説教「日毎の糧が与えられる」

2023年4月30日、六浦谷間の集会

「復活節第4主日

                      

説教・「日毎の糧を与えられる」鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記16章8-16節

   Ⅰコリントの信徒への手紙8章7-13節

   ヨハネによる福音書6章34-40節

賛美・(説教前)讃美歌21・326「地よ、声たかく」

   (説教後)讃美歌21・490「かみさまに感謝」

 今朝は「日毎の糧」についての聖書の示しをいただきます。「日毎の糧」は、私たちが毎日の生活で、必要なものですが、それは肉体的にも精神的にも言われることです。日々、食べ物に不自由しなくても、精神的に不安な場合があり、それが食べ物にも影響してきて、食欲が無くなったりするのです。私たちは精神的にも良いもので満たされて歩むことが必要であります。それは人間関係とか、趣味のようなことで解消されるのでしょう。キリスト教は宗教ですから、精神的には満たされ、それがまた食生活にも影響するのです。それは宗教の一般論ですが、キリスト教は聖書の示しを通して、精神的にも肉体的にも導きを与えているのです。

 聖書は「最後の晩餐」と言うことで、信仰の導きを与えています。イエス様は十字架にお架かりになる前にお弟子さん達と最後の夕食をいたしました。その時、パンを配りながら、「今後はわたしの体だと思って食べなさい」と言われたのです。そして、次にぶどう酒を配りながら、「今後はわたしの血だと思って飲みなさい」と言われたのでした。お弟子さん達は、その時はその意味が分かりませんでしたが、イエス様が十字架にお架かりになった後は、その意味を深く受け止め。「主の聖餐」として信仰の糧としたのでした。それは今日でも行われています。洗礼式はイエス様の十字架の救いを信じて洗礼を受けます。それは一度限りです。その信仰を持続させるために聖餐式が行われるのです。イエス様のパンとぶどう酒をいただくことは、イエス様の救いを信じて生きることなのです。「最後の晩餐」は信仰の原点なのです。それに対して「最初の朝餐」があります。イエス様がご復活されて、お弟子さん達と最初に朝の食事をしたのです。イエス様のご復活後、現実にはイエス様がおられないので、お弟子さん達は漁をすることになりました。一晩中の漁でしたが何も取れません。朝方になって浜辺にいる人が、船の右に網をおろしなさいと言われています。するとたくさん魚が捕れたのでした。それにより、浜辺の人はイエス様であると知り、急いで浜に上がります。するとイエス様は炭火で魚を焼いているのです。パンも用意されていました。そして、お弟子さん達と朝の食事をしたのでした。イエス様が生活の糧である朝の食事を用意して下さっています。イエス様が私たちの生活の糧、肉体の糧を与えてくださっていることを示しているのです。私たちは「最後の晩餐」により信仰の糧が与えられ、「最初の朝餐」により生活の糧が与えられているのです。今朝はさらに「日毎の糧」を示されています。

 イエス・キリストは私たちを日毎の糧を与えて、永遠の生命へと導いておられるのです。そのために、現実の生活をも導いてくださっているのです。今朝の旧約聖書は、生活を導く神様が示されています。奴隷として400年間、エジプトで過ごしていましたが、神様はモーセを立てて奴隷から救い出してくださったのです。そして、神様が示す「乳と密の流れる土地」カナンへと導いてくださるのです。奴隷から解放され、いわば楽園へと導かれていくのですが、旅の途上、食べるものがなくなり、そのことでモーセに不満を述べるのでした。「我々を荒れ野で餓死させるつもりなのか」と迫るのです。この人々の不満を受け止めた神様は、ウズラの大群を飛来させ、朝になるとマナという食べ物を与えるのでした。マナは朝になると霜のように積ります。それを食べることにより約束の土地へと導かれていくのです。神様が不平、不満を述べる人々に対してマナを与えたのは、約束の土地へと導くためなのでありました。そしてまた、飲み水の問題もありました。飲み水がないと言ってはモーセに迫ります。モーセは神様の導きのままに岩から水を出させるのです。パンの問題、飲み水の問題、生活の糧、日毎の糧の困窮に対して神さまは常に顧みて与えてくださっているのでした。このように日毎の糧を与えられながら、ついに約束の土地カナンへと到達したのでした。このことは聖書全体の示しなのです。従って、人々は約束を信じて日々感謝しつつ歩むことが求められているのです。旧約聖書が、神様が生活を導くのは、約束の土地カナンへと導くためなのです。乳と密の流れる土地、祝福の土地へと導くためなのです。

