説教「御心をいただきつつ」

2024年2月18日、六浦谷間の集会

「受難節第1主日

                      

説教・「御心をいただきつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記17章1-7節、

   ヘブライ人への手紙4章12-16節

   マタイによる福音書4章1-11節

賛美・(説教前)讃美歌21・297「栄えの主イエスの」

   (説教後)讃美歌21・461「みめぐみゆたけき」

 本日は受難節第一主日であります。前週の2月14日が「灰の水曜日」であり、この日から受難節に入りました。受難節と言うのは、この後にイースター、復活祭を迎えますが、今年は3月31日がイースターでありますが、その前の40日間は主イエス・キリストのご受難を偲びつつ歩むのです。イエス様が十字架に架けられる歩みを示されながら、その十字架こそ私をお救いになる根源であることを示されるのです。ですから受難節の40日間はイエス様のご受難を仰ぎ見つつ歩みますので、生活も質素にしつつ歩むのです。そうなると、人間の本質でありますが、質素な生活になる前に、今のうちに楽しみましょうということになるのです。美味しい肉を食べ、ご馳走を食べ、楽しく過ごすのです。それがカーニバルと言うお祭りになります。キリスト教の国ではカーニバルで賑わいます。最近のカーニバルの様子を、スペイン・バルセロナに滞在している娘の羊子が知らせてくれました。羊子の子供の義也は2月12日に誕生日を迎え7歳になりました。今の元気な孫の様子を知らせてくれたのですが、学校でもカーニバルを体験しているということでした。学校の生徒は、それぞれ普段とは異なる服装で登校するということでした。いわば仮装をして登校するのです。仮装したまま勉強をするのかな、と思いつつ楽しい写真を見た次第です。どこの国も同じですが、たのしいイベントはそれなりに楽しむわけですが、イベントの真の意味は知らなくても、みんなで楽しむことなのでした。日本でもクリスマス、ハロウィン等、表面的なことで楽しんでいるのです。このとき、受難節の意味を受け止めながら歩みたいのであります。

 今朝の旧約聖書出エジプト記17章3-7節であります。出エジプト記は聖書の人々が400年間、エジプトで苦しい奴隷の生活をしており、神様はモーセを立てて奴隷の人々を解放したことが記されています。奴隷の国から解放され、喜び勇んでエジプトを出た人々ですが、40年間は常に不平・不満の日々でありました。まず不平・不満が出るのは、食べるものに事欠いてきたときです。それは出エジプト記の16章に記されています。そこで人々はモーセに詰め寄り、食べ物がないことで抗議するのです。その時、神様はマナという食べ物を与え、人々を養うのであります。このような恵みを与えられながらも、さらにまた不平・不満を述べているのが今朝の聖書であります。今度は飲み水がないと言って騒ぎます。人々がモーセに「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは「なぜ、わたしと争うのか。なぜ主を試すのか」と言いました。マナという驚くべき恵みを与えられながら、困難がくるとすぐに不平・不満を言う人々に、モーセは深い悲しみを持ちます。「わたしはこの民をどうすればよいのですか」というモーセに神様は言います。「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにしました。神様の恵みがここでも与えられたのであります。しかし、この不信仰の人々を記念するためにも、その場所をマサとメリバと名付けたのでありました。マサは「試す」ことであり、メリバは「争い」との意味であります。人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、神様を試したからであると示されています。

 モーセは不平・不満を述べる人々を導き、神様の約束の土地・カナンを前にしたとき、人々を集め、歴史を回顧しつつ総括をいたしました。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記8章1節以下)。マサ(試し)は神様がすることであり、人が神様にすることではありません。神様は私たちを力強く生きさせるために、あるときには苦しみを、あるときには悲しみを与えられたとモーセは述べたのでありました。「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」と神様の導きを示したのでありました。

 神様の恵みを受け止めなさいということが今朝の旧約聖書の主題です。

 旧約聖書の主題を受け止めつつ、新約聖書の示しを与えられています。今朝の新約聖書マタイによる福音書4章1節以下は主イエス・キリストがマサ・メリバではなく、誘惑するもの、悪魔、サタンと戦い、退けた示しであります。イエス様が悪なるものを退けた示しから、私たちも誘惑を退けつつ歩みたいと願うのであります。

