説教「本当の自由」

2016年1月24日、六浦谷間の集会 
降誕節第5主日

説教、「本当の自由」 鈴木伸治牧師
聖書、ヨブ記22章21-30節
    ヨハネの手紙<二>4-11節
     ヨハネによる福音書8章31-38節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・121「馬槽のなかに」
    (説教後)讃美歌54年版・514「よわきものよ」


 今朝は1月24日、1月の第四日曜日であります。この日になるといつも思い出すことがあります。大塚平安教会在任の頃、1月の第四日曜日は教会学校主催で「餅つき大会」が行われていました。教会学校の主催でしたが、教会全体で取り組んでいました。教会だけでは、そんなに人が集まりませんが、幼稚園にも呼びかけますので、親子で参加し、200名の人々の集まりとなるのです。付きたてのお餅をいろいろなものと絡めていただくのです。あんこ餅、おろし餅、納豆餅、海苔餅、黄な粉餅等、一通り味わってお腹いっぱいになります。もともと餅つきは幼稚園で行いました。園長である私の実家には臼と杵がありましたので、それを用いて行いました。しかし、幼稚園では保育の中で行いましたので、臼でお餅をつく作業は園長と共に教職員も行いましたが、やはり大変なことでした。2年続けましたが、それ以来行わなくなりました。それから数年後に、教会学校のイベントとして餅つき大会を行うことにしたのです。教会学校の子どもはそれ程多くはありませんので幼稚園の保護者にも呼びかけました。親子と言うより家族で参加しますので、多くの参加者となります。餅つきの方は教会の壮年会、青年会、更に幼稚園保護者のお父さん達がしてくれるので、みんなで代わる代わる行うのでした。付きあがったお餅は、婦人会と共に幼稚園のお母さんたちも手伝ってくれるので、楽しく交わりながら、お餅を作るのです。
 餅つき大会の前には礼拝を行います。お餅つきでのお交わりが祝福のひと時でありますよう、またお恵みを心から感謝しながらいただくことができますよう、お祈りをするのでした。子どもたちも餅つきを体験しますが、教会学校としての楽しい交わりのひと時も用意していました。楽しく過ごし、お腹いっぱいになる餅つき大会は、その後も大塚平安教会の取り組みとなっており、今年も賑やかに、そして祝福のうちに行われるでしょう。
 楽しいイベントを行っても、だからと言って人々が教会に繋がる訳ではありません。先日、昔の友達が来宅され、懇談する時がありました。野島にある日本基督教団ではない教会に出席していますが、やはりなかなか人々が教会に来ないことということです。伝道集会を開催しても人々は来ない。何かイベントを開くことを考えているようですが、イベントの時は多くの人が来ても、そのまま礼拝に出席するのではありません。それでは何も伝道はできないのですが、そこに教会があるということが大きな伝道でもあるのです。イベントに出席した人が、いつかどこかで導かれて教会に出席するのかもしれません。イベントを開いたから、大勢の人々が礼拝に出席する、その様な短絡的な理解ではなく、イエス様の教えを持ち続け、人々に伝え続けることが基本なのです。今朝のイエス・キリストを示される時、孤独な姿を示されます。イエス様も人々が理解できない中で、神様の御心を教え続けたのでした。今朝は「教えるキリスト」が主題であり、イエス様が教え続けておられることを示されるのです。信仰は孤独であります。ただ神様を仰ぎ見つつ歩むこと、人々の理解がなくても、その歩みこそ祝福なのであり、本当の自由を与えられた者としての歩みなのです。イエス様の教えをいただく時、自由なる者としての歩みとなるのです。

