説教「天の国に入るために」

2017年10月1日、六浦谷間の集会
聖霊降臨節第18主日」 

説教・「天の国に入るために」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記20章1-17節
    エフェソの信徒への手紙5章1-5節
     マタイによる福音書19章16-30節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版・217「あまつましみず」
    (説教後) 521「イエスよ、こころに宿りて」


 今年も秋の10月を迎えました。10月になって、もう一年なんだと思っています。それは現在の仕事、横浜本牧教会の付属、早苗幼稚園の園長を担うようになったのは昨年の10月からでした。ちょうど一年になるのです。当初は暫定的に今年の3月までと思っていたのですが、後任が決まりませんので、さらに延長され、来年の3月まで担うことになりました。昨年の9月まで横浜本牧教会の牧師であり、また早苗幼稚園の園長であった人が退任されましたので、暫定的に園長に就任したのです。実はこの幼稚園の暫定的な園長になるのは二度めになります。2010年3月に前任の大塚平安教会を退任したのですが、その4月から横浜本牧教会の代務牧師、そして早苗幼稚園の園長に就任したのです。横浜本牧教会も3月でそれまでの牧師・園長が退任しました。次に就任することになる牧師・園長は10月にならないと就任できないので、それまでの間、留守番的な役割で代務者と園長を担ったのです。次に就任する牧師・園長は大塚平安教会の出身でもあり、責任があると思いまして留守番牧師になったのです。就任した彼は6年間、牧師と園長を担ったのですが、退任することになり、次の牧師・園長が就任するまで、再び担うことになりました。しかし、今回は、教会は小林誠治先生を代務者とし、園長は私が担うことになったのです。早くも一年が経過しましたが、まだ余力があると思いますので、園長の務めを感謝しつつ務めています。
再び幼稚園の園長として歩むとき、子供たちとの出会いが何とも喜びであります。前回も証させていただきましたが、一人の園児から、「園長先生、からだ大事にね」と言われたこと、すごい元気が与えられています。子供たちがお互いの存在を見つめ、大切にしている姿を示されているのです。イエス様の御心によって成長する子ども達を応援したいと思っています。私は既に78歳になっていますが、今でもみことばに向かう歩みが導かれていますことを感謝しています。横浜本牧教会は代務者の牧師がおられますが、月に一度、講壇に立たせていただいています。また、毎月ではありませんが、隔月に一度、三崎教会の講壇に立たせていただいています。その他は、六浦谷間の集会としての礼拝を、原則夫婦二人でささげています。この六浦谷間の集会も、2010年4月から9月まで、横浜本牧教会の代務者、早苗幼稚園の園長の職務が終わり、さてこれからはどうしようかと夫婦で話し合っていました、そして導かれましたのが六浦谷間の集会であったのです。2010年10月からは無任所牧師であり、しばらくは私の出身教会、清水ヶ丘教会に出席したり、連れ合いのスミさんの出身教会、高輪教会に出席したり、そして大塚平安教会や横浜本牧教会の新牧師の就任式で、それぞれの教会に出席したりしていました。一通り、それらの関わりの義務を果たしましたので、11月28日を持ちまして六浦谷間の集会を始めたのです。
当初は大塚平安教会の小澤八重子さんが近くの追浜に住んでおられましたので出席されました。また、田野和子さんが瀬谷に住んでおられましたが出席されました。小澤さんは昨年召天され、田野さんは北海道に帰られました。今は、時々、我が家の子供たち、また知人が出席しています。結局、私は2010年3月に大塚平安教会を退任し、4月から9月までは横浜本牧教会で務め、その後は無任所牧師、そして隠退牧師になりましたが、隠退しても毎週、日曜日の説教の御用が導かれているのです。むしろ、現役時代は、時には他の牧師を招くので説教のお休みがありましたが、隠退後は毎週、休むことなく、毎週のように礼拝説教の務めを導かれているのです。
 私はこの10月6日に、高校3年生のとき洗礼を受けました。そして、伝道者として今日まで歩んでまいりましたが、今朝の説教で示されるように、「天の国に入るために」、神様がこの道を導いてくださっていると示されているのです。私達の人生は「天の国に導かれるために」あるのです。いよいよ御言葉に向かいつつ歩みたいのであります。

