説教「変えられて歩む導き」

2018年3月11日、横浜本牧教会 
「受難節第4主日

説教・「変えられて歩む導き」、鈴木伸治牧師  
聖書・出エジプト記24章12-18節
    マルコによる福音書9章2-10節
賛美・(説教前)讃美歌21・298「ああ主は誰がため」
    (説教後)讃美歌21・393「こころを一つに」

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 本日はこちらの教会の講壇に立たせていただいていますが、今回で終わりとなりますので、いろいろと思わせられながら立たせていただいています。もともと私は本牧の地とは無縁のように思えました。私が高校生の頃、1955年の頃ですが、一度、この本牧の土地に来たことがありました。どこであったのかは覚えていませんが、友達のお姉さんが本牧に住んでいるということで、彼がそのお姉さんに用事があるというので、一緒に、たしか市電であったと思いますが、来たことがあります。それ以外はほとんど機会がありませんでした。しかし、柿沼先生の御葬儀の時、私は大塚平安教会の牧師でしたので、列席するため来たことがあります。ほとんど訪れたこともない本牧でしたが、大塚平安教会出身の森田牧師がこちらの教会のお招きをいただき、それが縁で関わるようになったのです。森田牧師はお招きをいただいたものの、2010年の10月からでないと就任できないということです。丁度、2010年3月に大塚平安教会を退任することになっていたので、それでは10月まで、留守番牧師のつもりで代務者として就任し、早苗幼稚園の園長としても就任したのであります。ですから半年の間でしたので、瞬く間にその期間が過ぎました。
その後は隠退牧師として、ゆっくりと過ごすようになりました。スペイン・バルセロナに三回は滞在しましたが、合わせると半年は滞在したことになります。さらにマレーシアのクアラルンプールの日本人教会でボランティア牧師として三ヶ月滞在しました。隠退牧師として、与えられた自由な日々を楽しく過ごしていたのです。ところが、「また来い」と言われたのです。森田牧師が2016年9月に退任することになったので、次の牧師・園長が決まるまで10月から「来い」ということで、私は早苗幼稚園の園長として就任することになりました。それも一時的と思いました。おそらく翌年の4月からは新しい牧師が就任するであろうからと、再び半年の留守番園長と思っていました。しかし、4月からの新しい牧師・園長が決まりませんでしたので、一年間延長されました。留守番のつもりが一年半も園長を務めることになったのです。振り返ってみますと、私の早苗幼稚園の園長としての歩みは、2010年の場合は、森田園長が就任するための「お膳立て」であり、2016年からのお勤めは、「後始末」のために就任させられたとの思いになりました。そんな思いがありましたので、いろいろと気づかされたことをさせていただいたのでした。
今回は教会の牧師ではなく、幼稚園の園長でしたので、皆さんも私を友達のように接してくださったのではないかと存じます。その意味で、この一年半、皆さんとの良いお交わりが与えられたと思っています。牧師と信徒との関係ではなく、横浜本牧教会に関わるものとしてのお交わりが導かれたと思っているのです。その意味では「変えられて歩む導き」があるということを示されているのであります。私たちはイエス様にあって変えていただき、新しい歩み、祝福の日々の歩みへと導かれているのです。

