説教「真実の自由が与えられる」

2020年2月9日、六浦谷間の集会
降誕節第7主日

 

説教、「真実の自由が与えられる」 鈴木伸治牧師
聖書、ヨブ記22章21-30節

   ヨハネの手紙<二>4-11節
   ヨハネによる福音書8章31-38節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・124「みくにをも」
   (説教後)讃美歌54年版・514「よわきものよ」

 


 今朝は2月9日でありますが、明後日の2月11日は「建国記念の日」とされています。そのため祝日になっています。祝日を喜ぶわけですが、しかし、「建国」といわれましても、根拠のない建国なのであり、歴史的な経過というものがないのであります。もとは「紀元節」といわれていました。日本の歴史を示す「日本書紀」は、初代天皇の即位の日として1872年(明治5年)に制定されました。しかし、その後は廃止されたりしましたが、正式に「建国記念の日」として制定されるのは1966年(昭和41年)6月25日に成立したのでした。従って、建国記念の日として定められても、歴史が浅く、根拠もない建国なので、この日の意義がいつも問われているのです。外国では独立記念日として、共に喜びお祝いするのですが、日本の建国記念日は、何も喜びがないのです。
外国では独立記念日を建国の日としている国々がありますが、その場合には歴史の流れを示されながら国の始まりを示されているのです。そのため、キリスト教ではこの日を「信教の自由を守る日」として迎えています。各地で信教の自由を守る講演会、学習会が行われます。所によってはデモ行進まで行われています。前任の大塚平安教会時代、所属する湘北地区でも集会を開いていました。そういう中で講演会とか学習会も必要なのですが、何よりも神様にお祈りをささげることが大切なのであり、「信教の自由を守る湘北地区合同祈祷会」としての集会を開いていました。奨励をいただき、その後は三々五々集まり、祈祷をささげていたのです。何よりも神様にお祈りをささげ、御心を示されることが大切なのであります。
 建国ということで、国民の思いを一つにする傾向がありますが、信仰の自由、真実の自由が与えられることです。今は本当に自由に生きる時代です。私のような昔ながらの人間は、いつも規律とか約束事、身だしなみとか、いつも気を付けながら過ごしていたものです。今でもその傾向があるでしょう。しかし、今は、自由な生き方であると思います。どんな格好をしても、何も言われませんし、何をしても良いというような傾向でもあります。イベントで集まれば、自由気ままな振る舞いになるのです。誰かが注意するものなら、何をしようと自由であるといわれるのです。しかし、自由とは自分の欲望のままに過ごすことではありません。欲望を抑える自由が大切なのです。もともと聖書が示す原罪は、自由の間違いを示しているのです。
 神様が人間を造った時、最初の人といわれるアダムとエバエデンの園で過ごしていました。神様は彼らに、何をしても、何を食べても良い。しかし、園の中央の木のみを食べてはならないと戒めていました。ところが蛇の誘惑で、二人は禁断の木の実を見つめます。見るからにおいしそうな木の実であり、食べれば賢くなるのではないかと思われたのでした。それで彼らは戒められているにも関わらず、食べてしまうのでした。この時、食べることは自由であるのかということです。戒めを破ることが自由であるとは言われません。欲望があるにしても、その欲望を抑えることが本当の自由なのです。欲望の奴隷にはならないということです。欲望を抑えることが自由であるということなのです。聖書は、欲望に負けたこと、本当の自由を無視したこと、それが原罪であると示しているのでした。真実の自由が与えられること、今朝の示しをいただきたいのです。

 旧約聖書は一つの警告を示しています。ヨブ記が示されています。旧約聖書は39の書物が聖書となっていますが、それらは歴史書、文学書、預言書に分けることができます。ヨブ記詩編と共に文学書であります。従って、歴史的に登場した人物を記すのではなく、文学的に設定された人物群を通して神様の御旨を示しているのであります。
ヨブ記は1章、2章で主題が設定されています。人間は神様の前にどう生きるかであります。天上において神様の前に天使たちが集まります。神様は天使サタンに言うのです。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」。これを聞いた天使サタンは神様に反論します。つまり、神様がお恵みを施しているから、ヨブは信仰があると言い、お恵みが無ければ神様を呪うというのです。神様は天使サタンがヨブに害を与えることを許します。それにより、ヨブの財産は無くなり、10人の子ども達まで失ってしまうのです。しかし、ヨブはお恵みが無くなったからと言って神様を呪いませんでした。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」というのでした。天使サタンは、「ヨブは自分自身に命の害が無いので、そんなことを言うのです。彼の体に害があるなら神様を呪う」と主張します。天使サタンは神様のお許しを得て、ヨブに危害を与えます。ヨブは全身に皮膚病ができ、陶器のかけらで体中をかきむしるようになりました。そういう中でも、ヨブは神様を呪いませんでした。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」というのでした。
苦難のどん底で苦しむヨブを三人の友人が見舞いに来ます。そして、順次見舞いの言葉と共に、ヨブに言い含めるのです。すなわち、あなたがこのように苦しんでいるのは、あなたが罪を犯したためであり、だから速やかに神様に罪を悔い改めなさいということでありました。悪いことをしたから苦しむ結果になる、すなわち因果応報的な考えであります。三人の友人は大変立派なこと、あたかも神様のお心であるかのように、ヨブに述べています。しかし、結局は因果応報的な解釈であり、この現実は明らかに罪の故であるとするのです。それに対してヨブは、何ゆえ正しい者が苦しまなければならないのか、と反論しますが、ヨブ自身も因果応報的に受け止めているのです。
今朝の聖書はヨブ記の22章であり、見舞いに来た友人、エリファズの説得であります。エリファズは、「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう」とヨブに言っていますが、根源にあることは因果応報の論理であり、それは極めて人間的な結論であるのでした。良いことをすれば祝福があり、悪いことをすれば不幸になるということ、これは人生訓的でもあり、格言的なとらえ方なのであります。人間が考えた祝福であり、呪いでもあるのです。このような人間的な善悪の判断でよいのかということが旧約聖書の問いかけでもあるのです。人間が、真に命に導かれるのは神様の示しなのであり、人間の人生訓ではないことを示したのがヨブ記でありました。

