説教「喜びの人生」

2022年11月13日、六浦谷間の集会

「降誕前第6主日

                      

説教・「喜びの人生」鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記3章1-15節

   ヘブライ人への手紙8章1-13節

   ルカによる福音書20章27-40節

賛美・(説教前)讃美歌21・194「神さまは、そのひとり子を」

   (説教後)讃美歌21・484「主われを愛す」

今朝は幼児を覚えつつの礼拝であります。教会に集う子ども達がまさに信仰の人生へと導かれ、生涯を通して祝福の人生を歩むことを祈るのであります。前任の大塚平安教会時代は幼子祝福礼拝としていました。当初は、幼稚園の子供たちを礼拝に招き、祝福式を行いました。4、50人の子供たちに祝福のお祈りをするのは大変であり、次の年からは、幼稚園児は週日に招いて祝福式を行うようになりました。ですから教会における幼子祝福礼拝は、毎年2、3名の幼児に祝福を与えるようになりました。幼子を覚え、お祈りする日として、意義ある礼拝であったと思います。

教会は幼児洗礼式と幼児祝福式を行います。幼児洗礼式は幼児の保護者が信者であり、幼児が成長して自分で信仰の告白ができるまで、祈りつつ信仰の成長を導く保護者の決心として子どもに洗礼を授けます。従って、子どもの意思ではなく、保護者の意思であります。子どもは教会に連なりながら成長し、主イエス・キリストの十字架の救いを自分の救いとして受け止めるとき、信仰告白式をいたします。または堅信礼とも言います。大体、中学生や高校生になって堅信礼を受ける場合が多いのです。しかし、幼児洗礼を受けているものの、成人しても、または生涯信仰告白をしない人もいます。それに対して幼児祝福式があります。この幼児祝福式は、いわゆる七五三的な祝福ではありません。幼児洗礼を授けないものの、やはり神様のお心にあって成長してほしいという保護者の願いであります。保護者が信者の場合に限らず、信者でなくても幼児祝福式を執行しています。幼児洗礼は子どもに負担をかけるのではないかとの思いで、幼児祝福式に臨む保護者もおられるのです。祝福を受けていることが、子どもを励まし、いよいよイエス様のお心に導かれて歩むことを祈る次第であります。

 今朝の旧約聖書出エジプト記3章であります。神様がモーセに対して、苦しみに生きる人々を救済させるために、その任を負うように迫っているのであります。モーセはもともとエジプトで奴隷として生きている夫婦から生まれました。その頃、エジプトの王様は、自分の国にこれ以上外国人であるイスラエル人が増えていくことの恐れを抱き、生まれてくる男の子を殺害していました。モーセの両親は心を痛め、箱舟に赤子のモーセを入れてナイル川に隠すのであります。その箱舟を拾ったのが王の娘でした。娘は奴隷の子供と知りながら自分の子どもとして育てるのであります。従って、モーセはエジプトの王子として成長するのであります。モーセは自分の境遇を知るようになり、同胞がエジプト人に苦しめられている現場で、思わずそのエジプト人を殺してしまうのです。そのことが露見し、モーセはエジプトを追放されたのでした。苦しい砂漠の旅の末、行き着いたところがミディアンの地でした。そこでエトロの娘と結婚し、羊の群れを飼う牧者となり、平安な日々を過ごしていました。ある時、神の山と言われるホレブに来ました。シナイ山とも言います。そこで神様はモーセに声をかけるのです。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオの元に遣わす。わが民イスラエルの人々を連れ出すのだ」と神様はモーセに命じるのであります。しかし、モーセは「どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々を導き出さねばならないのですか」と答えています。エジプトの力強さを良く知っているからです。そのエジプトから追放されてきたのです。

 神様の励ましを受けたモーセはようやく決心するのですが、不安があります。「わたしは、今、イスラエルの人々のところに参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」とモーセは言いました。モーセ自身も神様については知らないのです。先祖の神が今も導いていることは信じています。しかし、具体的には神様を知らないのであります。その時、神様はご自分を示されました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました。「わたしはある」という方が神様のお名前なのです。この名を第三者的に言うと「エホバ」となります。昔からエホバの神様として私たちも知っています。しかし、この読み方は正確ではなかったようで、「ヤハウエ」という呼び方になっています。

