説教「共に歩む者へと導かれ」

2017年9月24日、三崎教会
聖霊降臨節第17主日」 

説教・「共に歩む者へと導かれ」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記45章9-13節
    マタイによる福音書18章21-35節
賛美・(説教前) 讃美歌21・356「インマヌエルの主こそ」
    (説教後)438「わが主イエスよ」


 9月になりまして、伝道の秋を迎えたとの思いが深まっています。また、自分自身の信仰が強められることを願っています。そのような意味で、修養会を開催する教会が多いようです。主イエス・キリストの十字架の救いをいただき、喜びつつ歩んでいる者として、修養して信仰を強めることですから、修養会で養われたいと思います。その宗教によって修養をすること、それは「共に歩む者へと導かれ」ることなのです。どのような信仰でありましょうとも、中心は「共に歩む」ことなのです。
 今、世界では戦争が起きるかもしれないという不安が募っています。現実に戦争をしているところもあります。悲惨な状況にあるのはロヒンギャの人々です。ミャンマーラカイン州に住むロヒンギャの人々がミャンマーから逃れてバングラディッシュ等に難民として逃れているということです。ミャンマーは仏教の国であり、ロヒンギャの人々はイスラム教の人々なのです。そのミャンマーにはロヒンギャの人々は約100万人いると言われますが、難民として40万人の人々が逃れているのです。宗教的なことが背景にあるようですが、本来宗教は他の存在を排除する教えではありません。「共に歩む者へと導かれ」ることが中心なのです。仏教がイスラム教の人々を、イスラム教が他の存在を排除することは、本来の教えからあり得えないことなのです。
仏教のことを知るためにもお坊さんたちの信仰の姿を本で読みました。最澄空海法然親鸞道元、一遍、日蓮等の評伝を読んでいます。信仰を極めながらも、他の存在を受け止めつつ歩む姿を示されています。また、イスラム教の世界にも関心を持ち、たまたま横浜市立大学公開講座が、「イスラームの歴史と教義」についての講座があり受講しました。そのような訳で仏教やイスラム教の世界を垣間見ながら、私達の信仰を示されたのであります。イスラム教は聖書の示しが大きく影響していると思われます。イスラム教では神様をアッラーと呼んでいます。その神様を信仰することが中心ですが、アッラーを信じる者は横の関係、人間関係も正しくなければならないのです。そのような教えは聖書の人々に十戒が与えられた状況に通じるものがあります。十戒の第1戒から4戒までは神様を信じることです。そして第5戒から10戒までは人間関係を導く戒めなのです。神様に祝福をいただくことは、「自分を愛するように隣人を愛する」生き方として私たちは教えられています。私の現実の生活の中で、イエス様の教えをどのように実践するのか。この現実は神様が私に与えて下さった現場であります。この現場で主の道を生きることなのです。
 ルカによる福音書10章に、イエス様がお話された「善いサマリア人」のたとえ話が記されています。ある人が道を歩いていると追いはぎ(強盗)に襲われます。倒れている人の側を三人の人が通りました。その三人の人がどのように対応したのか、ということです。最初の人も、二番目の人も、社会的には人望のある人たちです。しかし、彼らは見て見ぬ振りをして行ってしまったのです。瀕死の重傷をおっている人です。三番目に来た人は、倒れている人とは日ごろから仲のよくないサマリア人の外国人でありました。しかし、彼はそんなことは考えず、すぐに近寄り、応急手当をして介抱し、宿屋に連れて行ったのでありました。このたとえ話をしたイエス様は、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねました。律法の専門家は、「その人を助けた人です」と言わざるを得なかったのであります。私達も自分の現場を見つめてみなければならないのです。信仰の世界は中心の存在を信じることですが、その中心の存在によって、横の関係、人間関係がよりよく導かれることなのです。

