説教「顧みてくださる方」

2016年1月31日、三崎教会 
降誕節第6主日

説教、「顧みてくださる方」 鈴木伸治牧師
聖書、ヨブ記23章1-10節、
    ヨハネによる福音書5章1-9節
賛美、(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」
     (説教後)讃美歌21・433「あるがままわれを」


 1月も早くも終わろうとしています。もう、今では新年の挨拶をする人はいなくなりましたが、それでも久しぶりにあった方から、新年の挨拶をいただき、なんか不思議な思いにもなります。クリスマスが終わり、すぐ新年となりますので、お楽しみが続きました。クリスマスを楽しんだ後は、故郷に帰省する家族は、大変な思いで旅をします。それでも故郷ではおじいちゃんやおばあちゃんに喜ばれる訳であります。そして成人の日があり、新成人のお祝いがありました。今度は2月14日のバレンタインデイに向かっています。もう今からチョコレートがお店には並べられています。こうして私たちは喜びの日を迎えながら歩んでいます。ラクビーで日本中がわきましたが、最近では相撲において10年ぶりに日本人力士が優勝したことで喜んでいるのです。こうして私たちは喜びを求めて歩んでいます。それはどこの国も同じであり、人間の基本的な姿でもあります。
一昨年の10月からスペインに滞在しまして、昨年の1月8日に帰国しました。そんなに長く滞在したのは、スペインのクリスマスを体験したかったからであります。クリスマスは12月25日でありますが、それと共にスペインでは1月6日の顕現祭が人々の喜びとなっています。クリスマスはイエス様が御生まれになったことで、人々は教会のミサに出席し、信仰の喜びをいただくのです。日本のようにクリスマスのパーティー等はあまり聞かれません。むしろ1月6日の顕現祭に希望を持っているのです。顕現祭は、聖書によれば、東の国の占星術の学者さんたちが、お生まれになったイエス様にお会いした日とされています。それにより世界の人々にイエス様の信仰が広められたと信じられているのです。スペインでは占星術の学者は王様になっています。三人の王様がお供を連れて、船でバルセロナにやってくるのです。王様たちは広場の椅子に腰かけています。その前でいろいろなイベントが行われるのです。お供の者が人々にお菓子を配っています。このイベントのために多くの人々が広場に集まってくるのです。本当は私達も出かけて行き、体験したかったのですが、娘の羊子が危険だから行かない方が良いと言うので、テレビで実況放送していましたので、その模様を見たのでした。本当に行かない方が良かったと思います。
 バルセロナでもいろいろなお祭りがありまして、その度に多くの人々が集まっていました。ヒガンテスの踊りと言うのがあります。日本で言えば、大きな案山子を動かして、いろいろな踊りをするのです。案山子の中には人が入っていて、動き回りますが、ただそれだけのことなのですが、ヒガンテスの踊りを見るために大勢の人々が集まるのです。あるいは人間の塔を競い合うお祭りもあります。人々が五段、六段と塔を作り、一番上には幼稚園くらいの子供がのぼり、手を広げて完成を宣言するのです。いろいろなグループが人間の塔を作っては、人々に喜びを与えているのです。
 私達人間は、絶えず喜びを求めて歩んでいます。その喜びを求める陰には、苦しいことを忘れたい、悲しいことから逃れたいとの思いもあります。いわば現実逃避と言っては語弊があるかもしれませんが、嫌なことを忘れたいとの思いがあるのです。しかし、イエス様は、現実を見つめることを示しています。現実をしっかりと受け止め、そして現実を力強く歩むことを教えておられるのです。本日の聖書のテーマは「癒してくださるイエス様」でありますが、私達の現実を顧みてくださる方として示されています。

