説教「力を与えられる」

2024年2月11日、六浦谷間の集会

降誕節第7主日

                      

説教・「力を与えられる」、鈴木伸治牧師

聖書・申命記8章2-10節

   フィリピの信徒への手紙4章10-20節

   ヨハネによる福音書6章1-15節

賛美・(説教前)讃美歌21・290「おどり出る姿で」

   (説教後)讃美歌21・432「重荷を負う者」

 今朝は2月11日であり「建国記念の日」とされています。今朝は日曜日でありますので、明日の月曜日が振替祝日になっています。建国記念の日は祝日となっているのです。祝日を喜ぶわけですが、しかし、「建国」といわれましても、根拠のない建国なのであり、歴史的な経過というものがないのであります。もとは「紀元節」といわれていました。日本の歴史を示す「日本書紀」は、初代天皇の即位の日として1872年(明治5年)に制定されました。しかし、その後は廃止されたりしましたが、正式に「建国記念の日」として制定されるのは1966年(昭和41年)6月25日に成立したのでした。従って、建国記念の日として定められても、歴史が浅く、根拠もない建国なので、この日の意義がいつも問われているのです。外国では独立記念日として、共に喜びお祝いするのですが、日本の建国記念日は、何も喜びがないのです。

外国では独立記念日を建国の日としている国々がありますが、その場合には歴史の流れを示されながら国の始まりを示されているのです。そのため、キリスト教ではこの日を「信教の自由を守る日」として迎えています。各地で信教の自由を守る講演会、学習会が行われます。所によってはデモ行進まで行われています。前任の大塚平安教会時代、所属する湘北地区でも集会を開いていました。そういう中で講演会とか学習会も必要なのですが、何よりも神様にお祈りをささげることが大切なのであり、「信教の自由を守る湘北地区合同祈祷会」としての集会を開いていました。奨励をいただき、その後は三々五々集まり、祈祷をささげていたのです。何よりも神様にお祈りをささげ、御心を示されることが大切なのであります。神様から力を与えられて歩みたいのであります。

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と今朝の旧約聖書申命記8章1節以下で示しています。「知らせるためであった」というのは、人は神様の口から出るすべての言葉によって生きることであります。知らせるために奇跡をもって導かれているのです。神様は常に奇跡、人々にとっては不思議なことを与えながら人々を導かれておられるのです。

 申命記の書名は、ヘブライ語原典の書名は「これらは…ことばである」ということであります。日本語では申命記となっていますが、申命記の「申」には「重ねる」の意味があり、重ねて語られる命令ということで申命記となっているのであります。従って、申命記には重ねて、あるいは繰り返し主の戒め、教えが示されているのであります。そもそも繰り返し主の戒めを語るのは、指導者モーセでありますが、モーセは繰り返し主の戒めを語ることによって、モーセの使命を終えるのであります。モーセにエジプトで奴隷として苦しむ人々を救い出しなさい、との神様の使命が与えられました。モーセは躊躇しますが、神様の励ましと力、大いなる奇跡をいただき、奴隷の人々をエジプトから脱出させたのでありました。そして、40年間の荒野の旅があります。モーセは人々の不平不満の声を抑え、行く手に阻む諸問題を切り抜けながら、ついに神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地カナンにたどり着きました。今、その約束の土地を見つめながら、歴史を回顧し、神様の導きの奇跡を示し、主の戒め、教えを守るよう諭しているのであります。

 「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それをとることができる」と示しています。モーセは神様から使命を与えられたとき、二つのことをしなければなりませんでした。一つは奴隷で苦しむ人々を救い出すことです。それは果たされました。そして、次の使命は、救い出した人々に神様の御心を示すことでありました。神様の戒め、十戒を示し、しっかりと受け止めて守るように教えます。それによって神様を信じて生きる者へと導いたのであります。しかし、人々は示され、教えられても、なかなか守って生きることはできなかったのです。人は常に自己満足に生きるからであります。

