説教「信仰の導き」

2024年2月25日、六浦谷間の集会

「受難節第2主日

                      

説教・「信仰の導き」、鈴木伸治牧師

聖書・列王記下6章8-17節

   エフェソの信徒への手紙5章6-14節

   ヨハネによる福音書9章1-12節

賛美・(説教前)讃美歌21・298「ああ主は誰がため」

   (説教後)讃美歌21・520「真実に清く生きたい」

 2月の歩みをしているうちにも、すでに2月も終わりますが、まだまだ寒さが続き、春の到来を待ち望んでいる状況です。毎日、朝起きると天候が気になり、外の状況を確認したり、天気予報等で確認したりします。今は寒さが気になりますが、今日はお天気なのか、雨なのか、確認しながら過ごしているのです。天気予報では風の予報もしていますが、風の予報はあまり気にしてないようです。しかし、春になるとき春一番と言われる風が強く吹き、困ることがあります。帽子が飛ばされたり、家の周りに置いていたものが飛ばされたり、結構な被害が出て来るのです。しかし、その後は穏やかな日々となり、春の日差しを喜ぶようになるのであります。そういう意味では、今の季節は一番天気が気になる時なのでしょう。

 自然というものは通常は穏やかであり、自然の移ろいを喜んでいるのですが、その自然が荒れる時があるのです。雨は雨でも大雨となり、川の氾濫、土砂くずれ等の災害を起こします。過日の能登半島地震災害で困難な状況で今も過ごしている人々がおります。また雪の被害があります。特に日本海側は大雪となっており、物流が止まってしまうという災害が起きるのです。また海は、いつも波は静かですが、大風で荒れ狂うこともあり、地震により洪水がおき、これも大変なことになるのです。このように私達は自然の変化とともに歩んでいますが、その中にあって信仰が導かれていることを今朝の聖書は示しているのです。

  列王記は題名のごとく、王様達の興亡を記しているものであります。今朝の聖書はそのエリシャの働きを示しています。アラムの国とイスラエルの国が戦っている状況です。アラムの王様は家臣達と作戦会議をし、イスラエルの攻略を決めます。神の人エリシャはそれを察知し、イスラエルの王様にアラムの作戦を知らせるのです。それでイスラエルの王様はアラムの作戦の備えをします。アラムの国は作戦を変えるのですが、それもエリシャによってイスラエルの王様に知らされるのです。アラムの王様はことごとく作戦が相手に分かってしまうのは、誰かがイスラエルの王と通じているからだと家臣に言います。すると家臣の一人が、イスラエルには預言者エリシャがおり、彼が何もかも我々の作戦を王様に知らせているのです、と答えるのでした。そこで、アラムの王様はエリシャを捕らえるために、エリシャがいる町を包囲します。エリシャの従者は町がアラム軍に包囲されていることを知り、あわててエリシャに報告します。すると、エリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言い、神様にお祈りします。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願うのであります。すると、従者の目が開かれ、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見ることになるのであります。天の軍勢が共にいることを知り、神様のお導きとお守りをはっきりと見たのであります。人間的な思いでは、町を囲んでいるアラム軍しか見えませんが、そこには神様の導きがあり、この現実に神様の真実が示されていることをはっきりと見たのであります。この現実を私の目で見る限り、苦しい状況と判断して恐れを持ちますが、神様にあって心の目が開かれることにより、大きな導きを見ることになるのです。

 アラム軍は神様により目がくらまされ、イスラエルの中のサマリアに導かれることになります。サマリアイスラエルの中心の町でありました。イスラエルの王様はそのアラム軍を撃ち殺すとエリシャに言うのですが、エリシャは食事を与えるよう示します。いわば捕虜を暖かくもてなして返すことにより、もはや戦いを挑んでこなくなるのであります。神様がアラム軍の目をくらませているのですが、結果的には戦いを終わらせることの導きでもありました。アラム軍も真実を見ることになったというわけです。

 神様のお導きとお恵みは私たちを包んでいるのです。しかし、私たちは私を包む神様のお恵みが見えません。それは、現実を私の気持ちで見ているからであります。私の気持ちは自己満足的に判断しますから、自分にとって有利なのか不利なのか、得なのか損なのかとの観点で見ます。従って、そこに示されている神様の恵みの事実を見ることができないのであります。神様にこの私を委ねるとき、そこにこそ神様の豊かな導きと恵みを見ることになるのであります。

