説教「これからの導き」

2017年5月28日、六浦谷間の集会
「復活節第7主日

説教・「これからの導き」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書10章1-11節
    エフェソの信徒への手紙4章1-16節
     ルカによる福音書24章44-53節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・158「あめには御使」
    (説教後)512「わがたましいの」


 5月の歩みも、今朝は最終の礼拝になりました。4月の新年度の始まりを歩んでまいりましたが、早くも5月も終わろうとしています。月日の過ぎるのを早く感じますが、そういう中で節目を迎えることになります。今朝の六浦谷間の集会は、礼拝を開始してから199回目になります。次回の6月4日は200回目を迎えることになります。その時が節目とは言いませんが、やはり、それなりの歩みを示されます。そして、これからも導かれて礼拝をささげるのでありますが、新たなる思いで歩みたいと示されています。節目を迎えること、いろいろな形態がありましょう。3月で学業を終え、社会人になっていく人にとって、新しい環境でどのように過ごしていくか、不安を持ちつつも希望の歩み出しをしていることでありましょう。今、早苗幼稚園の園長を担っていますが、設置者の横浜本牧教会は代務者を立てて歩んでいます。昨年の9月で前任の牧師・園長が退任しましたので、10月から、教会は代務者を立て、幼稚園は私が園長になって歩んでいます。本来、この4月からは新しい牧師、園長の体制で歩むことになっていましたが、後任が決まらず、次の牧師が決まるまで、今の体制を続けることにしたのです。教会では後任の牧師、園長を迎えるために、招聘委員会を組織して準備しています。「これからの導き」に委ねているのです。
 前週の24日は、教会は聖書研究会の日でした。その担当はいつも代務者の牧師が担当しています。しかし、前週はご都合で担当できませんで、私が担当することになりました。丁度、25日がイエス様の昇天日でありますので、昇天後の歩みについて聖書の示しをいただいたのであります。今年は4月16日がイエス・キリストのご復活の日でした。ご復活されたイエス様は40日間、お弟子さんを始め、多くの人々にご復活を示され、証されたのであります。そして、40日後の5月25日にご昇天になられたのであります。イエス様はかねてより、ご復活後には「弁護者」、「助け主」、「聖霊」が与えられる約束をされていました。イエス様が現実に見えるお姿では存在しなくなるのでありますが、お導きの聖霊を与えてくださるという約束です。しかし、その聖霊降臨は、今年は6月4日になるのです。従って、イエス様のご昇天から聖霊降臨までの10日間は空白の時となるのです。ご復活のイエス様はおられない、約束の聖霊はまだ与えられない、そういう期間が今の時なのです。この空白の期間をどうするか、どのように歩むのか、それは今朝の聖書で示されることでありますが、「これからの導き」をしっかりと受け止めて歩むことなのです。横浜本牧教会にとって、今は空白の時と言えば語弊があるかもしれませんが、祈っていることは専任の牧者を迎えることですから、その時が来るまでの、「これからの導き」を信じて歩むことなのです。そのような現実にありましても、導きが与えられているのです。
前週は「主の祈り」について示されました。それと共に祈りの姿勢をイエス様から与えられました。心から神様に祈ること、必ず神様は私たちの祈りを受けてくださることを示されました。今、不安の日々を歩む弟子達は、何よりも祈ることの導きを与えられているのであります。祈ることが導かれるのは、神様が私たちを見守り、生きる指針を与え、導いてくださっていることを信じているからであります。生きて働く神様を私たちは信じているのであります。

