説教「共に歩まれる復活の主」

2023年4月23日、三崎教会

「復活節第3主日

                      

説教・「共に歩まれる復活の主」鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書51章4-8節

   ルカによる福音書24章36-43節

賛美・(説教前)讃美歌21・323「喜び祝い、わが心よ」

   (説教後)讃美歌21・459「飼い主わが主よ」

 今の季節はいろいろな花が咲き、また新緑の木の葉を楽しんでいます。

こちらの教会に来るときには、三浦半島の自然の豊かさを示されています。広々とした畑に、季節ごとにいろいろな野菜の成長を示されています。時には道沿いで売られている野菜を買い求めることも楽しみであります。このような自然のうつろいの中にも神様のお恵みを示されるのであります。川端康成という小説家が、ノーベル賞受賞の挨拶で「美しい日本の四季」についてお話しされたと言われていますが、季節の移ろいはまさにお恵みでありました。2013年3月から三ヶ月間、マレーシアのクアラルンプールに滞在しました。マレーシアは常夏の国であり、多少の変化はありますが、一年中変化のない季節なのです。季節のない歩みであるということです。そこにある日本人教会の牧師として赴いたのです。毎日、夏の陽射しを受けながら生活しているのです。常夏と言っても、毎日午後からはスコールがあり、その雨で埃はきれいになるのですが、季節の移ろいが無いということは、神様のお恵みを感じなくなるとの思いを持ちました。冬のお恵みも示されていますが、やはり、春になると、新しい息吹

を見ることができ、神様のお恵みを示されるのであります。私達は自然の変化によって神様のお恵みを示されるのですが、神様は私達に変わることのないお恵みをくださっているのです。従って、常夏の国であり、季節の移ろいが無いにしても、神様の変わることのないお恵みを示されます。

 このように自然のお恵みを示されるのでありますが、私たちは、日々、ご復活のイエス様が私たちと共に歩まれ、お導きくださっていることを示されるのです。今年は4月9日がイエス様のご復活日、イースターをお祝いしました。ご復活のイエス様は、聖書に示されるのですが、2000年前の出来事ではなく、今の私達をお導きくださっているのであります。日々、私たちはご復活のイエス様のお導きをいただいているのです。

 旧約書には、「救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない」と示しています。新約聖書に示されるご復活の主の導きを指し示しているのであります。今朝の旧約聖書イザヤ書51章1節以下でありますが、6節に示されている言葉であります。イザヤ書51章は聖書の人々が、捕われている状況から解放され、故郷の都エルサレムに帰る状況です。しかし、故郷に帰ろうとすると、それを阻止しようとする人々がいます。50年間も捕われの身で過ごし、同じ仲間ではありますが、50年間もいなかったのですからよそ者と理解されているのです。故郷の都エルサレムは滅ぼされた後は、そのまま荒廃したままであり、生活も苦しい生活であり、帰ってもしょうがないと思ってしまいます。人づてに都エルサレムの噂を聞いているからです。それに対して、故郷に帰りたい人々がいます。それは故郷であるからばかりではなく、故郷の都には信仰の中心、神殿があるからです。再び、神殿を中心とした生活に戻りたい、その信仰のゆえに故郷に帰還を目指しているのです。今朝の聖書はその帰還を励まし、勇気を与えているのであります。

 「シオンへの帰還」と表題になっています。シオンとは都エルサレムのことです。そのシオンに帰ることは神様のお導きを知るということであります。1節に「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」と面白い言い方をしていますが、これは2節に示されるように、聖書の民族、最初の人であるアブラハムとサラの事であります。神様がアブラハムを選び、恵みを与えて導いて来られたのです。アブラハムが祝福され、祝福の基となったのです。だから、いまは苦しくても、神様はアブラハムに祝福を与えたように、あなたがたにも祝福を与えてくださるので、勇気を持って都、神殿のあるエルサレムに帰りなさいと励ましているのです。しかし帰ることを阻止する人々は、エルサレムは廃墟であり、生活することも厳しいと希望のないことを言うのです。イザヤは、決してそうではなく、神様のお恵みがあると人々を励ましているのです。「わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない」と示しています。