 新約聖書ヨハネによる福音書は8章31節からであります。21節で、イエス様は、「わたしは去っていく。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることはできない」と言っています。それに対してユダヤ人たちは、「自殺でもするつもりなのだろうか」と話し合うのでありました。その後もイエス様とユダヤ人の間には論争がありますが、食い違っているようであり、論争がかみ合わないのです。イエス様はご自分の証しをしていますが、ユダヤ人達は極めて人間的な思いでイエス様を理解しようとしているのです。
 かみ合わない対話の中にイエス様は真理を示し、神様の御旨を示しているのです。今朝の聖書は8章31節からでありますが、イエス様が示そうとしていることは8章1節以下に記される出来事、すなわち人間の救いということなのです。ここには一人の罪を犯した人について記されています。一人の人が罪を犯したというので、人々はその人をイエス様のところに連れてきます。このような人は石で打ち殺せと律法に記されているが、あなたならどうするか、とイエス様に詰め寄るのです。明らかにイエス様の答え方次第で、訴える口実を作るためなのです。どうするのか、どうするのかと答えを迫っている人々に対して、イエス様はかがみ込み、指で地面に何かを書き始めていました。しかし、人々がしつっこく問い続けるので、身を起こして言われるのでありました。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この人に石を投げなさい」と言われ、再び身をかがめて地面に書き続けられたのでありました。イエス様の言葉を聞いた人々は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、連れてこられた人だけがそこにいるのでした。つまり、人を裁いていますが、自分自身を考えてみれば、自分は罪がないとは言えないのです。「あの人たちは何処にいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」とイエス様は言われ、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのであります。イエス・キリストは裁くためではなく、一人の存在を真に生かすために来られていることを示しているのです。そして、その後のかみ合わない対話も、イエス様が救いについて示しているにも関わらず、理解しない人々なのであります。
 その後、イエス様は12節で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。すると人々は、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と否定します。そのような対話があって、今朝の聖書は、イエス様が「わたしはある」という存在であることを示しているのです。すなわち、救い主であることを証しているのでありますが、人々は常識的な範囲でしかイエス様を理解することはできないのでありました。
 ヨハネによる福音書はかみ合わない対話、人々とイエス様の対話が次々に示されています。そのことはヨハネによる福音書2章23節以下に記されることが基となっているのです。このように記されています。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と示されています。イエス様の証しに対して、人間は極めて常識的な判断しかできないと示しているのです。それはヨブ記でも示されたように、あたかも神様の御旨であるかのように教え諭していること、因果応報的に示すことしかできないことであります。神様の御旨として受け止めていることの中には、私の思い、希望がたくさん含まれているのです。人間の教え、人間の理解である限りイエス・キリストの教えは信じられないのです。イエス様の教えを信じること、それが主の教えに向かうことであり、私が真に生きる者、自由に生きる者へと導かれることなのです。

 もう一度、「主の教えに向かう」ことについて示されておきます。私たちはイエス・キリストが私たちの心にしみる、励ましと希望が与えられる言葉を求めているのです。励ましが与えられた、希望が与えられたということは、私の心に適ったということなのであります。希望を与えてくださるイエス様の言葉でありますが、しかし行き詰ってしまうのです。イエス・キリストの教えを喜んで受け止めていたとき、マタイによる福音書10章34節以下の聖書を読むことになります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族のものが敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」。このイエス様の言葉に行き当たると、そこで立ち止まってしまうのです。こんな酷いことを言うイエス様って何だろうと思います。
 以前、一人の方が礼拝に出席され、キリスト教入門講座にも出席されました。その方が決意されて洗礼を志願されました。聖書を一生懸命読まれていました。その方が、このマタイによる福音書10章の言葉を読んだとき、心にかかるものを感じたのでありました。イエス様はこんなことを言われるのですか、と言うのです。イエス様は家族の仲たがいを奨励しているのではなく、一人ひとりの信仰を励ましているのですよ、とお話しました。家族は大切でありますが、天国に迎えられるのは私の信仰においてであり、愛する家族といえども、力にはならないことを示しているのです。洗礼式当日の朝、その方から電話があり、洗礼は取りやめたいということでありました。
 私たちはいろいろな教え、人生訓、格言の中に生きていますが、自分の思いを投影した教えを持つのではなく、心を無にしてイエス・キリストに向かうことが大切なことなのです。主の教えに向かうこと、イエス様そのものに向かうこと、そこに真の道があり、祝福の人生が導かれてくるのであります。イエス・キリストに向かうとは、十字架の救いを仰ぎ見るということなのであります。そこに本当の自由の人生が導かれて来るのです。「真実の自由が与えられる」のは、自分の思いのままになるということではないのです。自由と言いながらも自分の欲望の奴隷になっているのです。自分を超えた存在の、神様のお心によって歩むこと、それが本当の自由ということです。私たちは自分の意のまま過ごすことが自由と思っていますが、それは自分の欲望の奴隷なのであり、自分を超えて神様の御心によって歩むことこそ、真実の自由に生きることなのです。
<祈祷>
神様、今日も主の教えに向かわせてくださり感謝いたします。私の思いを投影するのではなく、十字架の主に真に向かわさせてください。主の名によって祈ります。アーメン。

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