説教「神様のお恵みは気前よく」

2017年10月8日、横浜本牧教会
聖霊降臨節第19主日」 

説教・「神様のお恵みは気前よく」、鈴木伸治牧師
聖書・コへレトの言葉3章9-15節
    マタイによる福音書20章1-16節
賛美・(説教前) 讃美歌21・402「いともとうとき」
    (説教後) 510「主よ、終わりまで」


 10月の歩みをしておりますが、何かと忙しい日々であると思います。教会におきましても、前週の10月1日は世界聖餐日、世界宣教の日を覚えつつ礼拝をささげました。本日の8日は「神学校日、伝道献身者奨励日」であります。そして、次週の15日からは「信徒伝道週間、教育週間」を迎えます。いろいろな課題を示されながら、この10月は礼拝をささげるのであります。実は、この10月はもう一つ大事なことがあります。それは個人的なことでありますが、私の洗礼記念日であります。10月6日になりますが、その日は「世界聖餐日」でありました。洗礼を受けましたのは私が高校3年生のときであり、18歳のときでした。今年で60年を経ております。私は小学校3年生の頃から日曜学校に通い始めていますので、人生の殆どをキリスト教で生きて来たのでした。そして23歳で神学校に入り、1969年から牧師になりましたので、50年間は伝道者、牧師として歩んでまいりました。思うことは、本当に至らぬものですが、神様がお恵みを気前よく与えてくださるので、喜びつつ歩んで来られたと示されるのであります。
 10月6日は私の洗礼記念日でありますが、その辺りの事をお話しさせていただきます。小学生の頃は関東学院教会の教会学校に通っていましたが、中学生になってからは二人の姉たちが出席していた清水ヶ丘教会に出席するようになったのです。そして、高校生の頃、青年会の修養会が葉山で開催されましたので参加したのでした。プログラムの中で海水浴の時間がありました。皆さんと共に泳ぎを楽しんでいたのですが、いつの間にか皆さんは浜にあがってしまい、泳いでいたのは倉持芳雄牧師と二人であったのです。みんな浜辺にあがってしまったので、倉持牧師と共に浜に向かって泳いでいたのです。そのとき、今まで心の中でくすぶっていたものが口に出てしまいました。泳ぎながら洗礼を受けたいと牧師に申し出たのです。牧師も泳ぎながらの洗礼志願をびっくりされたようですが、喜んで受け止めてくれました。それが8月のことです。そして洗礼準備会をして10月6日に洗礼式執行となったのです。洗礼式の礼拝説教では、泳ぎながらの洗礼志願を長々とお話しされていました。
 私は自分の泳ぎながらの洗礼志願告白を示されるとき、神様の深いお導きがあるんだなあ、と思うのです。小学生のころ、友達と海に泳ぎに行きました。関東学院の前は、今は侍従川でありますが、昔は広い平潟湾でした。その平潟湾の野島側には運河が通っていて、船の通り道でもありました。そこで遊んでいたのですが、その頃はまだ泳げなかったのです。船から飛び込んだところが運河であり、立てる場所だと思っていたのが立てなく、そこでアップアップして溺れかけていたのです。そのとき思わず平泳ぎの真似事をしましたら、すぐに立てる位置になったのでした。もしかしたら溺れて死んでいたかもしれないと思っています。そして、泳ぎながらの洗礼志願は、そこに結びつくのではないかと思うようになっています。新しい命へとお導きくださる神様は、一度は死んだような私にお恵みを気前よくくださっていることを示されているのです。神様は私達にお恵みを気前よくくださっていることを、今朝の聖書を通して示されていのです。

 私達は自分の人生を顧みるとき、辛いこと、悲しいこと、苦しいことを数えることができますが、しかし、今の自分は神様が気前よくお恵みをくださっていると示されなければならないのです。今日までいろいろな「時」を迎えながら、そのために祈り、与えられた人生を歩んでまいりました。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と示しているのは旧約聖書コヘレトの言葉3章であります。新共同訳聖書になって「コヘレトの言葉」との題になりましたが、口語訳聖書では「伝道の書」と称していました。旧約聖書のコヘレトは「集まる」とか「集会を開く」という意味があります。そこで、集会で神様のお心を語るのでありますから、伝道者とも理解されるのであります。そのため「伝道の書」と称しましたが、1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されるので、コヘレトとは人の名前と理解するようになりました。ダビデの子とありますので、知恵者ソロモンではないかと考えられていましたが、そうでもなく、知恵ある人のニックネームとしてこの名が使われていると理解するようになっています。
 1章2節では「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と言っています。空しさを教えているようでありますが、神様の御旨のままに歩むことが示されているのです。神様の御旨の前にあっては、人間の計画、行動はまさに空しいと示しているのであります。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」とまず示されています。3章1節から8節までの中に「時」が28回出てきます。人生にはすべて「時」があるということです。「生まれる時、死ぬ時」と示しています。私たちは自分が時を定めて生まれてきたのではありません。そしてまた、自分が決めた時をもって死ぬのではありません。神様の大きな御旨なのであります。「植える時、植えたものを抜く時」と示しています。植える時期については人間の判断のように思えますが、種蒔きの季節、実りの季節は神様の導きであるのです。その後は対象的な時を示しています。「殺す時、癒す時」、「破壊する時、建てる時」「泣く時、笑う時」「歎く時、踊る時」があります。5節の「石を放つ時、石を集める時」は何を示しているのでしょう。聖書の国は石の国であります。建築にしても農作業にしても石が登場します。羊飼いは悪い動物が来たときに備えて投石用の石を用意しています。戦争には大きな石が投げられます。だから平和の時にはいつも石を備えるといわれます。「抱擁の時、抱擁を遠ざける時」と示します。抱擁は必ずしも愛し合う男女について述べているのではなく、家族や友達との抱擁があります。いわゆるハグと言いますが、日本では習慣化されていませんが、欧米では生活の一部にもなっています。何回かスペイン・バルセロナに滞在しました。いろいろな皆さんとのお交わりが与えられました。あちらで「オラ」が普通の挨拶の言葉ですが、ハグをしての挨拶も普通の習慣です。これらも神様の大きな御手の中にあることを示されています。その後の「求める時、失う時」、「保つ時、放つ時」、「裂く時、縫う時」、「黙する時、語る時」、「愛する時、憎む時」と対象の言葉が並べられています。
 このように「時」の流れの中におかれている人間でありますが、11節に示されるように、「神は時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」のであります。「永遠を思う心」と言われますと、永遠の生命を考えますが、旧約聖書ではその信仰はありません。「永遠を思う心」とは、時の流れを受け止め、一つひとつの出来事を認識し、歴史の流れを受け止めることができることを示しているのであります。歴史を顧みれば、神様の気前良い導きを示されるのです。それは神様の恵みを認識することであり、神様の恵みを喜ぶことができる人間として示しているのであります。「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ」と示しています。「空しい」と最初に示していましたが、空しいと思える時の育みの中で、やはり神様の恵みの時としての今があるということを示されなければならないのであります。そのように示されるならば、神様は気前よくお恵みをくださっていると示されるのであります。

