説教「いただくお恵みのクリスマス」

2014年12月21日 六浦谷間の集会バルセロナ礼拝
待降節第4主日」(クリスマス礼拝)

説教・「いただくお恵みのクリスマス」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書11章1-10節、
    ルカによる福音書1章26-38節
賛美・(説教前)讃美歌21・261「もろびとこぞりて
    (説教後)讃美歌21・265「天なる神には」

 クリスマスおめでとうございます。今年はスペイン・バルセロナにてクリスマスのご挨拶をしております。スペインには10月21日に参りましたが、折角だからパスポートで滞在できる期間の三ヶ月くらいは滞在することにしまして、こちらのクリスマスを体験することにしたのです。既に待降節を通していろいろなクリスマスの迎え方を示されています。何か特別なイベントを期待しているようですが、日本の教会の取り組みとそんなに大きな違いはないようです。2010年3月に大塚平安教会を退任しましたが、その4月から9月までは横浜本牧教会の代務者を務めました。10月からは無任所教師になり、どこの教会にも所属しない状況でクリスマスを迎えました。その一年前の2009年のクリスマスまでは、いろいろな集いのクリスマスをお祝いしていました。もっとも早いのは婦人会と家庭集会の合同クリスマスの集いでした。1979年に赴任した頃は各地で家庭集会を開いていましたので、合同クリスマスにも多くの皆さんが出席していました。私が退任する頃は家庭集会は佐竹さんのお宅だけになり、従って合同クリスマスの出席者が随分と少なくなっていました。それでも続けられていたのです。今度は幼稚園の母親と教職員のクリスマスが開かれます。お母さんたちがお子さんを家族に託して、教会で静かなクリスマス礼拝をささげるとき、皆さんは感銘深く受け止めるようです。そして、祝会は幼稚園ホールで行います。以前は教職員が寸劇を演じましたので、これが語り継がれて、皆さんは期待して出席していました。最近は寸劇をしなくなり、交換クリスマスカードを読みあうようになっていました。つぎにやって来るのは綾瀬ホームやさがみ野ホームの施設のクリスマス礼拝です。両ホームとも昔はクリスマスになると、利用者と職員が出し物をしていました。だから職員はその練習を利用者にしてもらうので大変であったようです。私が大塚平安教会を退任する頃は両ホームとも出し物のあるクリスマスはしなくなっていました。その代わり大塚平安教会の聖歌隊が礼拝で賛美するようになり、いつもの様な礼拝であっても聖歌隊の賛美を喜んでいました。神の庭・サンフォーレの老人ホームのクリスマスも行われています。サンフォーレを支える会の委員長になったのは5年くらい前からですが、支える会の委員ですから、クリスマスと言えば、自分が担当しなくても出席していたのです。時には礼拝の説教をしたりしていました。大塚平安教会の聖歌隊も参加して礼拝で聖歌を歌ってくれたりしています。これでクリスマスの日に大分近くなるのですが、子どもの教会のクリスマスが開かれます。普段はあまり教会学校に来なくても、クリスマスになると大勢の子ども達が出席するのです。毎年、祝会をどのようにするか、プレゼントは何を上げるか、悩みの種でした。そしてようやく教会のクリスマス礼拝、聖夜礼拝が開かれることになります。今までも何回も「クリスマス、おめでとうございます」との挨拶を申し上げてきたのですが、いよいよ最後のご挨拶ということになります。何か新鮮な思いが消えているようでありました。2010年のクリスマスからは原則クリスマス礼拝だけですから、たった一回のご挨拶は重みがあるということです。さまざまなクリスマスの集いはなくなりましたが、たった一回の重みのあるクリスマス礼拝をささげるようになっており、今年はスペイン・バルセロナからクリスマスのご挨拶を皆さんにさし上げたのでした。クリスマスのお恵み、クリスマスのお喜びを皆さんと共にいただきたいのです。