 旧約聖書は「新しく変えられて歩む導き」が示されています。聖書の人々は400年間エジプトの国で奴隷でありました。その苦しみの声を神様がくみ上げ、モーセを通して奴隷から解放されたのであります。エジプトを出て荒れ野をさまよいますが、最初の宿営地がシナイ山のふもとでありました。宿営しているうちにもモーセは神様の導きをいただきまして、このシナイ山に登るのであります。もうかれこれ25年も昔になりますが、私も聖地旅行をしまして、そのツアーは最初にエジプトからシナイ山に向かいました。エジプトからシナイ半島をバスに乗り、かなりの距離であったと思いますが、ようやくシナイ山のふもとにつきました。もう夜になっていました。翌日は午前2時に出発してシナイ山に登るというのです。食事をしてからすぐに横になりました。うとうとしているうちに起きる時間になり、ガイドの人に暗い道を案内されて行きますと、ラクダの群れとラクダを扱う人がいました。ツアーのメンバーは20人くらいでしたので、一人一人がラクダに乗ってシナイ山を登って行ったのです。暗闇ですから、どんな道を通っているのかわかりませんでしたが、下山のときは登った道を歩いて降りてきたのですが、その道の険しさに驚きました。ラクダに乗っているにしても、こんなに険しい道を上るのですから、もう怖くて登れないのではないかとおもいました。シナイ山の八合目までラクダで登りましたが、最後は頂上まで歩いて登りました。かなりきつい道でしたが、暗いうちに頂上に達することができました。頂上から日の出を見ることが目的でもあったのです。暗い頂上でしばらく待っていました。結構、人がいるようで。あちらこちらで声が聞こえます。やがて東の空に赤いものが見え、あっという間に日が昇り、あたりが明るくなりました。その時、いろいろな声が聞こえました。賛美とも祈りとも、歓声とも思える声でした。その時、ツアーのガイドさんが、私にここで礼拝を司ってもらいたいというのです。突然のことですが、モーセが神様から十戒を授与される聖書については、意味深く示されていますので、そのくだりをお話ししながら、神様の救いの約束と新しい歩みへと変えられる、その始まりがシナイ山であることを礼拝説教としてお話したのでした。
エジプトを脱出し、このシナイ山に来た時、神様はモーセを通して十戒を与えました。新しい歩みへと変えるためなのです。最初に十戒を示されたとき、モーセに口頭で与えられたのです。それは出エジプト記19章から記されています。そして、今朝の聖書では、その十戒を石の板に刻まれて示されるのです。十戒は人々を救う基ですが、その救いの十戒を見える形で示されたということです。新しい歩みへと変える出発点でありました。
十戒は、最初に石の板に書き付けられたと思うのでありますが、最初は神様が直接モーセに、神様の言葉をもって示したのであります。モーセは示された言葉の十戒を人々に示し、神様の御心として守るように導くのであります。十戒を与えられたモーセは、その「契約」の示しを与えられます。すなわち神様の民として、神様の御心に従って生きてゆく戒めであります。今までの生活から「変えられて歩む導き」が始まったということです。
 モーセは、このように神様の言葉によって戒め、御心を示されてまいりました。今朝の聖書は、救いの約束である十戒が形あるものとして人々に与えられるのであります。12節「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」と神様はモーセシナイ山へと招いているのであります。モーセシナイ山に登りました。主の栄光がシナイ山にとどまっていたのであります。今まで神様の口をもって示されてきました御心、戒めは「変えられて歩む導き」の原点として与えられることになり、石の板に書き記され、人々の指針とされたのであります。石の板に記された十戒は、その後、箱に納められ、契約の箱として、荒れ野を彷徨する人々の前におかれたのであります。宿営をするときには幕屋といい、その中に納められました。幕屋を通して神様にお祈りを捧げたのでありました。十戒に向かうときには人々の心に救いの約束が与えられました。神様の御心へと導かれるからであります。神様の御心に生きることは、救いに生きることであるとは旧約聖書のメッセージあります。あなたは「変えられて歩む導き」を与えられていると示しているのが旧約聖書のメッセージなのであります。

 主イエス・キリストが「変えられて歩む導き」の原点であると聖書は示しています。受難節には主イエス・キリストの栄光の姿が示されます。それが今朝の聖書、マルコによる福音書9章2節以下の示しであります。「イエス様の姿が変わる」ことが示されます。今朝の前の部分の聖書は、イエス様がお弟子さん達の信仰告白を聞いた後、イエス様が苦しみを受け、十字架で殺されることをお弟子さん達に告げました。するとお弟子さんのペトロさんが、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエス様をたしなめました。するとイエス様は、人間的にしかイエス様を受け止めていないお弟子さん達を叱ったのであります。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とお弟子さん達に示されたのであります。
 今朝の聖書はそれから「六日の後」のことであります。イエス様はペトロ、ヤコブヨハネさんだけを連れて高い山に登られました。高い山と言っていますが、タボル山とかヘルモン山とも言われています。いずれも5、600メートルの山であります。山に登られるとお弟子さん達の前でイエス様の姿が変わりました。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」のであります。マタイによる福音書ルカによる福音書にも同じようにイエス様の変貌が記されています。マタイやルカはイエス様の顔が太陽のように輝いたと記していますが、マルコは顔の輝きについては触れていません。むしろマルコは真っ白に輝く服を強調しています、マタイの場合、服は「太陽のように白かった」と記しますが、マルコは「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と記しているのです。このことから人間の世界を超えた神様のご栄光が示されているのです。神様の栄光によって主イエス・キリストが光輝くお姿になっているのであります。
 栄光に輝くイエス様が昔現れた神の人達、エリヤ、モーセと語らっている姿をお弟子さんたちは見るのであります。ペトロは茫然となり、思わず言ったのであります。「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。すると雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」との声でした。弟子たちはあたりを見渡しますが、そこにはイエス様だけがおられたのであります。「これに聞け」と言われているのは、イエス様に聞くということであります。十字架への道を歩まれるイエス様に聞くということであります。自分の十字架を負いなさいとも言われたイエス様に聞くということであります。その十字架は神様の御心が示されているしるしの場であるのです。