 神様の御判断に身を委ねること、その生き方が「神様の気前良さ」をいただいていることなのです。新約聖書マタイによる福音書20章1節以下は「ぶどう園の労働者」のたとえをイエス様がお話されています。「天の国は次のようにたとえられる」としてお話しされました。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行きました。そこで、主人は一日につき一デナリオンの約束で労働者と契約し、働いてもらうのです。全体の文脈からして、労働者は朝の6時から働き始めています。その後、主人は再び広場に行くと、働く場がないので立っている人がいたので、「あなたたちもぶどう園で働きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と約束しました。主人は12時頃、3時頃に広場に行くと、まだ仕事が無くて立っている人がいますので、ぶどう園で働くようにしてあげます。そして5時頃に行くと、まだ立っている人がいます。それで、その人達にもぶどう園で働かせてあげるのです。仕事は6時に終わりました。主人は一番後に来た人達、5時から働いた人達から賃金を払いました。5時から来た人達は1時間しか働きません。主人はその人達に一デナリオンの賃金を払ってあげました。これが「ふさわしい賃金」なのです。この一デナリオンは朝6時から働き始めた人達との約束の賃金です。主人は9時から働いた人にも、12時から働いた人にも、3時から働いた人にも同じように一デナリオンの賃金を払いました。問題は朝6時から来て12時間働いた人です。渡された賃金は一デナリオンでした。自分は12時間も働いたのだから、1時間の人が一デナリオンなので、自分には沢山の賃金が支払われると思っていたのです。ところが払われた賃金はみんなと同じように一デナリオンでありました。そこでこの人は主人に不平を述べ、抗議します。不公平であるというわけです。「最後に来たこの連中は1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中と同じ扱いにするとは」と言うのです。すると、主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」というのでした。気前の良い神様を示されているのです。
 このたとえ話で示される「時」に注目したいのです。朝の6時から働き始めた人は、恵まれた人でありましょう。働くつもりで備えることができていたのです。ところが、おそらく9時頃でありましょうが、職を求めて広場に立つ人がいました。本来、求人関係は朝の6時であり、それよりも遅く広場に行かなければならなかった人の「時」の問題があるのです。何かの事情で遅くなったのか、働きたくないのでごろごろしていて、しかし働かなければならないので広場に行ったのか、いろいろ事情があるにしても、9時の「時」が重くのしかかっているのです。12時、3時の人も同じことが言えるでしょう。まして、5時の人は、ようやく広場に立つ「時」へと導かれたと思わなければならないのです。
このたとえ話はこの世的にはまさに不公平であります。しかし、イエス様は「天の国は次にたとえられる」としてお話しされたのであります。天の国に生きることの恵みであります。朝6時に働き始めた人は、そのような時を与えられたのであります。夕方5時に来た人も、そのような時が与えられているのであり、神様の恵みであります。神様の恵みを人間的に換算することに間違いが出てくるのです。神様は働き人、すなわち主イエス・キリストの十字架の救いを与えられ、主の御旨に生きる人々を同じように祝福なさいます。
すなわちどのような人も十字架の救いを信じるなら「天の国」に導かれるということです。この取り扱いをイエス様ご自身が「気前の良さ」と言っています。「天の国」に入るために、イエス様が「気前の良さ」を十分くださっているということです。

エス様の「気前の良さ」をいただいている私たちであると思わなければなりません。お導きを与えられている私達は、いろいろな人々との出会いが与えられています。出会った皆さんは、今朝の「ぶどう園の労働者」に示されるように、朝6時から主の御心に生きている人、9時の人は青年と言えるでしょうか、12時の人は働き盛りの人でしょう。3時の人は初老の人かもしれません。そして5時の人は高齢者なのかもしれません。どんな年代でありましょうとも、イエス様の「気前の良さ」を与えられて、十字架の救いを信じて、神の国に生きる喜びを与えられるのです。同じように一デナリオン、すなわち神様の祝福をいただくのであります。一人の方のお証を示されましょう。
前任の大塚平安教会時代、一人の老婦人が礼拝に出席されました。実は息子さんが教会員であり、信仰の生活をされていたのです。その姿を見つめていた婦人は、自分も教会に連れて行ってもらいたいと頼みました。その時、77歳でした。そして、その後は毎週礼拝に出席しました。その頃は戸塚に住んでいたのですが、自分で車を運転して出席していたのです。ところがお子さんたちが、高齢になって車を運転するのは危険であるということで、車を取り上げられてしまいました。そしたら、教会のすぐ近くに転居してきたのです。やがて洗礼を受けられました。ピアノを教える先生であり、教会学校の礼拝奉仕をしてくださっていました。85歳の誕生日に、お子さんたちがお祝いとしてニューカレドニアに連れて行ってくれたのです。きれいな海で、心不全で召天されました。この方がいつもお証しされていたことは、「神様は77歳になるまで待っていてくださり、そして救いを与えてくださいました。残りの人生が短くても、神様が今までお待ちくださっていたことが喜びです」ということです。
エス様の「気前の良さ」は私たちに与えられているのです。始めに私自身の証しをさせていただきました。人生の大半をキリスト教で生きてきましたことを証しさせていただいたのですが、説教の締めくくりとして、85歳で天に召された姉妹のお証を示されました。神様は、77年間も待っていてくださった、その喜びをお証された姉妹を示されるとき、神様の気前良さをつくづくと示されるのであります。神様がお待ちくださって、気前よく迎えてくださるのです。気前の良い神様に委ねて歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。私たちの状況に恵みのお導きを与えてくださり感謝致します。気前の良いイエス様のお恵み喜びつつ歩ませてください。主の御名によりささげます。アーメン。