 旧約聖書は一つの警告を示しています。ヨブ記が示されています。旧約聖書は39の書物が聖書となっていますが、それらは歴史書、文学書、預言書に分けることができます。ヨブ記詩編と共に文学書であります。従って、歴史的に登場した人物を記すのではなく、文学的に設定された人物群を通して神様の御旨を示しているのであります。
ヨブ記は1章、2章で主題が設定されています。人間は神様の前にどう生きるかであります。天上において神様の前に天使たちが集まります。神様は天使サタンに言うのです。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」。これを聞いた天使サタンは神様に反論します。つまり、神様がお恵みを施しているから、ヨブは信仰があると言い、お恵みが無ければ神様を呪うというのです。神様は天使サタンがヨブに害を与えることを許します。それにより、ヨブの財産は無くなり、10人の子ども達まで失ってしまうのです。しかし、ヨブはお恵みが無くなったからと言って神様を呪いませんでした。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」というのでした。天使サタンは、「ヨブは自分自身に命の害が無いので、そんなことを言うのです。彼の体に害があるなら神様を呪う」と主張します。天使サタンは神様のお許しを得て、ヨブに危害を与えます。ヨブは全身に皮膚病ができ、陶器のかけらで体中をかきむしるようになりました。そういう中でも、ヨブは神様を呪いませんでした。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」というのでした。
苦難のどん底で苦しむヨブを三人の友人が見舞いに来ます。そして、順次見舞いの言葉と共に、ヨブに言い含めるのです。すなわち、あなたがこのように苦しんでいるのは、あなたが罪を犯したためであり、だから速やかに神様に罪を悔い改めなさいということでありました。悪いことをしたから苦しむ結果になる、すなわち因果応報的な考えであります。三人の友人は大変立派なこと、あたかも神様のお心であるかのように、ヨブに述べています。しかし、結局は因果応報的な解釈であり、この現実は明らかに罪の故であるとするのです。それに対してヨブは、何ゆえ正しい者が苦しまなければならないのか、と反論しますが、ヨブ自身も因果応報的に受け止めているのです。
今朝の聖書はヨブ記の22章であり、見舞いに来た友人、エリファズの説得であります。エリファズは、「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう」とヨブに言っていますが、根源にあることは因果応報の論理であり、それは極めて人間的な結論であるのでした。良いことをすれば祝福があり、悪いことをすれば不幸になるということ、これは人生訓的でもあり、格言的なとらえ方なのであります。人間が考えた祝福であり、呪いでもあるのです。このような人間的な善悪の判断でよいのかということが旧約聖書の問いかけでもあるのです。人間が、真に命に導かれるのは神様の示しなのであり、人間の人生訓ではないことを示したのがヨブ記でありました。

