説教「神様の御心を示されながら」

2018年7月29日、三崎教会 
聖霊降臨節第11主日

説教・「神様の御心を示されながら」、鈴木伸治牧師  
聖書・申命記10章12-22節
    マルコによる福音書9章42-50節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・361「この世はみな」
    (説教後)讃美歌54年版・507「主に従うことは」
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 暑い日々が続いています。この暑さは世界的でもあり、それぞれの国の被害が報告されています。日本でも熱中症で亡くなる方があり、いつも注意が呼びかけられています。先日の豪雨、今の酷暑と言い、平均してくれれば思うのですが、天気は私たちの思いを超えて変化しているのです。2013年のことですが、マレーシアに滞在しました。マレーシアは赤道の近くにあり、暑い国でもあります。3月に出発して、三ヶ月滞在しました。クアラルンプール日本語集会のボランティア牧師として赴きました。3月に出かけたとき、日本はまだ長袖を着ていたのですが、マレーシアに着いたときは、さすがに暑いと思いました。しかし、室内に入るとエアコンが効いていることもありますが、そんなに暑さはありません。日本のように蒸し暑さはないのです。日陰に入れば暑さということはありませんでした。しかし、陽射しの中に居れば、照り付ける太陽で熱さを感じます。マレーシアは、だいたいお昼頃にはスコールがやってきます。雷がゴロゴロとなった後には大雨が降ることになります。30分から1時間くらいでスコールは止みます。その後は涼しくなるのです。何よりも道路も車もみんなきれいになります。それが毎日のことなのです。礼拝は、やはりスーツを着て講壇に立ったのですが、教会の皆さんはスーツを着なくても、半袖のシャツでもよいのですよと言ってくれます。しかし、礼拝堂は冷房が効いていて、半袖では寒いくらいなのです。冷房で冷やせば冷やすほど「ご馳走」なのだと言われるのです。マレーシアは暑い国なのですが、蒸し暑さがないので、すごしやすい国でもありました。
 この暑さの中にいると、旧約聖書に記されているヨナの物語が思われるのです。神様はニネベの町が悪徳栄えた国なので、ヨナを遣わして悔い改めさせようとします。ヨナは神様のご使命を聞くものの、ニネベではない別の方角の船に乗ってしまうのです。神様のご命令から逃げてしまうのです。ヨナが乗っている船が嵐に遭い、今にも船が沈みそうになります。その時、ヨナは、この嵐は神様のお怒りなのだと示され、船の人達に自分を海に放り投げるように言います。船の人たちは躊躇するのですが、この嵐で自分達も危ないことを知り、ヨナを海に放り投げるのでした。すると嵐はぴたりと止むのでした。ヨナは大きな魚に飲み込まれます。その大きな魚のお腹の中で、ヨナは悔い改めるのでした。そしたら魚はヨナを吐き出すのです。そこがニネベの町でした。ヨナはニネベの町中を歩き回り、悔い改めなければ神様の審判があることを宣べ伝えるのです。すると王様まで悔い改めたのでした。ヨナは高台に上がり、暑いので葉の茂った木の下でニネベの町を見下ろしていました。神様の審判を見るためでした。そしたら今まで葉が茂っていた木がたちまち枯れてしまい、日蔭が無くなります。ヨナは暑さの中でぶつぶつと文句を言うのでした。その時、神様の御心が示されるのです。「お前は木の葉が枯れたことで嘆いているが、私はニネベの人達の滅びるのを嘆いているのだ」と言われるのでした。木の葉が枯れて暑さを感じるのはあなたの責任なのだと示されたのです。
 世界的な暑さの中で、悲鳴を上げている私たちですが、この暑さはあなたの責任であると言われても、何が責任なのか分かりません。しかし、言われていることは地球温暖化ということです。人間の生活が地球温暖化へと向かっていることを思えば、世界の人々は悔い改めなければならないのであります。この暑さの中に、神様の御心があると言うなら、問題を感じますが、どのような時にも神様の御心をいただきながら歩みたいのであります。