 本日の旧約聖書イザヤ書11章は「平和の王」について記しています。聖書の国は小さい国であり、いつも外国に脅かされている状況でした。紀元前8世紀の時代は、大国と言えばアッシリア、エジプト、バビロン等の国々がにらみ合っており、その狭間でおびえていたのであります。この時代はアッシリアの国に従うことになった状況であります。強い国に支配されることが、いわゆる平和でありました。昔は外国でも、日本でもそのような時代を経てきています。織田信長豊臣秀吉徳川家康の時代は天下を統一することによって平和が実現するとの思いがあり、結局は徳川の時代になり、長きにわたる武家社会になります。確かに戦いはなくなりましたが、上下関係の苦しい社会です。そのような力の平和は、昔はどこもそのように考えられていたのであります。聖書の世界でもアッシリアに支配されることによって、平和が確立されたと思ったのであります。しかし、この平和は真の平和ではありません。そのような力の平和ではなく、神様による真の平和の到来を告げるのが、今朝のイザヤ書でありました。
 「エッサイの株からひとつの芽が萌いで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」と示しています。「エッサイの株」とは、エッサイはダビデの父親であり、ダビデが築いたダビデ王朝を意味します。しかし、その王朝は神さまの御心に反する歩みであり、神様の審判によって滅ぼされていくのであります。ダビデは名君と言われました。神様のお心に忠実に歩み、人々を平和に導いたのであります。その子供のソロモンは神様から知恵を授けられ、このソロモン王も神様の御心を人々に与えた存在でした。例えば、赤ちゃん裁判があります。二人の女性が、一人の赤ちゃんを自分の子供だと主張して王様にお裁きを求めます。お互いに言いあっている女性達に対して、ソロモン王は家来に命じます。この赤ちゃんを二つに切り開いて、それぞれの女性に与えなさいというのです。一人の女性は、そうしてくださいと言いますが、一人の女性はそんなことはしないでくださいと懇願するのです。もう、自分の子供だと言いませんから切り裂くことはおやめ下さいとお願い致します。王様は、この女性こそ本当の母親であるとして裁きを与えるのであります。日本で言えば大岡越前の守様のお裁きのようです。ソロモンは神様の知恵、お心をいただいて人々を裁きますが、人間的な思いも強くありました。従って、ダビデのように名君とは言われないのです。そして、ソロモンの後はお家騒動が起きました、国は二つに分かれてしまうのであります。北イスラエル、南ユダの国に分かれてしまうのでありました。そして、北イスラエルは紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされてしまったのであります。今、南ユダの危険な状況にあります。しかし、アッシリアに従属されることにより、すなわち支配をうけることになり、滅亡はまぬかれていました。人々にとって、アッシリアによる平和が与えられていると思っているのです。しかし、真の平和は、このような力の平和ではありません。今やイザヤは、神様が再びダビデの家から平和の芽が出ていることを宣言するのであります。平和の主は貧しい人々を公平に導くと宣言しています。6節以下は恐ろしい動物達でありますが、それらの動物たちと共存する時が来るであろうと宣言しているのであります。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」と示しているのであります。平和の世は子供たちが神様の御心を人々に示すのであります。「その日が来れば、エッサイの根は、すべての民に旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」と示しているのであります。神様が救い主を世に現すことを示しているのであります。苦しみに生きる人々、貧しく生きている人々、悲しみつつ生きている人々のために、神様が救い主をこの世に現してくださることを示しています。救い主が現れるならば、恐ろしい動物たちも穏やかになるとは、人間の姿でありますが、強い者や弱い者が共に生きるということであります。皆が共に生きるということなのです。それが救い主イエス・キリストによって実現するということを、旧約聖書をもって宣言しているのであります。

 さあ、いよいよ旧約聖書で宣言された救い主が現れることになりました。その証言はルカによる福音書であります。マタイによる福音書はヨセフさんを中心に救い主の出現を宣言するのでありますが、ルカによる福音書マリアさんを中心にしてイエス様の出現を宣べ伝えているのであります。1章26節からであります。天使ガブリエルが神様から遣わされて、マリアさんに現れました。そして言われたことは、「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と告げるのでありました。するとマリアさんは、驚きながらも自分の立場を申し上げるのです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言います。つまり、マリアさんダビデの家系のヨセフといいなずけ、婚約の関係であり、まだ結婚してもいないのに、どうして子供が生まれるのですかと言っているのです。天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。
 婚約中で子供が生まれることは、昔は不自然なことでありました。マタイによる福音書はヨセフさんを中心に記しているのですが、マリアさんから子供が生まれることを知ったヨセフさんは、マリアさんのことが表ざたになるのを望まず、マリアさんとの関係、婚約を破棄しようと決心したと記されています。しかし天使が励まし、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と諭したのでありました。「聖霊により宿った」との励ましはