説教「賛美の歩み」

2019年7月14日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節6主日



説教・「賛美の歩み」、鈴木伸治牧師
聖書・ ㇽッ記1章15-22節

   使徒言行録11章4-18節
   ルカによる福音書17章11-19節
賛美・(説教前) 讃美歌21・432「重荷を負う者」
   (説教後) 讃美歌21・504「主よ、み手もて」

 


 キリスト教という宗教を信じる私達ですが、宗教はさまざまにあり、それぞれがその教えを広めているのです。宗教とは、神または何らかのすぐれて尊く神聖なものに関する信仰であり、その教えやそれに基づく行い、と国語辞書は定義しています。その信仰は、この世を生きるものですが、死後の世界にも及んでいますので、この世の平安を与えるのです。ですから宗教を信じる人々は、その信仰に喜びつつ生きることなのですが、ともすると他の宗教を否定してしまうのです。古今東西、宗教の争いは絶えることなく、あってはならないことなのです。キリスト教ユダヤ教イスラム教、仏教等、どうして争うのかと思わせられます。キリスト教の中でも争いが絶えなかったのです。1054年7月16日、ローマ教皇使節団がギリシャのコンスタンチノーブル総大司教ケルラリオスとその支持者に教会破門状をつきつけました。コンスタンチノーブルも「教会破門状」を発布します。カトリック教会は、ローマ・カトリック東方正教会に分裂したのです。互いに「異端」と呼び捨てていた関係は、1965年12月7日に「相互破門を破棄する」との共同宣言を発表して終止符を打ったのでした。
 私たちの普段の生活において、多くの場合、宗教の生活をしなくても、普通に生活していれば、宗教は無縁になります。しかし、悲しみがあり、苦しみが続くと、自ずと偉大な存在に心を向け、現状打開を願うのは人間の常というものです。病気になれば、不安が募りますし、宗教による平安を求めるようになるのです。新興宗教といわれる人々の誘いは、病気が治るということです。あるいは苦しみや困難がなくなり、幸せになりますよと言いつつ広めているのです。誘われて一生懸命にその宗教の言うとおりにしますが、病気が治らないと訴えれば、祈りが足りないとか、献金が足りないともいわれるのです。こうなると宗教というより、企業のようなもので、努力次第が求められているということになります。まことの宗教はそのようなものではありません。宗教による平安は、何かの努力ではなく、信仰による平安へと導かれるのです。キリスト教イエス・キリストの十字架による救いを信じることで平安が与えられるのです。そして平安の日々において、生活をしつつも賛美の歌が発せられるようになるのです。今朝は平安を与えられて賛美の歩みが導かれることを示しています。

 新約聖書マタイによる福音書の最初のところに、主イエス・キリストに至る人間的系図が記されています。イエス様は人間的な系図の中の存在ではありませんが、マタイは聖書の人々との関連として系図を記しているのです。この系図を見ると、4人の女性の名が記されます。タマル、ラハブ、ルツ、マリアとの名前が記されていますが、この人たちは女性です。その中でタマルとマリアさんは聖書の民族、イスラエル人です。マリアさんはイエス様のお母さんになります。そしてラハブとルツさんは聖書の民族ではなく、外国人であります。外国人もイエス様の系図の中に記されるということは、聖書は神様が世界の人々の救いに導くことを示しているのです。ラハブさんはエリコに住む女性でした。モーセの後の指導者、ヨシュアに率いられて、聖書の人々は神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地カナンに向かっていますが、エリコの町を通過しなければならないのです。ヨシュアは二人の斥候を遣わし、エリコの町を調べるのです。二人はラハブの家に入り隠れるのです。ラハブは二人の斥候に対して、神様があなたがたを導いていることを信じていると告げます。エリコの町の兵がラハブの家にイスラエル人が入ったはずだと調べにやってきます。ラハブは、確かに来たけれどもすでに帰って行ったと嘘を言います。実は二人の斥候を屋上にかくまっていたのです。そして、兵が行ってしまうと、ラハブは二人の斥候を窓から逃がすのでした。これらによってヨシュアはエリコを攻め、通過して行くのです。ラハブと家族は二人の斥候をかくまったので救われたのでした。そのラハブさんがイエス様の系図の一人にもなったということです。
 もう一人の女性は今朝の聖書の人です。この時代に飢饉が起き、ベツレヘムに住んでいたエリメレクと妻ナオミ、そして二人の息子は外国のモアブの土地に住むようになります。やがてエリメレクはモアブの地で死んでしまいます。二人の息子はモアブの女性たちと結婚しますが、二人の息子たちも死んでしまうのです。その後、飢饉が無くなり、故郷のベツレヘムも食べ物が与えられるようになったことを知ったナオミは故郷へ帰ることにしました。帰るにあたり、息子たちは死んでしまったので、それぞれのお嫁さん達に、自分の家に帰るように言います。それが本日の聖書です。一人のお嫁さんは帰って行きましたが、ルツというお嫁さんは帰ろうとせず、ナオミと共にナオミの故郷へ行くというのです。どうしても自分の家に帰らないルツと共にナオミはベツレヘムに帰って来たのでした。
 故郷のベツレヘムの人たちはナオミを見て声をかけます。故郷の人たちは久しぶりに見るナオミに「ナオミさんではありませんか」と声をかけたのです。するとナオミは、「どうかナオミと呼ばないでください。マラと呼んでください」というのでした。ナオミとは「快い」という意味なのです。名前はナオミでも、今はマラであると言います。マラとは「苦い」という意味なのです。夫にも二人の息子にも先立たれ、傷心の思いで帰ってきたからです。今、ナオミは悲しみを言いあらわしていますが、どこまでも一緒についてまいりますと言ったお嫁さんのルツによって、ナオミは真の「ナオミ」に導かれて行くのです。今日の聖書はナオミの悲しみしか記していませんが、この後、ルツは町の有力者と再婚し、子供が与えられるようになりますが、イエス様の系図に加えられて行くのです。「主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされた」とナオミは述べていますが、深い悲しみを神様に向かって発しているのです。ナオミの深い悲しみに対して、神様は息子のお嫁さんのルツを通して、救いを与える順序を導いておられるのです。お嫁さんのルツが救い主へとつながっていくのであります。神様の計り知れない救いの順序なのであります。