 今朝の旧約聖書はヨセフ物語であります。神様の救いが大きなご計画の中で導かれているのであります。聖書の民族はアブラハムの時代、イサクの時代、ヤコブの時代と続きますが、今朝の聖書はヤコブの時代のことでした。ヤコブには12人の子どもができます。古代のことであり、一夫多妻の状況でした。12人は二人の奥さんと、二人の側女から生まれています。二人の奥さんは姉妹でありました。ヤコブは妹を愛して、結婚を申し出るのですが、まず姉が結婚しなければならないので、姉と結婚し、それから妹と結婚したのであります。妹の子供が11番目のヨセフでありました。従って、自分が愛する女性の子供ヨセフに対しては特別な思いがありました。どの子供より、ヨセフには良い服を着せたりしていたのであります。そのヨセフが夢を見ました。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さん達の束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました」と言うのでした。それを聞いた兄弟たちは、父がヨセフだけを愛しているので、ヨセフを憎んでいるのですが、ますますヨセフを憎むようになりました。後日、ヨセフはまた夢を見ました。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と11の星がわたしにひれ伏しているのです」と言うのです。それを聞いた父のヤコブもヨセフを叱ったのでした。「一体どういうことだ。お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さん達も、お前の前に行って、地面にひれ伏すと言うのか」とヤコブは言いました。しかし、ヤコブはこのことを心に深く受け止めたのでありました(創世記37章〜)。
 ある時、野原で羊の番をしている兄達の様子を見てくるように、ヨセフは父のヤコブから言われます。ヨセフが兄達のいる野原に行きますと、遠くで弟のヨセフが来ることを見た兄達は、ヨセフを何とかしようということになりました。何とかとは殺してしまうことであります。しかし、一番上の兄は殺すことはいけないと言い、穴の中に放り込めばよいと言うのでした。後で穴から助けるためです。兄弟たちは同意します。そこへエジプトに行く商人たちが通りかかりました。兄弟たちはヨセフを商人たちに売り渡してしまうのであります。こうしてヨセフはエジプトに奴隷としていくことになったのであります。このヨセフ物語をさらにお話しすると、大変長くなりますので、途中は割愛することにします。神様の不思議な導きで、ヨセフはエジプトの王様の不思議な夢を解き明かして上げます。王様はヨセフを自分に次ぐ大臣に取り立てるのであります。王様の夢とは、7年間の豊作の後に、7年間の大飢饉が起きるというものです。だから豊作の間に、穀物や食料を貯蔵することを進言するのでした。その解きあかしに満足し、ヨセフを大臣に取り立て、大飢饉に備えさせたのでありました。
 夢の通り大飢饉となりました。エジプトには食料があるということで、諸国から買出しにやってくるようになりました。ヤコブの一族も飢饉に困り果てていました。それでエジプトに食料の買出しにやってくるのです。それで今朝の聖書です。
 兄弟たちがエジプトに食料を買いに来たとき、ヨセフは自分を奴隷として売り渡した兄弟たちであることをすぐわかりました。しかし、兄弟たちはエジプトの大臣になっているヨセフがわかりません。今朝の聖書は二回目に買出しに来たときのことであります。ヨセフはもはや隠していることができず、身を証したのでありました。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きていますか。わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と告白しました。兄弟たちはヨセフであると知り、恐れを持ちますが、しかしヨセフは恐れを取り除くかのように、これは神様のご計画であることを示したのでありました。
今の実情は悲しい状況であるかも知れません。しかし、神様の導きの途上であるならば、現実をしっかりと受け止めて歩むことを示されるのであります。ヨセフはここに至るまで、殺されかけ、牢屋に入れられ、人間的な苦しみを持ちつつ生きなければなりませんでした。神様の導きがありました。今の自分は神様の救いの途上であることを知りつつ歩んだということです。自分の思いを超えて、他の存在を受け止めたということであります。神様の恵み、導きに自分を委ねたということであります。