 今、置かれている状況を神様に投げかけること、それが今朝ヨブ記23章の主題となります。旧約聖書は前週に続いてヨブ記の示しであります。
ヨブ記は1章、2章で主題が設定されています。人間は神様の前にどう生きるかであります。天上において神様の前に天使たちが集まります。神様は天使サタンに言うのです。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」。これを聞いた天使サタンは神様に反論します。つまり、神様がお恵みを施しているから、ヨブは信仰があると言い、お恵みが無ければ神様を呪うというのです。神様は天使サタンがヨブに害を与えることを許します。それにより、ヨブの財産は無くなり、10人の子ども達まで失ってしまうのです。しかし、ヨブはお恵みが無くなったからと言って神様を呪いませんでした。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」というのでした。天使サタンは、「ヨブは自分自身に命の害が無いので、そんなことを言うのです。彼の体に害があるなら神様を呪う」と主張します。天使サタンは神様のお許しを得て、ヨブに危害を与えます。ヨブは全身に皮膚病ができ、陶器のかけらで体中をかきむしるようになりました。そういう中でも、ヨブは神様を呪いませんでした。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」というのでした。
苦難のさなかにあるヨブを三人の友人が見舞うのですが、その中でも最年長者のエリファズがヨブを説得しているのが22章です。このようにヨブが苦しむのは、結局は罪の故であり、悔い改めない限り癒されないとして説得しているのであります。そのような説得は因果応報的な考えであります。三人の友人達は口を揃えてヨブを慰め、説得していますが、いずれもヨブの罪を攻め立てるのであります。今朝の聖書は、23章はヨブの反論です。
 「今日も、わたしは苦しみ嘆き、うめきのために、わたしの手は重い。どうしたら、その方を見出せるのか。その方にわたしの訴えを差し出し、思う存分わたしの言い分を述べたいのに。答えてくださるなら、それを悟り、話しかけてくださるなら、理解しよう。」
 この現実の意味を知りたいとヨブは叫んでいます。友人達が口を揃えて、お前の罪の故だと言うのですが、身に覚えのない罪であり、一口に罪を悔い改めなさいと言われてもできるはずがないのです。神様こそ現実の意味を示される方であると信じているヨブでした。答えてください、悟らせてくださいと叫んでいるのです。神様だけはわたしを真実に証明してくださると信じています。このわたしは人の評価ではなく、神様のみが正しく評価してくださるのであります。叫んでも叫んでも、この声は受け止められないのですか。神様は何処におられるのですか。どうぞ、僕の声を受け止めてくださいと独白が続けられます。
 ここに至って、ヨブは神様が自分を捕らえてくださっていることに大きな希望をもっているのです。現実を見る限り、それは悲しみの現実です。その現実から目をそむけたくなります。しかし、この現実は紛れもない現実なのであります。この現実を真実受け止めるとき、私たちはその現実にこそ神様の御心があり、導きがあることを示されるのであります。苦しい、悲しい現実であるが故に、逃げたり、別の自分になろうとする私たちへの警告であります。ヨブのようにしっかりと現実を受け止めることであります。現実の意味が分からないので、繰り返し神様に尋ねることであります。性急に答えを求めるあまり、既に示されている導きを見落としてしまうこともありますが、神様は私の現実を受け止め、その意味を私にお示しになられるのです。大事なことはこの現実から逃げないことなのであります。とにかく、この現実を神様に投げかけることなのであります。何もかも、神様に申し上げることが大切なことなのであります。