 新約聖書ルカによる福音書は、聖書の人々であるユダヤ人がまず神様の御心を知るべきなのに、むしろ知ろうとしない聖書の人々を示しています。そして、外国人こそ真に神様の御心を示され、恵みに与っていることを示しています。聖書は、本来神様の御心をいただいて生きるのは、聖書の人々であるのに、聖書の人々ではない人々が救いの喜びをいただいていると示しているのです。
 イエス様はお弟子さんたちと共に都エルサレムに上る途中でした。サマリアガリラヤの間を通られたのです。サマリアは聖書の人々ユダヤ人にとっては外国になります。ある村に入ると、病気を患っている10人の人が、遠く離れたところから、イエス様に叫んでいます。病気を患っていますので、人に近づいてはいけないのです。「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」とお願いしています。病気を患っている人々は、どうして「わたしたちを癒してください」とお願いしなかったのでしょう。「わたしたちを憐れんでください」とお願いしています。癒しは病気や部分的な痛みが治ることです。しかし、「憐れみ」といった場合、その人全体を受け止めてくださいということなのです。ここに「憐れみ」という言葉が出てきますが、まさに神様が私たちを憐れんでくださっているので、私の現実があるのです。
 「わたしたちを憐れんでください」と10人の病気を患っている人達はお願いしているのです。神様の御心の中に入れてくださいと求めているのです。それに対してイエス様は、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。聖書には病気であったり、怪我をした場合、祭司の証明が必要です。病気に関する規定はレビ記に細かく記されています。祭司は規定に従って病気の判断をするのです。規定通りに治っていれば、祭司の証明によって、社会に対して治ったことを宣言できるのです。10人はイエス様の言われた通りに祭司のもとに向かいました。イエス様の言葉を信じたので、行く途上で癒されたのでした。そのまま祭司のもとに行き証明されればよいのです、ところが一人の人は、自分が癒されたことを知り、すぐさま戻ってきました。そして、イエス様の足元にひれ伏して感謝したのでした。この戻ってきた人はサマリア人でありました。つまり外国人です。聖書の人々であるユダヤ人こそ神様の憐れみを感謝しなければなりません。祭司に証明されて社会の中で再び生活できるようになりましたが、そこには神様の憐れみがあったからです。「イエス様、私たちを憐れんでください」との叫びは応えられたのです。しかし、ここには、神様の憐れみを求め、憐れみが与えられると、その神様の憐れみを忘れてしまう人々のことも記されています。

 聖書の人々に対して、私達も外国人です。しかし神様の憐れみが私達に与えられ、今は主イエス・キリストの十字架の救いを信じる者へと導かれています。その信仰により、外国の皆さんとも親しくお交わりが導かれているのです。
 日本の私たちは、決して豊かではありませんが、まあまあ普通の生活をすることができています。しかし、苦しく生活している人々もあり、必ずしもみんなが普通の生活をしているとは言えません。世界の人々の中には本当に苦しい生活をしている人々がいます。難民の人々が紹介されますが、本当に気の毒だと思います。どうして自分の国で安心して生活できないのかと思います。そしてまた、自分の国にいながらも苦しい生活をしている人々がいます。それらの人々を救済する団体がいくつかあります。それらの団体から支援の協力の手紙が来ています。苦しい生活の人々の生活状況を報告しています。中でも赤ちゃんや子供たちの救済ということで支援を求めています。それらの報告書を見ると、支援しなければならないことを示されるのです。「国境なき医師団」という組織があり、そこからも支援募金の要請が来ています。この団体はお医者さんたちが、困難な状況の人々の医療活動をしているのです。貴い働きだと思っています。以前協力したことがありました。そのためか、今回、協力要請の手紙が寄せられました。その手紙には、それまでの支援の感謝が品物が入っていました、ボールぺンとカードでした。ボールペンは結構よいものであると示されています。何となく割り切れないのは、困難な人々を救済するための活動している人々です。3000円で130人の治療ができるとか、10000円で300食の栄養治療食を準備することができるということでした。割り切れない思いは、このような記念品でもあるボールペンなんか送ってこないで、その費用で救済事業に充てたらよいと思うのです。記念品を送ってきたのは、もちろん私だけではありません。それこそ多くの人々に送ったのですから、かなりの費用になったと思います。このような記念品を送られなくても、支援する人は支援するでしょう。
 イエス様に憐れみを求めた人々は、癒しを求めたのではありませんでした。自分の存在を神様が覚えていただきたいということなのです。今、この世に生きている自分の存在が、真実に生きる者へと導かれたいのです。そして、その願いがかなえられたとき、おのずと賛美の歌がささげられるのです。私たちは神様の憐れみをいただいているのです。その喜びの賛美をささげながら歩みたいのです。数えてみなさい主の恵みという言葉に示されながら、憐れみを喜びたいのです。
<祈祷>
聖なる神様。神様の憐れみによりお救いくださり感謝致します。神様の憐れみを数えつつ歩ませてください。キリストのみ名によりおささげします。アーメン。

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