 このヨセフの生き方が今朝のメッセージであります。新約聖書の今朝の聖書は、その逆の生き方が主イエス・キリストによって指摘されています。マタイによる福音書18章21節以下、「仲間を赦さない家来」のたとえがイエス様によってお話されました。
 イエス様のお弟子さん、ペトロが「赦し」についてイエス様に尋ねました。「兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねるのです。それに対してイエス様は「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われたのであります。七の七十倍は490ということになりますが、そこには限りが出てきますが、むしろ無限を意味しています。イエス様は無限に赦しなさいと教えておられるのです。それをわかりやすくするために、イエス様はたとえ話しをされます。
 ある王様が家来達に貸したお金の決済をすることになりました。決済をし始めたところ、1万タラントン借金している家来が、王様の前に連れてこられました。イエス様による「タラントン」のお話しがありますが、そこでは5タラントン、2タラントンを預けられた人が商売をしました。タラントンは商売をするほど大きなお金になります。大体、1タラントンは6000デナリオンと言われます。1デナリオンは一日分の日当であるとされています。一日働いて、今の日本の社会で考えて、1万円ももらえるなら、随分とよい条件ですが、1タラントンに換算すると6千万円ということになります。それに1万をかけると、気が遠くなるほどのお金になります。一人の家来が莫大なお金を王様から借りていたということです。この家来は返すことができないので、王様は自分自身も妻も子供も、また持ち物全部を売り払って返済するように言います。家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と懇願します。王様はこの家来を憐れに思い、この家来を赦して借金を全部帳消しにしてあげたのであります。
 ところが、この家来が赦されて道を歩いていると、この家来から100デナリオンの借金をしている友達に会います。家来はその人を捕まえ、借金を返せとせまるのであります。友達は、ひれ伏しながら、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼むのであります。しかし、家来は承知せず、この友達を牢屋に入れてしまうのです。100デナリオンは100万円位ですから、決して小さなお金ではありません。しかし、1万タラントンと比較すれば微々たるお金です。他の友達がこの有様を王様に告げます。家来は王様に呼ばれます。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の友達を憐れんでやるべきではなかったか」と言い、その家来も牢屋に入れてしまったというのであります。神様からいただいている憐れみは人にもしなさいとの教えであります。自分の思いを超えて、他の存在を受け止めて生きることが私たちの歩みであるとイエス様によって示されるのであります。今の現場でイエス様の教えを実践することが求められているのです。

 私の現実の生活、いわゆる私の現場にはどのような人がいるのでしょうか。いつも意地悪をしている人がいます。なんでも口に出して吹聴して回る人もいます。挨拶しても、横を向いている人もいるのです。しかし、どのような現場でありましても、この現場に神様が私を導いて下さっているのです。祝福の現場になるように導いて下さっているのです。それが聖書の教えであるのです。
 私は横浜本牧教会早苗幼稚園の園長を担っていますが、最近、一人の園児から大変励まされる言葉をかけてもらいました。幼稚園が終わり、子供たちは保護者と一緒に帰って行くのですが、一人の園児がお母さんの自転車に乗せられて帰って行きました。そのとき、その園児が後ろを振り向きながら、「園長先生、からだ大事にね」というのです。他の園児は「さようなら」と言いつつ帰って行くのですが、私の体を心配して言葉をかけてくれたのです。まだ、5歳児くらいです。幼稚園でいつも他の存在を示されながら歩んでいます。朝のクラスでは先生がお祈りしますが、休んでいる友達がいれば、必ずそのお友達をお祈りしています。ですから子供たちは、お祈りはお友達のためにお願いするのだと思っています。ある時、礼拝のときお祈りについてお話ししました。「神様、美味しいケーキをください」、「楽しいおもちゃをください」とお祈りしましょうか、と聞きました。すると子供たちは首を振るのです。「違いまーす」と言う訳です。お祈りはお友達のことをお願いするのであると思っているのです。「園長先生、からだ大事にね」と言いつつ自転車に乗せられていった園児の後姿を見つめながら、子供たちがいつも他の存在を見つめ、心にかけていることを示されたのです。やはりキリスト教の幼稚園として、いつもイエス様のお心を示されています。「自分を愛するように、お友達を愛しましょう」との教えを繰り返し示されているのです。そして、お祈りはいつもお友達ことをお祈りしているのです。「共に歩む者へと導かれ」ているのです。
 今の現実は、神様が祝福へと導く途上であるということ、神様が私の存在を重く受け止ているのであります。その神様の私達を愛するしるしがイエス・キリストの十字架なのです。私達がなかなか人を愛することができないので、神様はイエス様の十字架によって、私達の弱さを導いてくださっているのです。だから勇気を持って現実を歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。神様のお導きにより、今の現場を歩むことができ感謝致します。隣人と共に十字架の前に立つことを得させてください。主の御名によりおささげ致します。アーメン。