 旧約聖書申命記が示されています。10章22節からでありますが、「神様が求められること」として内容を示しています。この10章では再び十戒が与えられたことが記されています。十戒が与えられたのは、エジプトを出て、最初の宿営地、シナイ山の麓にいるときであります。モーセシナイ山に登り、40日間山上にいました。そのモーセ十戒が与えられました。この十戒により、人々を導きなさいということであります。人々はモーセシナイ山に登ったまま、なかなか降りてこないので、人々は自分たちの中心となるものとして「金の子牛」、偶像を造り、その周りで踊り狂ったのであります。そこへモーセが下山しました。偶像の前で踊る人々を見て、モーセは石の板に刻まれた十戒を投げ付けて砕いたのであります。これによって、神様からいただいた十戒はなくなってしまったのであります。その後、神様の招きのもとに、モーセに再び十戒が与えられました。その十戒をもとにして、人々にお話をしているのが今朝の聖書であります。
 申命記モーセの説教であります。申命記の「申」は「重ねて申す」という意味でありまして、神様の恵みと導きを、繰り返し人々に示すのであります。「神様が求めておられること」として、たえず「神様の御心を示されながら」歩むことを示しているのです。
 「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂をつくしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」とモーセは示しています。神様が聖書の人々に求めておられることは、「あなたが幸いを得ることだ」というのです。そのために、神様は人が生きる基本的な生き方を示しておられるのです。「主を愛し、心を尽くし、魂をつくしてあなたの神、主に仕える」こと、そして「主の戒めと掟」を守ること、それが幸いを得る道であるというのです。主の戒めと掟は十戒に示される通りであります。「あなたの父母を敬いなさい」「あなたは殺してはなりません」「あなたは姦淫してはなりません」「あなたは盗んではなりません」「あなたは偽証してはなりません」「あなたは隣人の家を欲してはなりません」ということが戒めなのであります。戒め、戒律というので、さぞ難しいことであろうかと思いますが、人間が生きるに基本的な指針であります。戒められなくても、当たり前のことなのです。しかし、神様は戒めとして示しているのであります。当たり前のことでありますが、人間はこの当たり前のことが守られないということであります。
 モーセは、さらに神様の導きを語ります。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」と示しています。人として共に生きること、なかでも困難な状況に生きる人を顧み、共に生きなさいと示しているのであります。これが神様に従う道であります。神様に従う道は、自分だけの祈りではなく、「我らに」と祈ることなのであります。
 「神さまが求めておられること」を常に示されながら生きるということです。それは戒めを実践しつつ生きるということであります。私の生き方の中には、「神さまが求めておられること」と共に「母が私に求めたこと」が常に根底をなしています。私の母の名は「ハナ」であります。母の証しは既にお話しています。母が入院しているとき、6月の第二日曜日に近くの教会学校の子供たちが花を持ってお見舞いしてくれました。6月の「花の日」に花を持ってハナさんを見舞ってくれたということです。花を贈られたハナさんは深い感銘を与えられ,退院しますと私をその教会学校に連れて行きました。その頃の私は小学生の3年生でした。花を贈られた礼を述べ、「これからこの子が毎週来ますから、よろしくお願いいたします」と挨拶しているのであります。それから日曜日になると母は私を教会学校に送りだしたのであります。母は自分が教会に行くというのではなく、子どもを教会に通わせることでありました。大人になって振り返ったとき、母が私に求めたこととして、その頃を思い出しているのであります。母の願いは、自分の子供も人様に喜んでもらう、そういう人になることであります。自分を喜ばしてくれた子ども達、自分の子供もそのようになってもらいたい、そのためには教会学校に通わせることでありました。その教会学校は神様が求めておられることを子どもたちに教えていたのであります。私は母の願いである「人様に喜んでもらう人になる」には、まだまだ途上でありますが、神様が求めておられることを常に示される、その働きの場に遣わされていることを感謝しています。