 置かれている状況を神様に投げかけること、このヨブ記の示しを受けつつ、ヨハネによる福音書5章のメッセージとなります。エルサレムには羊の門の傍らに、「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊がありました。この回廊には病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていたのであります。つまり、池の周りに長い廊下のような小屋が建てられており、そこには多くの病の人がいたというわけです。その中に38年間も病気で苦しんでいた人がいました。イエス様はこの池にやってきて、横たわっている38年間病気の人に、「良くなりたいか」と声をかけたのであります。何か不思議な問いでもあります。38年間も病気であり、良くなりたいのは当然であります。しかし、あえてイエス様はそのような質問をしたのでした。それは、イエス様の問いに、38年間病気である人の答えに現れているのです。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りていくのです」と言っています。ベトザタの池は間欠泉であるようです。水が動くとは、間を空けて地の底から吹き上がってくる、つまり間欠温泉のような池であるのでしょう。イスラエル旅行をした際、ガリラヤ湖のほとりに温泉がありました。この都のエルサレムにも温泉があったのかも知れません。地面から新しい温泉が出てくる、その新しい温泉を浴びることで病が癒されると信じられていたのでした。従って、池の水が動き出すと、五つの回廊にいた人たちが一斉に池の中心に向かいますから、池の中はいっぱいになり、入れなくなるということです。38年間病気の人はそのような言い訳を言っているのであります。イエス様が「良くなりたいか」と聞かれた意味がここにあるのです。つまり、この人は、誰かがこの人を抱っこして水に入れてくれなければ治らないと思っています。しかし、誰も自分を水に入れてくれないと諦めきっているのでありました。
 「良くなりたいか」とイエス様が尋ねたのは、あなたは誰かの助けではなく、まず自分を神様に投げかけなさいと示しているのであります。今の状況、38年間病気であること、誰も助けてくれないこと、一人さびしく治らないと思い込んでいることを神様に投げかけなさいと言われているのです。自分であのようでなければ駄目だ、このようでなければ駄目だと決めるのではなく、そのままの姿を神様に投げかけなさいと導いておられるのです。そして、イエス様は言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。38年間病気の人は、今まで考えたこともないことを言われたのです。驚きました。何か新しい自分になっていることを知ります。歩ける思いが強くなっていきます。そして、立ち上がり、言われたように、床を担いで歩き出したのでありました。叫び求める人々にはお答えになり、叫ぶことを知らない人々には、自分を神様に投げかけることを教えておられるのです。「なおりたいのか」とイエス様は私たちにも問いかけておられます。「治りたいのは、当たり前でしょ」と言わないで、もう一度、自分の現実を見つめることなのです。そして、この現実を、そのままイエス様に投げかけることを示しているのであります。

 昔、前任の宮城県の教会で、一人の老婦人が隣の町から、時々教会に出席しておられました。バスに乗って来られるのですが、なかなか大変のようでありました。ある日、その老婦人が尋ねられました。「私は以前から体の具合が良くなくて、お医者さんに診てもらいながらの生活です。時々、教会に出席させていただいておりますが、教会のお祈りは神様にお願いしていますが、わたしのような者が、病気についてお祈りしても良いのでしょうか。わたしの病気を治してください、というようなお祈りをしても良いのでしょうか」と言われるのです。お祈りといえば、世の中のこと、教会の歩みのことなどが祈られており、個人の願いごとはいけないと思われるのです。私は申し上げました。もちろん、自分の病気を治してください、とお祈りしても良いのですよ。神様には何でもお願いしてください。すぐにはお祈りしたことが答えられないと思われますが、神様は必ずお答えくださいます、とお話しをしました。自分の状況を神様に申し上げることです。老婦人は深くうなずかれましたので、きっとご自分をイエス様に投げかけられたと思います。旧約聖書のヨブは自分の状況、自分の気持ちをそのまま神様に投げかけているのです。何処を捜しても神様はいないと思いながらも、なおも神様に自分を投げかけているのです。やがて、神様はヨブに声をかけられます。そして、ヨブは自分には罪がないと主張し、だから因果応報の論理に対抗していたのですが、初めて自分の存在そのものが罪にあることを知るのです。そして、心から悔い改めることで再び祝福へと導かれたとヨブ記は記しています。
 イエス・キリストは十字架にかけられる前、ゲッセマネの園でお祈りをいたしました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。杯とはイエス様が十字架にかかることですが、自分の気持ちにおいては十字架にはかかりたくないのです。しかし、すべてを神様に委ねられたのであります。そして、十字架にかけられ、いよいよ息を引き取るとき、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのであります。どうして神の子イエス・キリストがこのような叫びをするのだろうか、と思われるのでしょうか。一人の人間としてこの世に現れたイエス様です。死の苦しみは人間の苦しみなのです。絶望の叫びでもあります。しかし、この絶望の叫びを神様に向けているのです。
 人々の叫びを受け止め、叫ぶことのできない人々には叫びを示したイエス様は、自らが神様に叫びを上げていたのです。このイエス様に示される叫びを私たちも持ちたいのです。自分の何もかも、どのような状況でも、この私を神様に投げかけることです。そうすれば祝福が与えられますとは申しません。そのようなことを言えば、極めて人間的な理解になるからです。今朝の示しは、この自分を神様に投げかけるということなのであります。
<祈祷>
聖なる神様。何事も自分の状況を神様に投げかけ、私に与えられている現実をしっかりと受け止めつつ歩めるようにしてください。主イエス・キリストによって。アーメン。