 神様は生きて働いておられるのです。偶像の神を信じる人々については、特に旧約聖書には繰り返し述べられています。神様の導きをいただきながら、そして神様の恵みをいただきながらも、偶像の神を造り上げる人間の欲望を聖書は繰り返し示しているのであります。今朝の旧約聖書エレミヤ書10章は「偶像とまことの神様」について示しています。偶像とは「森から切り出された木片、木工がのみを振るって造ったもの。金銀で飾られ、留め金をもって固定され、身動きもしない。きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず、歩けないので、運ばれていく。彼らは災いをくだすことも、幸いをもたらすこともできない」のであります。どうしてこのような偶像に人間は心を寄せるのでしょうか。10章2節に「主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ」と言われています。「天に現れるしるし」は光り輝く星であり、あるいは流れ星のようなものです。偶像を金星と同一視している場合もあります。ですから星の現れ方で、偶像の示しを受け取るのであります。流れ星などは不吉な示しとして恐れるということでもあるのです。しかし、偶像は人間が造ったものに過ぎないのであります。留め金で固定され、きゅうり畑のかかしのようであるとエレミヤは述べています。偶像は人間が造ったものであり、偶像が人間を造ったのではない。人間を造ったのは「まことの神様」であります。
 「主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方、御名には大いなる力があります」とまことの神様をエレミヤは讃えています。エレミヤにとって「大いなる方」である神様への信仰こそ、人間の基本的な生き方であることを人々に証しているのであります。エレミヤは祭司ヒルキヤの子であり、若い時に神様の召しをいただき預言者となりました。何歳頃かは定かではありません。1章6節、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」とエレミヤが言うので、神様は「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と励ましました。エレミヤはこの召しに答え、神様の御心を人々に示す働きをしたのであります。エレミヤが活動する頃、国には暗雲が漂っていました。聖書の国、イスラエルは小さな国であり、大国バビロニアやエジプトの間にあって、人々は国を二分するほどになっていました。バビロニアと和睦すべきである、エジプトと和睦すべきであるとの思いが交差していたのであります。そういう中でエレミヤは、国が生き延びるためにはバビロニアに降伏すべきであることを繰り返し説得するのです。しかし、指導者達は降伏の道はとりたくありません。むしろエジプトと手を結び、バビロニアを食い止めることを考えるのであります。攻めてくるバビロニアに対して、多くの人々はエジプトに逃れていきます。バビロニアに降伏することを説得していたエレミヤもエジプトに連れて行かれるのであります。おそらくそのエジプトで死んだものと思われています。
 「大いなる方」である神様を信じて生きることがエレミヤの働きであり、彼自身の人生であったのであります。指導者達は人間の力、強い国に頼っていました。一方、偽預言者たちは、神様の御心ではない自分達の思いを人々に示していました。エレミヤ書7章では「我々には主の神殿があるから、何も恐れる必要はない」と偽りの平安を述べています。また、8章では「平和がないのに『平和、平和』といっている」のであります。そして、今朝の聖書は偶像に心を寄せる人々への警告であります。人間の力への依存、人間の偽りの希望、偶像礼拝等、人々は「大いなる方」から離れ去っています。そこで、エレミヤは「大いなる方」のもとへ「帰りなさい」と繰り返し叫ぶのであります。「背信の子らよ、立ち返れ」(3章14節)。「大いなる方」こそ、あなたがたの生きる支えであり、導く存在であることを示すのであります。「これからの導き」は神様に委ねるということであります。