 「あなたの神、主が導かれた40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」と示しています。奴隷の国エジプトを出て、まず困るのは食べ物でありました。そこで人々はモーセに詰め寄り、「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」というのでした。それに対して、神様はマナという食べ物を与え、荒れ野の40年間を養ったのでありました。さらに、飲み水がない状態のとき、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも乾きで殺すためなのか」と不平を言うのでありました。モーセは神様に言われるままに岩を打ちます。すると水が流れ出てきて人々の喉を潤したのであります。空腹を与え、渇きを与え、いろいろな困難を与えたのは神様でありました。それは人々が一層神様の導きを知るためなのであります。その都度、奇跡と思える「しるし」を与え、主の道を生きることの喜びを与えたのであります。まさに、この奇跡、「しるし」は神様のお恵みでありました。そして、それは困難のときにこそ、神様の戒めを守って生きる訓練でもありました。「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい」とモーセは教えています。

 主イエス・キリストは「永遠の命」を得させるために奇跡を与えています。今朝のヨハネによる福音書はイエス様が5,000人の人々を五つのパンと二匹の魚で養ったことを報告しています。このパンの奇跡はマタイ、マルコ、ルカによる福音書もそれぞれ報告しています。このヨハネによる福音書は、イエス様が山に上り、一休みしていると大勢の人々がイエス様を見つけて近づいてくる状況であります。そこで、イエス様は近づいてくる人々を見ながら、お弟子さんのフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」と言われたのであります。それに対しフィリポは、二百デナリオン分のパンを買っても足りないと答えます。一デナリオンというのは、聖書では一日分の日当にあたります。アンデレは二百デナリオンがあっても足りないと答えているのです。お弟子さんたちはこの世の秤でしかイエス様に答えられませんでした。それに対して、イエス様はこの世の秤、評価ではなく、神様の御心をお示しになったのであります。さらにお弟子さんの一人、ペトロの兄弟アンデレが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、なんの役にも立たないでしょう」と言うのでした。弟子達はまったく不可能を前提にしています。大勢の人々に対する、自分達の考え、秤で結論付けているのです。この時、アンデレにしてもフィリポにしても、あの最初の奇跡、カナの婚礼で水をぶどう酒に代えた、あの奇跡をどうして思い出さないのでしょうか。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とイエス様が言われたとき、「あなたならおできになります」と言わなければならなかったのであります。

 「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々は満腹した」と報告されています。こうして、日毎のパンを与えられたイエス様は、この6章34節で、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と示しています。そして、最後の晩餐では、食事のパンを弟子達に与えながら、今後はわたしの体と思って食べなさいと言われ、さらにぶどう酒を与えながら、わたしの血だと思って飲みなさいと示されたのであります。このことが聖餐式として、今に生きる私たちも恵みにあずかっているのであります。私たちは聖餐をいただく毎に神様の御心へと導かれるのであります。主イエス・キリストの奇跡は、私たちに力を与えてくださるのであります。

 私は84歳になっていますが、牧師として、幼稚園の園長として歩んでまいりましたが、自分自身を考えるとき、こんなに大きな働きをしてきたことをつくづく不思議に思っています。ですから自分を振り返るとき、奇跡の人生としか思えないのであります。神様が力をくださって、その働きを導いてくださったと示されているのです。私達はこのような自分に何ができるのか、と思っていないでしょうか。私達はこんな自分でありますが、今までの自分を振り返るならば、イエス様の数々の奇跡が見えてくるのです。こんな自分と言うなら、イエス様に申し訳ないのであります。イエス様は私の人生に奇跡を与えて導いておられるのです。私たちはイエス様の奇跡が与えられるとき、まさに自分を超えた存在になっているのです。さあ、さらに私に奇跡を与えてくださって導いてくださっているので、救いの奇跡、十字架を仰ぎ見つつ歩みましょう。力が与えられるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架の救いを与えてくださり感謝致します。現実の生活を力強く歩ませてください。主イエス様の御名によって、アーメン。

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