですが、子供たちにプレゼントをあげすぎるということでした。クリスマスには礼拝をささげ、イエス様がお生まれになったページェントを全員で演じるのですが、その後はサンタクロースの登場となります。幼稚園からのプレゼント、父母の会からのプレゼントがあり、楽しいクリスマスになるのであります。
 私達の本当の喜びは、私たちが救われるということであります。救われるということは、日々十字架を見つめて、喜びの人生へと導かれることなのです。そのために救いの原点であります洗礼をうける者へと導かれたのです。
 洗礼を受けるということ、福音が告げ知らされる始まりです。それは自分の欲望に捕われない生き方へと導かれるからです。聖書には「古い人、新しい人」について示しがあります。古い人とは、聖書で言えば、今までの律法による生き方です。戒律によってのみ生きる人です。戒律によって生きているようでありますが、自分の生まれながらの生き方なのです。すなわち自分の欲望のままに生きているということです。それに対して、「新しい人」というのは、自分ではなく、自分の思いを超えてイエス様の御心に生きようとすることなのです。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との教えをいただいて生きるとき、その時こそ「福音が告げ知らされる」人生なのです。自分の思いを超えて生きること、福音が告げ知らされる人生なのです。
<祈祷>
聖なる神様。新しい年を歩み始めました。新しい命をいただいて、多くの人々に証しすることができますよう導いてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。