 「神さまが求めておられること」を真実受け止め、主に従うことを示されているのは主イエス・キリストであります。イエス様は私たちに「神さまが求めておられること」を教えてくださいました。神様の御心であるイエス様に従うことが、祝福の歩みであると示されるのであります。イエス様は一般の人には優しく、分かりやすく神様の御心を示されていますが、「神さまが求めておられること」の歩みをするとき、すなわち「主に従う道」を歩もうとするなら、イエス様は厳しく求めておられるのであります。ルカによる福音書にも「弟子の覚悟」がイエス様のよって示されています。ルカによる福音書9章57節以下に示されています。イエス様が歩いていると、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と言う人がいました。するとイエス様はその人に「私に従いなさい」と言われました。ところがその人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と言うのです。それに対してイエス様は、「死んでいる者たちに、自分達の死者を葬らせなさい」と言われるのです。何か冷たい言い方ですが、「死んでいる者たち」というのは、神様の御心を無視している人たちでもあります。別の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言うのでした。するとイエス様は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われたのであります。イエス様に従うと言いながら、いろいろな関わりを気にしており、あるいは置かれている状況が気になるということ、そのようなことでは真に主の道を歩むことにはならないと示しているのであります。ここではイエス様に従うことの厳しさを示されています。
 このように人々はイエス様の導きを喜びながらも、いつも自分の況を考えているのです。イエス様のお招きに言い訳をしている人々に対して、イエス様に声をかけられ、すぐさま従ったのはイエス様のお弟子さん達でありました。イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いていると、ペテロさんとアンデレさんが、二人は兄弟で漁師であり、魚を取っているところでした、その彼らにイエス様が「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。彼らはイエス様の言われている意味を理解しないまま、今している仕事を止め、イエス様に従ったのです。「二人はすぐに網を捨てた」と記されていますから、生活のこと、今の状況を考えもせずイエス様に従ったのです。ルカによる福音書には、いろいろと理由を述べてイエス様に従わない人を示していますが、その点、お弟子さんたちは何もかも後にしてイエス様に従ったのでありました。
 今朝の聖書、マルコによる福音書9章42節以下は、もっと厳しく「神さまが求めておられること」に従うことを示しています。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と示しています。「小さな者」とは信仰的にあるいは社会的に弱い立場にある人と言うことができます。弱い立場の人を「神さまが求めておられること」から遠ざけてしまう人、人をつまずかせることであると言います。その後に書かれていることは、自分の体の一部分が、自分をつまずかせるのです。すなわち片方の手、片方の足、片方の目が私をつまずかせるのです。体の一部を通して誘惑が入りこむということなのです。私たちは自己満足という罪の存在をどうしても取り去ることはできないのであります。「神さまが求めておられること」はいつも示されていますが、自分を満足させることが優先されてしまうのです。

 私は青年の頃、今朝のイエス様の御言葉が、重く示されていました。悪いところがあれば、取り去って捨てなさいとイエス様は示しているのです。私はお酒というものを嫌いではありません。お酒を飲むようになったのは、この青年の頃であります。それも、やはり母のハナさんに関係するのです。我が家の台所の戸棚の中にぶどう酒があることでした。父はお酒を飲まなかったので、何故、我が家にぶどう酒が置かれているのか、その頃は考えもしませんでした。ある時、一口飲んでみたのです。青年の頃ですが、初めて口にしたぶどう酒であり、とてもおいしく感じたのです。それからは、誰にも分らないようにして、一口ずつ飲んでいました。誰にも分らないようにと言っても、一口ずつ飲んでいれば、だんだん少なくなっていくわけで、ついに瓶は空になってしまうのです。その頃、ひそかにぶどう酒を飲む自分が、いかにも罪深く感じました。そして、イエス様の厳しい御言葉に触れ、ぶどう酒に手を伸ばして飲むのだから、この手を切ってしまおうか、等と真剣に思っていました。それでいてぶどう酒に手を伸ばしていたのですから、罪深い自分であると示されていました。もうないのだと思いつつ、戸棚を開けてみると、空瓶ではないぶどう酒が置かれているのです。ぶどう酒がなくなる、母はその原因を分かっていたようです。お酒を飲まない父に対して、子どもの酒飲みを理解していたようです。その後、神学校に入ってしまいましたので、盗み飲みはなくなりましたが、母は信仰を励まし、体の健康を励ましてくれていたのではないかと思っているのです。
エス様のお招きをいただいている私たちです。今朝の聖書は厳しく従う生き方を示していますが、何も難しいことはありません。「神様の御心を示されながら」歩むこと、それでいいのです。私の現実にイエス様が十字架の救いを置かれているのですから、その十字架を見つめて歩むことがイエス様に従うことなのであります。
<祈祷>
聖なる神様。神様が求めておられること、祝福の歩みへと導いてくださり感謝いたします。イエス様に従う道を力強く歩ませてください。主の御名によりささげます。アーメン。