 聖書の人々はエジプトの国に住むこと400年であります。その多くの年月を奴隷として生きなければなりませんでした。前週は神様のお導きによるヨセフ物語を示されました。神様は聖書の人々を生き残らせるために、ヨセフを家族より先にエジプトに渡らせ、エジプトの大臣にさせます。大飢饉が始まり、ヨセフの父親、ヤコブの一族もエジプトに住むようになるのであります。年月が流れ、エジプトの国に外国人である聖書の人々が住んでいる経緯を知らない王様の時代になります。次第に多くなっていく外国人に脅威を持つようになります。それにより聖書の人々を奴隷にしてしまうのであります。奴隷として苦しみつつ生きる聖書の人々を神様が救済いたします。モーセという指導者を立て、エジプトを脱出させたのであります。モーセは奴隷の人々を救い出す大きな役目がありましたが、それと共に、聖書の人々が神様の「約束」をいただいて生きるように導くことも、大きな使命でありました。奴隷の国エジプトを脱出し、神様の示す乳と蜜の流れる土地へと旅立つのでありました。そして、最初の宿営地がシナイ山の麓でありました。しばらくそこに宿営するのでありますが、モーセは導かれるままにシナイ山に登ります。
 シナイ山はほとんどが岩の山です。私達は山と言えば、樹木が生い茂り、谷の沢があり、お花畑等を連想します。かなり高い山でも、頂上や峰には草木が生えています。しかし、このシナイ山は麓から岩の山であります。以前、聖地旅行でこのシナイ山に登りました。夜中の2時頃出発します。ラクダに乗っての山登りですから、まさに楽な登山でもあります。夜ですから周囲の状況がどのようになっているのかわかりませんでした。頂上の手前でラクダを降り、最後のきつい登山をして頂上に着いたのでありました。まだ暗闇です。やがて遥か彼方の雲が明るくなりました。それと共にシナイ山も明るくなり、一斉になにやら叫びとも、祈りとも、歌とも思える声があちらこちらで聞こえてきました。イスラム教、ユダヤ教キリスト教の人々なのであります。参加したツアーの責任者が突然、私に礼拝を担当してくださいというのです。突然でありましたが、神様がモーセを呼び寄せ、このシナイ山の麓で御自分を証しされたことをお話しいたしました。神様は「有ってある者」としての存在であるのです。それはエジプトの奴隷解放に赴く前でした。そして今、解放された聖書の人々をこのシナイ山の麓に宿営させ、モーセは「有ってある」神様のもとへ来たのであります。それがシナイ山でありました。私たちも「有ってある」神様にまみえていることをお話ししたのであります。礼拝が終わり、三々五々、下山しましたが、細い道の傍らは断崖絶壁のようなところをラクダに乗って登ってきたのです。昼間でしたら、ラクダに乗っていても怖くてたまらなかったと思いました。
モーセはこのシナイ山で神様の約束「十戒」をいただきました。その「十戒」を出エジプト記20章1〜17節において示されています。「神はこれらすべての言葉を告げられた」のであります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とまず示しています。これが第一戒であります。聖書の人々を導く神様がどのようなお方であるかを示しています。今では考えられないような状況から救い出してくださった神様なのであります。しかし、今でも困難な状況です。荒野をさまよう、身の落ち着き場がない今の状況ですが、神様が今の状況を顧みられて導いてくださっているのです。この十戒の第一戒こそ、現代に生きる私たちの根源なのであります。私達も導き出されたものです。そして、導きを今与えられているのです。「あなたの神」であると言われ、あなたを導いていると言われています。
3節から6節までが第二戒になります。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と示されています。6節までは偶像崇拝を禁じています。導きの神様を示されながら、心を他に向けることがないように戒めています。
第三戒は7節になります。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」との示しであります。神様のお名前はYHWH(ヤハウエ)であります。「有ってある」存在の意味です。しかし、「みだりに主の名を唱えてはならない」との戒めがありますので、神様のお名前を言わないで、「アドナイ」というようになりました。アドナイとは「主」という意味です。文語訳聖書には神様のお名前はエホバと書かれています。昔はYHWHをエホバと読みました。しかし、今日はヤハウエと読むようになっています。口語訳聖書になった時点で「エホバ」を「主」と訳すようになりました。従って、新共同訳聖書のどこを読んでも神様の固有名詞が出てこないのです。十戒の示しに従っているということです。
8節が第四戒で、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」であります。神様は天地万物をお造りになり、七日目、土曜日にお休みになられたので、人間も神様の創造の御業、恵みを賛美しなさいとの教えでありました。土曜日の安息日は絶対的なお休みの日でありました。しかし、今日、私達は日曜日をお休みとし、礼拝をささげています。それは主イエス・キリストが日曜日にご復活されたからで、復活の主を礼拝する日が日曜日なのであります。
このように第一戒から第四戒までは神様を覚える戒めであります。そして、第五戒から第十戒までは人間関係における戒めであります。第五戒は「あなたの父母を敬え」であります。父母は何よりも神様のお心を多く示されているのであり、その父母から神様のお心を示されなければならないのであります。第六戒は「殺してはならない」、第七戒「姦淫してはならない」、第八戒「盗んではならない」、第九戒「隣人に偽証してはならない」、第十戒「欲してはならない」と教えられています。
人間関係における戒めは、戒めというより、当たり前のことであります。しかし、人間はこの当たり前の生き方ができません。実に旧約聖書の世界は、この当たり前の生き方を、神様は戒めとして示しました。このことは人間の普遍的な生き方の基であるのです。主イエス・キリストもこの基本的な人間の生き方を戒めとして与えているのであります。