 帰還を求めている人々はエルサレムの神殿信仰を持っているのです。この神殿には、過ぎ越しの祭り、七週の祭り等、歴史において神様が導いてくださった出来事を感謝しつつ集まるのです。400年間、エジプトで奴隷として生き、しかし、モーセを通して救われますが、神様の恵みでありました。ですから毎年、過ぎ越しの祭りを行い、神様に感謝をささげること、人々の生き甲斐なのです。何事も神殿を中心に生活すること、聖書の人々の原点なのです。しかし、帰還を阻止する人々がおりますので、預言者イザヤは神様の絶えることのないお恵みを示し、人々を励ましているのです。お恵みは現実に与えられているということです。いずれ与えられるというのではなく、今ここに、お恵みが与えられていること、そのお恵みにより、力強く歩みなさいと示しているのです。まことに現代の私たちがご復活のイエス様に導かれることでもあるのです。

 今年のイースターは4月9日でありました。2023年度が4月から始まったのですが、教会の暦は多くの場合、イースターは4月に迎えています。これは暦の上なのですが、私達がイースターを示されるということ、それは「共に歩まれる主イエス様」を示されることなのです。私達は主イエス・キリストの導きを与えられていますが、共に歩まれるイエス様のお導きをいただいていることになるのであります。しかし、私達は与えられている「共に歩まれる主イエス様」を認識できないことが多いのです。今朝のルカによる福音書は、復活のイエス様を示されているのに、なかなか現実に信じることができないお弟子さんたちを示しています。旧約聖書の人々が都に帰って礼拝をしつつ歩みたいと思っているのに、それを阻止する人々がいました。神様のお導きは現実なのであり、この現実に御導きか与えられていることを示していたのですが、それは復活信仰を持って歩むことと重なることなのであります。

 ルカによる福音書は、24章でイエス様のご復活を記しています。週の初めの日、婦人たちはイエス様が埋葬されているお墓に行きます。十字架に架けられ、死んで葬られているイエス様なのです。ですからさっそくお墓参りに行くのでした。お墓の中にはイエス様のご遺体がないのです。そのため婦人たちは途方にくれているのですが、そこへ天使が現れます。そして天使が言われたことは、イエス様はご復活されたということでした。

そこで、お弟子さんたちに知らせるのですが、お弟子さんたちは婦人たちの報告を「たわ言」のようだとしたのでした。しかし、ここではっきりとイエス様のご復活が知らされているのです。知らされても信じないお弟子さんたちでした。そして今朝の聖書には、お弟子さんたちが共に集まっているとご復活のイエス様が現れます。「あなたがたに平和があるように」と言われながら、お弟子さんたちの真ん中に立ちました。するとお弟子さんたちは亡霊を見ているのだと恐れるのです。今までもご復活を示しているのに、まだ信じられないのです。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」とイエス様は言われたのでした。言われていることは、「まだ信じられないのか」ということです。それで手と足をお見せになるのです。ところが手と足を見せられて、お弟子さんたちは喜ぶのでありますが、喜びつつもまだ信じられなかったというのです。喜んでいるものの確信ができなかったということでしょう。そこでイエス様は、「ここに何か食べ物があるか」と言われました。そこでお弟子さんたちが焼いた魚を差し出すと、イエス様は彼らの前で食べたというのです。復活の事実を示しても、なかなか信じないお弟子さんに対して、イエス様は忍耐してご自分を証されたのでした。イエス様が「共に歩まれる主」であると示されているのです。

 ご復活のイエス様と出会うということで、時々、「靴屋のマルチン」の物語を示されながら、イエス様が現実に、私達の生活の場におられることを示されるのです。寂しく過ごしている靴屋のマルチンさんに御声が聞こえました。それはイエス様の声でした。「明日、私はあなたのところに行く」ということでした。翌日、マルチンさんところに来たのは、寒さの中で赤ちゃんと共にいたお母さんでした。マルチンさんは家に入れてあげ、暖かいスープを与え、暖かい服を上げたりして送りだしたのでした。それからマルチンさんの家に来たのは、外で雪かきをしているおじいさんでした。そのお爺さんにもマルチンさんは暖かい飲み物をあげたりしました。その後、子供がおばあさんに叱られている状況に立ち会います。おばあさんをなだめ、子供を諭し、仲良くさせてあげたのです。夜になって、マルチンさんは「イエス様は来なかった」と思うのですが、昼間出会った人々がイエス様であることを示されるのでした。

 ご復活のイエス様を示されるとき、いつもこのお話を示されています。私たちと出会う人に対して、いつもこの人はご復活のイエス様なのかと思うわけではありませんが、私たちの現実の人間関係の中にご復活のイエス様がおられることを示されたいのであります。

<祈祷>

聖なる神様。復活のお導きを感謝いたします。共におられるイエス様を見つめつつ歩ませてください。キリストのみ名により祈ります。アーメン。

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