 神様のお名前は「わたしはある」ということです。生きて働く神様を意味しているのであります。神様は目には見えませんが、「有る」というお方なのです。それに対して、偶像なる神は、形があって見えていても、実態がない神なのです。「有る」神様だから、今苦しみ、悲しみつつ生きている人々を受け止め、導いてくださるのであります。モーセは、その後も、口下手であるからとか、理由を付けて辞退しようとしますが、神様はそのモーセを励まし、エジプトへと遣わされたのでありました。エジプトにおける救済物語は割愛しますが、「有る」神様はあらゆる導きを示し、ついに約束の乳と蜜の流れる土地へと奴隷の人々を導かれたのでありました。「有る」神様は昔のアブラハムの時代、イサクの時代、ヤコブの時代の神様でした。そして、今、「有る」神様として苦しみに生きる人々の神様なのであります。生きている者の神様がエホバの神様であるということです。

 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」と主イエス・キリストは示されています。新約聖書ルカによる福音書20章27節以下が示されています。サドカイ派の人々がイエス様のもとにきて尋ねました。サドカイ派の人々は復活を否定しています。それで、極端な例をあげながらイエス様に質問するのです。聖書の世界には「家名の存続」の掟があります。その家が絶えることなく、子孫を残していくためであります。これは旧約聖書申命記25章5節以下に示されていることです。サドカイ派の人々はその掟をまず引用します。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない」という掟です。そして尋ねたことは、7人の兄弟がいて、兄が結婚しましたが、子供ができないで死んでしまいます。だから弟が兄の嫁と結婚しますが、弟も子どもができないまま死んでしまいます。その後、兄弟たちが兄嫁と結婚することになるのです。最後に兄嫁も死んでしまいます。問題は復活した時、その女性は誰の妻になるかということです。面白い質問ですが、切実な問いでもあるでしょう。

 サドカイ派の人々の意地悪な質問に、イエス様は見事な答えを示しています。「復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことはない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として、神の子だからである」と示されたのであります。この世に生きているので、結婚して子供が与えられるのです。復活の世界は霊の世界ですから、肉体的な愛というものはありません。生きているから愛し合い、あるいは憎しみをもってしまうのです。愛し合う二人が、両親から許されず、自殺してしまうのです。天国で幸せに生きることが願いであるのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とイエス様はお示しになっておられます。この世で二人の愛が許されないのであれば、心を合わせて神様にお祈りすることです。神様は良い導きを与えてくださるのです。幸せはこの世に生きている時にいただかなければならないのです。「生きている者の神」様は、御心におとめくださるのです。「有る」と言われる神様は、私の現実におられる方なのです。神様は彼方にいて、「お出で、お出で」と言ってておられる神様なのではなく、「有る」神様として、私たちと共にいて歩んでくださる神様なのです。

 NHKテレビで、示されていることは、障碍者の一生懸命な姿です。オリンピック、パラリンピックが日本で開催されましたので紹介していると思いますが、オリンピック選手よりパラリンピックの選手の紹介が多いと思います。また選手に限らず、ハンディキャップを持つ皆さんの力強い活躍等が紹介されることが多くなっています。良いことだと思います。またパラリンピックの選手が小学校や中学校を訪問し、このような状態でも競技に参加できることをお話ししています。体験する子供たちも紹介されていました。人間はどのような状態であろうとも、みんな共に歩むことなのです。そのためにはハンディキャップを持つ人々との交流は大切であります。いろいろな方面のハンディキャップを持つ人々を知ることは大切なことなのです。

 私たちはこの世に生きるものです。いろいろな人間の営みの中に置かれています。障害を持って歩んでおられる方もあるでしょう。私たちの現実に主イエス・キリストがおられることを知ることです。私たちは、つい自己満足に生きてしまいます。イエス様は十字架にお架りになり、私たちの中にある悪い姿を十字架により滅ぼされたのであります。そして、絶えず私の現実におられ、私と共に歩んでくださっているのです。神様は生きている者の神様であります。

<祈祷>

聖なる神様。私たちと共におられ、お導き下さり感謝致します。共におられる神様を人々に証しさせでください。キリストの御名により。アーメン。

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