 新約聖書はマタイによる福音書19章16節から30節で、永遠の命を受ける道筋をイエス様が教えておられます。一人の男が「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねました。それに対してイエス様は、「命を得たいのなら、掟を守りなさい」と示しました。男が「どの掟ですか」と尋ねるので、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分ように愛しなさい」とイエス様は示されました。すると男は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言いました。聖書の人々は生まれたときから十戒を徹底的におぼえさせられます。十戒ですから10本の指を折り曲げながら十戒を唱えるのです。唱えるということは守ることでもありました。しかし、イエス様は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と示されたのであります。イエス様が十戒を示したとき、一つの戒めは言いませんでした。第十戒にあたる「欲してはならない」の戒めです。「あなたには欠けている物がまだ一つある」と言われたとき、イエス様は十戒の一つを言わなかったのですが、言わなかった理由が「欠けている物」でありました。人間の根本的な自己満足、他者排除の姿であります。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」と言われたとき、非常に悲しんだと記しています。悲しんでいる姿を見ながらイエス様は、「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたのであります。人間的に考えれば、ラクダが針の穴を通ることなんて考えられません。まず、不可能と思います。そんなことは絶対にできないと思うのです。しかし、それに対して、「人間にできることではないが、神は何でもできる」とイエス様は示されたのでありました。

 ラクダが針の穴を通ることに対して、26節に「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と示しています。「人間にできることではない」と言われますが、それは第十戒の「欲してはならない」を守ることができないことです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」の五つの戒めは守ることができます。だから、イエス様に質問した人は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか」ということができました。その時、イエス様は第十戒の「欲してはならない」を言いませんでした。これを示すなら、「みな守っている」とは言えないのです。人間の自己満足、他者排除が実に「欲してはならない」の戒めになっているのであります。人間には「欲してはならない」を守ることができませんが、だから神様は主イエス・キリストにより、守ることができるように導いておられるのです。針の穴を通ることができるように導いておられるのであります。主イエス・キリストの十字架の救いに導かれている私たちは、「自分を愛するように、隣人を愛する」ことを実践しつつ歩んでいます。
自分の至らぬ姿はよく知っています。自分の弱さをよく知っています。困難に生きています。悲しみに生きています。苦しい状況を生きています。神様はおできになります。私を新しい歩みへと導いてくださるのです。今、案じていること、不安の思いを持って取り組んでいること、神様はおできになります。「欲してはならない」の第十戒をしっかりと受け止め、第十戒を守ることができるように十字架にお架かりになった主イエス・キリストを仰ぎ見つつ歩むことなのです。新しく生きることができるのです。「神の国に入るために」イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることです。十字架を見つめるほどに、イエス様の御心が示されて来るのです。神の国に入ることができるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。御心をくださり、日々、新しく生きることができ感謝致します。新しく生き、み栄えをあらわさせてください。イエス様の御名によりおささげ致します。アーメン