 聖書の人々がエジプトの苦しい奴隷生活から解放され、神様の約束の土地へと導くのは聖書全体の示しであります。暗い社会にあらわれたイエス・キリストは人々に神様の御心を示し、人々の生活を養いつつ永遠の生命へと導くこと、旧約聖書に示された救いの構図と同じなのであります。

 そこで新約聖書の示しになります。「わたしが命のパンである」とイエス様は示しています。今朝はヨハネによる福音書6章34節からですが、6章22節以下は「イエス様が命のパン」であることを示しています。そこでイエス様とお弟子さんたちの対話がありますが、お弟子さんたちが旧約聖書のマナの出来事を述べたとき、イエス様は「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである」と言われました。そこで今朝の聖書になるのですが、お弟子さんたち「そのパンをわたしたちにください」と言いました。そこで言われたのが、「わたしが命のパンである」ということでした。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」とイエス様は示されたのです。

 このパンの示しについては導入の部分を見ておかなければなりません。それは6章1節以下に記されています。「5千人に食べ物を与える」との表題で示されています。山にいるイエス様のもとに大勢の人々が集まってきます。その群衆を見たイエス様は、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とお弟子さんのフィリポに尋ねるのでした。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。1デナリオンは当時の一日分の日当です。200日分のお金があっても足りないと言っているのです。何しろそこには5千人以上の人々がいたからであります。ペトロが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹持っている少年がいます」といったのですが、「けれども、こんなに大勢の人々では、何の役にも立たないでしょう」と言ったのでした。あきらめきって何もできないと思っているお弟子さんたちでした。その時、イエス様は五つのパン、二匹の魚を祝福したのです。それにより5千人の人々のお腹が満たされたのです。

 パンの奇跡を示された人々は、イエス様の後を追いかけてきました。その時、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われ、「朽ちる食べ物ではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と示されています。そのようなイエス様の示しをいただきながら、今朝の聖書は神のパンにまで及んでいます。旧約聖書のマナの意味へと言及されたのです。神様のマナは祝福の土地へと導くためでした。今、神からのパン、すなわち「イエス様の命のパン」を食べることへと導いているのです。イエス様のパンをいただくことにより永遠の生命へと導かれるということです。生活の導きを与えつつ永遠の生命へと導くという聖書の示しを受け止めなければならないのです。

 人間は食べて生きています。すべての生き物は日々の生活で食べ物をいただきながら歩んでいるのです。食べて、喜びつつ永遠の生命へと導かれたいのです。その意味では教会はいつも食べる交わりをしています。前任の大塚平安教会時代、クリスマスやイースターの祝会はポトラックの食事をしていました。皆さんが食べ物を持ち寄ってテーブルに並べます。それぞれお皿に取っては喜びつつ食べていました。楽しい食事のひと時です。また、通常は礼拝後に各部会の皆さんが食事の準備をします。おそばの時があり、カレーライスの時があり、皆さんはいただきながら懇談するのでした。このお交わりが信仰の励ましにもなっていたのでした。

 娘がスペイン・バルセロナに滞在しているので、私たちもしばし滞在しています。印象として食べるお交わりが多いということです。お誕生日にはお友達を招いて食事をいたします。招かれた友達も自分の誕生日にはお友達を招きます。お友達が多いと、いつも食事に招かれているのです。娘もお友達が多いので、いつも招かれていました。私たちも一緒に招かれたのでした。食事の交わりはイエス様の命のパンでもあり、お交わりを喜びつつ永遠の生命への道が導かれるのです。

 しかし、私たちは食べる喜びを持っていますが、世界の中には食べることに困難な人々がいるのです。貧困の国々、難民の人々、その現状をいつも示されています。そのために日本でもいくつかの団体が寄付金を募り支援しています。しかし、その取り組みだけでは救済が困難であります。命のパン、日々のパンが与えられるよう祈りたいのです。

今朝は神様が永遠の生命へと導いてくださるために、生活の糧を与えて導いてくださっていることを示されました。日々の食事は永遠の命の導きであるであると示されたのです。食べることに重きが置かれているのではなく、日々の生活の導きが与えられているのです。イエス様がお弟子さんたちを伝道するために町や村へ派遣するとき、何も持たないことを奨励しています。必要なものは神様が備えてくださるのです。何よりも神様に委ねて人生を歩むことが示されています。

<祈祷>

聖なる御神様。生活の糧を与え永遠の命を与えてくださり感謝致します。命のパンを喜びつつ歩ませてください。キリストのみ名により、アーメン。

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