 その「大いなる方」が約束されたものをあなたがたに送られると主イエス・キリストは弟子たちに示しました。「大いなる方」が力をくださる約束なのであります。主イエス・キリストは復活後人々に現れました。二人の弟子がエルサレムからエマオに下る途上、道連れの人が加わりました。その道連れの人が復活のイエス様でありました。エマオの宿に着いてからイエス様であることが分かり、二人はもはや夜でありますが、都エルサレムにとって返し、他の弟子達に報告したのであります。すると他の弟子達も復活のイエス様にお会いしたことを語りあっていたのでありました。そこへ復活のイエス様が再び現れたのであります。復活のイエス様にお会いしたことを語り合っていたのに、再び現れたイエス様を見たとき、恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったのでした。その彼らにイエス様は手や足を見せながら、復活したイエス様であることを証し、彼らの見ている前で焼き魚を食べたのでした。そこで今朝の聖書ルカによる福音書24章44節以下になります。
 主イエス・キリストは改めて、イエス様がモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄が実現された存在であることを示したのであります。つまり、旧約聖書で証しされていることは救い主イエス・キリストであるということであります。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受けて、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまってといなさい」とイエス様は言われています。
 この後、主イエス・キリストは昇天されますが、このルカによる福音書はイエス様の昇天にあたり、イエス様が言い残されたことを示しているのであります。「死者の中から復活された救い主イエス様により、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということであります。「大いなる方」が人間をそのように導いているのであります。そして、その働きを導くのが、「大いなる方」がくださる約束の聖霊なのであります。
 主イエス・キリストは手を上げて弟子たちを祝福しました。そして、祝福しながら天に上げられていったのであります。ルカによる福音書はイエス様の昇天については短く報告していますが、使徒言行録でもう少し詳しく報告しています。使徒言行録1章11節、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と白い服を着た二人の人、すなわち天使が言われたのでありました。天に昇られたが再びあなたがたのところにおいでになると言うのです。一つは聖霊としておいでになるということです。そして、終末のときにおいでになるということであります。弟子達はこの約束を信じて、今は空白のときでありますが、常に集まり、ともに祈りをあわせ、「大いなる方」を賛美していたのでありました。今は主イエス・キリストはおられません。約束の聖霊は降っていません。空白のときなのです。この空白のときをお弟子さん達は祈りつつ、賛美しつつ、共に集まっていたのでありました。そこに導きがありました。まさに祈りつつ集まっているところに聖霊が降ったのであります。「これからの導き」を信じていたのです。

 神様は、「これからの導き」を与えてくださっています。今は空白の時でありますが、力強い聖霊のお導きが、間もなく与えられるのです。空白の時こそ、「これからの導き」を信じて歩むことなのです。
 2010年3月に前任の大塚平安教会を退任しました。退任の一年前より、辞任が決まり、退任を示されながら歩んでいたのです。丁度その頃、日本基督教団の「隠退教師を支える運動」推進委員会が、30年記念誌を発行するので、当時、教団書記であった私にも寄稿を依頼されたのでした。わたし自身、隠退を目の前にしていましたので、その心境を書いたのでした。記念誌は「夕べになっても、光がある」という、いかにも隠退教師を示す題であります。その記念誌にこのように記しました。
 「どこの教会に行こうか」と連れ合い。「そうだねえ」と行ったきり黙っている私。こんな会話が多くなった。いよいよ教会を退任する方向がはっきり決まってから、なにげなく出てくる言葉である。来年3月末で退任することを教会に申し出た。そして、臨時総会が開かれ、退任が決まった。今年は夫婦共に70歳を迎え、この教会で30年の牧会であり、前任時代を加えると40年間となる。聖書に関わる40年であり、この時をもって退任することを数年前から示されていた。そして、その退任がはっきりしたとき、退任後の方向もぼつぼつ話されるようになった。「退任したら、スペインに行こうね」と連れ合い。「家でのんびりしていたいよ」と私。娘がバルセロナでピアノの演奏活動をしている。連れ合いは今までも二度訪ねている。退任したら絶対に一緒に行こうと言うのである。当然のことながら、現職中は長期の休みが取れない。退任後、当分の間は人生の整理に明け暮れるだろうと思っている。むしろ外国よりも国内の観光をしたいとの思いが強い。教団書記を四期も担っていると、教区総会問安使として各地に赴いている。しかし、日本列島各地を訪ねるものの、いつもとんぼ返りであり、ゆっくりと観光のときを得なかった。「庭に花をいっぱい咲かせて、野菜も取れるようにするね」と連れ合い。「何とか支えられて余生が過ごせるよ」と私。いよいよ隠退を視野に入れたとき、「隠退教師を支える運動」が心に示されるようになった。
 以上のような拙文でありますが、「これからの導き」を信じて歩んでいたのです。その導きが六浦谷間の集会で礼拝をささげることであり、毎月、他の教会のお招きをいただくことであり、そして今は、幼稚園の園長を担うことでありました。空白のときこそ、約束の導きを信じて歩むことを示されているのです。現状を心配することはありません、聖霊のお導きが与えられているのです。
<祈祷>
聖なる神様。昇天された主は「これからのお導き」をも与えてくださり感謝いたします。祈りつつ約束の聖霊を待つ者へと導いてください。主の名によってささげます、アーメン。