 聖書からいろいろと神様の御心を示されています。その意味でも聖書を正しく読むことが大切であります。昔のことですが、聖書の集い、聖書を輪読したことがありました。出席されている人が順番に聖書を一節ずつ読むのです。マタイによる福音書4章にはイエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けることが記されています。その中にイエス様が悪魔の誘惑に対して、「退け、サタン」とイエス様が言うのですが、その部分を読んだ方は「退け、サンタ」と読んだのであります。読んだ方は気がつかないのですが、出席者は笑いをこらえるのが大変であったようです。もう一つ、間違えて読んだ方がありました。イエス様が捕えられて総督ピラトの裁判を受けます。ピラトが「どちらを釈放してほしいのか」と言います。人々は「バラバを」と答えるのです。バラバとは悪人として捕らえられている人です。その悪人を赦してイエスを十字架につけよ、と人々は叫んでいるのです。聖書を輪読しているのですが、そのバラバを読むとき、「バラバラを」と読まれたのであります。この時はみなさん思わず笑ってしまいました。しかし、「サンタ」と読んでも、「バラバラ」と読んでも、それなりにメッセージが示される様です。
 ところで旧約聖書の「十戒」と新約聖書の「十字架」を、もし間違えて読むとしたら、それは間違いではなく正しい読み方なのです。旧約聖書十戒という言葉を十字架と読んでも良いのです。本質は同じだからです。十戒は人々が正しく生きるための教えであります。第一戒から第四戒までは、神様を中心にした教えです。神様を中心に、偶像を拝んではならない、神様の名をみだりに唱えてはならない、安息日を大事にしなさいという教えであり、要するに「神様を愛しなさい」という教えなのです。そして、第五戒から十戒までは人間関係における教えです。あなたの父母を敬いなさい、人を殺してはならない、盗んではならない、嘘を言ってはならないという教えです。要するに「隣人を愛しなさい」という教えなのです。イエス様は、この十戒を二つにまとめました。マタイによる福音書22章34節から40節に示されています。一人の律法の専門家がイエス様に、「どの掟が最も重要でしょうか」と聞きました。そこでお答えになっています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、これが最も重要な第一の掟であると示されました。第二も、これと同じように重要であるとして、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えておられます。つまりイエス様は十戒を二つにまとめられたのであります。神様を愛すること、人々を愛すること、この二つを守ることができるように十字架にお架りになったのであります。すなわち、十戒と十字架は同じであるということです。だから「十戒」を「十字架」と読み間違えても、それは間違いではないのです。十字架の縦の木は「神様を愛する」示しであり、十字架の横の木は「人々を愛する」示しであるということです。十戒を象徴的に示しているのが十字架であるということです。
 幼稚園は今週の15日に卒園式です。45名の子どもたちを送るのでありますが、卒園の修了証書を渡しながら、卒園する園児の頭に手を置き「神様を愛し、人々を愛する人になりますように」と祝福のお祈りをします。聖書は旧約聖書新約聖書も同じことを教えているのです。「神様を愛し、人々を愛する人になる」、そのように変えられて歩む導きを与えてくださっているのです。勇気を持って聖書に変えられる人生を歩みたいのです。
<祈祷>
聖なる神様。神様の御心である十戒と十字架をいよいよ仰ぎ見させてください。変えられて歩む道を導いてください。主イエス・キリストの御名によりお祈りします。アーメン。