 1節「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、『霊』に導かれて荒れ野に行かれた」と示されています。40日間、断食し、祈りのうちに過ごしますが、その後に誘惑する者が現れることは分かっていたのであります。この40日間は修行でもありますが、聖書は誘惑を受けるためと記しているのであります。聖書は前の部分で主イエス・キリストの洗礼を報告しています。ナザレ村で成長し、青年となったとき、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのでありました。イエス様は神の子であるのに、罪の悔い改めの洗礼を受けるのは何故かと問われます。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言われています。イエス様は一人の人間として現れたのであります。人間であれば、罪の方向を持つ存在であるのです。一人の人間であれば、当然誘惑もあるのであります。そして、早速誘惑を受けるために荒れ野に行かれたことになるのです。荒れ野でなくても誘惑はありますが、荒れ野は誘惑をより多く与える場でもあるのです。

 主イエス・キリストは、荒れ野の40年間、イスラエルの人々が訓練された誘惑をそのまま差し出されるのでありました。誘惑する者が現れ、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。イエス様はこれから人々の中に出て行き、神様の御用をするのです。当然、体力をつけなければなりません。食べることは重要な課題でありました。しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8章3節)と誘惑を退けました。

 次に悪魔が登場します。二番目の誘惑は、イエス様が高い屋根の上から飛び降りるということでありました。下は石畳であります。飛び降りたら大怪我をするか死んでしまいます。しかし、悪魔は「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」というのでありました。これはまさしく神様を試みることであります。出エジプト記のマサ・メリバであるのです。悪魔はマサ・メリバをイエス様にさせようとしているのです。しかし、イエス様は言われました。「あなたの神である主を試してはならない」と言われ、誘惑を退けたのであります。

 そして、今度はサタンとの名前で登場します。第三の誘惑は、世の中の繁栄が与えられるということでありました。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」とサタンは言うのでした。世の中の繁栄が悪魔の仕業とは言えませんが、悪なるものが見え隠れしていることは事実であります。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われ、サタンの誘いを退けたイエス様であります。この誘惑する者は、イエス様の内面的な姿でもあります。これから人々の前に現れ、神様の御用をするにあたり、食べること、身の保障、生活の安全の確かな方向性が必要であります。そのために荒れ野に導かれたのであります。

 主イエス・キリストが霊によって荒れ野に導かれたとき、私たちが霊によって導かれている荒れ野は、私の現実であります。今、私が生活している場は霊によって導かれた場所であります。霊によって導かれた場所は必ず誘惑するものが現れます。誘惑に負けて不平を述べ、不満を述べ、現実がままならぬと言い、現実から遠ざかるのです。イエス様は現実に現れた誘惑を退けられました。私たちが誘惑を退け、勝利者となるために十字架にお架かりになり、誘惑に打ち勝つ信仰を導いておられるのであります。

 私の現実に苦しみであると思われていますか。つらいことばかりが毎日起きていると思われていますか。こんな生活しかできないなんて悲しくなってしまうと思われていますか。もう一度、申命記におけるモーセの示しを与えられましょう。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」のであります。現実から逃げないことであります。私がこの現実に生きるために、主イエス・キリストは十字架にお架かりになられたのであります。私にある自己満足、他者排除を滅ぼされるためであります。苦しい時が一番、悲しい時が一番、自己満足が働くときなのです。

 誘惑に陥りそうになったとき、私たちは今までの自分を振り返ってみることです。神様の恵みに満ちたお導きを知ることになるのです。私のこれまでの人生において無駄は何一つありません。今、苦しいのであれば、神様はさらに私を祝福の人生に導いていることを知りましょう。イエス様が誘惑を退けたように、ただ神様の御心を求めたいのであります。祝福の人生、しあわせの人生へと導かれるのであります。

<祈祷>

聖なる神様。受難節のお恵みを感謝致します。十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。 

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