 新約聖書ヨハネによる福音書は8章31節からであります。21節で、イエス様は、「わたしは去っていく。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることはできない」と言っています。それに対してユダヤ人たちは、「自殺でもするつもりなのだろうか」と話し合うのでありました。その後もイエス様とユダヤ人の間には論争がありますが、食い違っているようであり、論争がかみ合わないのです。イエス様はご自分の証しをしていますが、ユダヤ人達は極めて人間的な思いでイエス様を理解しようとしているのです。
 ヨハネによる福音書はイエス様とお弟子さん、またユダヤ人との対話が示されていますが、いずれもイエス様の示していることがわからないままに対話が進められているのです。例えば、4章にはイエス様とサマリアの女性との対話があります。イエス様がサマリアの女性に水を所望します。そこで水問答がされるのでありますが、サマリアの女性はあくまでも飲み水に執着しています。イエス様は人間に必要な水、魂の渇きを癒す水についてお話しするのです。そこで言われたことは、「この水を飲む者は誰でもまた乾く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」示しているのです。
 かみ合わない対話の中にイエス様は真理を示し、神様の御旨を示しているのです。今朝の聖書は8章31節からでありますが、イエス様が示そうとしていることは8章1節以下に記される出来事、すなわち人間の救いということなのです。ここには一人の罪を犯した人について記されています。一人の人が罪を犯したというので、人々はその人をイエス様のところに連れてきます。このような人は石で打ち殺せと律法に記されているが、あなたならどうするか、とイエス様に詰め寄るのです。明らかにイエス様の答え方次第で、訴える口実を作るためなのです。どうするのか、どうするのかと答えを迫っている人々に対して、イエス様はかがみ込み、指で地面に何かを書き始めていました。しかし、人々がしつっこく問い続けるので、身を起こして言われるのでありました。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この人に石を投げなさい」と言われ、再び身をかがめて地面に書き続けられたのでありました。イエス様の言葉を聞いた人々は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、連れてこられた人だけがそこにいるのでした。つまり、人を裁いていますが、自分自身を考えてみれば、自分は罪がないとは言えないのです。「あの人たちは何処にいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」とイエス様は言われ、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのであります。イエス・キリストは裁くためではなく、一人の存在を真に生かすために来られていることを示しているのです。そして、その後のかみ合わない対話も、イエス様が救いについて示しているにも関わらず、理解しない人々なのであります。
 その後、イエス様は12節で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。すると人々は、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と否定します。そのような対話があって、今朝の聖書は、イエス様が「わたしはある」という存在であることを示しているのです。すなわち、救い主であることを証しているのでありますが、人々は常識的な範囲でしかイエス様を理解することはできないのでありました。
 ヨハネによる福音書はかみ合わない対話、人々とイエス様の対話が次々に示されています。そのことはヨハネによる福音書2章23節以下に記されることが基となっているのです。このように記されています。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と言われました。イエス様の証しに対して、人間は極めて常識的な判断しかできないと示しているのです。それはヨブ記でも示されたように、あたかも神様の御旨であるかのように教え諭していること、因果応報的に示すことしかできないことであります。神様の御旨として受け止めていることの中には、私の思い、希望がたくさん含まれているのです。人間の教え、人間の理解である限りイエス・キリストの教えは信じられないのです。イエス様の教えを信じること、それが主の教えに向かうことであり、私が真に生きる者、自由に生きる者へと導かれることなのです。

 もう一度、「主の教えに向かう」ことについて示されておきます。私たちはイエス・キリストが私たちの心にしみる、励ましと希望が与えられる言葉を求めているのです。励ましが与えられた、希望が与えられたということは、私の心に適ったということなのであります。希望を与えてくださるイエス様の言葉でありますが、しかし行き詰ってしまうのです。イエス・キリストの教えを喜んで受け止めていたとき、マタイによる福音書10章34節以下の聖書を読むことになります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族のものが敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」。このイエス様の言葉に行き当たると、そこで立ち止まってしまうのです。こんな酷いことを言うイエス様って何だろうと思います。
 以前、一人の方が礼拝に出席され、キリスト教入門講座にも出席されました。その方が決意されて洗礼を志願されました。聖書を一生懸命読まれていました。その方が、このマタイによる福音書10章の言葉を読んだとき、心にかかるものを感じたのでありました。イエス様はこんなことを言われるのですか、と言うのです。イエス様は家族の仲たがいを奨励しているのではなく、一人ひとりの信仰を励ましているのですよ、とお話しました。家族は大切でありますが、天国に迎えられるのは私の信仰においてであり、愛する家族といえども、力にはならないことを示しているのです。洗礼式当日の朝、その方から電話があり、洗礼は取りやめたいということでありました。
 私たちはいろいろな教え、人生訓、格言の中に生きていますが、自分の思いを投影した教えを持つのではなく、心を無にしてイエス・キリストに向かうことが大切なことなのです。主の教えに向かうこと、イエス様そのものに向かうこと、そこに真の道があり、祝福の人生が導かれてくるのであります。イエス・キリストに向かうとは、十字架の救いを仰ぎ見るということなのであります。そこに本当の自由の人生が導かれて来るのです。
<祈祷>
神様、今日も主の教えに向かわせてくださり感謝いたします。私の思いを投影するのではなく、十字架の主に真に向かわさせてください。主の名によって祈ります。アーメン。