  今朝はヨハネによる福音書は9章であります。9章には生まれつきの盲人が癒されたことが記されていますが、それは見える、見えないという肉体的なことと共に、神様の真理が見えることへの示しであります。イエス様と弟子達が通りすがりに一人の生まれつき目の見えない人を見かけます。すると弟子達は「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」とイエス様に聞くのです。この時代、因果応報的に考えていたので、病気の人、体の不自由な人は罪の結果と理解していました。それは本人か、両親か、あるいは先祖が悪いことをしたからなのです。うっかり風邪も引けない社会でもありました。イエス様は罪人といわれる人々と共に過ごし、食事をしているというので批判されることが福音書に記されています。その罪人といわれる人達は病気の人であり、体の不自由な人々であったのです。弟子達の質問に対してイエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。イエス様は因果応報的な考えを否定しました。神様の御業がこの人に現れるためであると教えたのであります。

 人はそれぞれの姿で生まれ、この世に生きることになります。みな同じ人間ではありません。姿や形、性格もみな違うのであります。あるいは生まれつき目が見えないこともあります。「神様の御業が現れるために」今の私の存在があるということなのです。因果応報の考えの社会の中で、イエス様は人間の真の姿を示したのであります。信仰の導きを示したということなのです。生まれつき目の見えない人はイエス様により見えるようになりました。すると、この人を知っている近所の人々が不思議がるのです。どうして見えるようになったのか、納得できません。そこで近所の人々は「お前の目はどのようにして開いたのか」と聞きます。イエスという方が見えるようにしてくれました、と答えても信用しない人々でした。それで、人々は社会の指導的な立場のファリサイ派の人々のところへ、この生まれつき目の見えなかった人を連れてゆきます。そこでも、どうして見えるようになったのかと聞かれます。それで同じように答えるのですが、やはり納得してくれません。指導者達は、今度は両親を呼んで聞くのです。両親は答えます。「どうして見えるようになったのかは分かりません。本人に聞いてください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と答えるのでした。両親にとって、やたらなことを言えば、追放されることを知っていたからです。イエス・キリストをメシア、救い主という者は追放すると決められていたからでありました。そこで、また生まれつき目の見えなかった人を呼んで、どうして見えるようになったかを聞くのでした。彼は答えました。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」とはっきり自分を証したのでありました。その後、目の見えなかった人はイエス様に出会います。イエス様はご自分がメシア、救い主であることを示すと、「主よ、信じます」と言い、ひざまずいたのでありました。その時、イエス様は、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われたのであります。そこに居合わせたファリサイ派の人々は、このイエス様の言葉を聞き、「我々も見えないということか」と言います。それに対して、イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る」と言われたのであります。

 私たちが「見える」と言ったとき、見えているものは、自分の意に適ったものであります。自分の意に適わないものは見たくないのであります。この生まれつき目の見えない人が見えるようになったとき、そういうことは今までにないことであり、その事実を認めたくないのです。この人は目が見えないことが当たり前なのであり、見えるという事実は否定しなければならないのです。真実を見ない、受け止めない姿勢であります。だから、イエス様は「見える」という人々は「罪が残る」と示しているのです。神様の御業を見ようとしない、御心を受け止めようとしないこと、「罪が残る」のであります。「罪がある」というのであれば、それは一過性のものです。しかし、「罪が残る」と言われたとき、今後においても罪の姿を持ち続けるということなのです。

エリシャの導きにより、従者は目が開かれ、天の軍勢を見ることになりました。信仰の導きを示されたのであります。生まれつき目の見えない人は、イエス様の御業をいただき、信仰の導きを与えられたのであります。私たちに救いの事実をはっきり見させてくれるのは、主イエス・キリストの十字架であります。自己満足が働き、自分の好みにより見たり、聞いたりしているこの私に、御自分の命をささげて、私たちの中にある自己満足を滅ぼされたのであります。十字架は私達の信仰の導きなのです。

<祈祷>

聖なる御神様、信仰の導きを感謝致します。十字架を見つめつつ、真実に生きる道を歩ませてください。キリストのみ名により、アーメン。

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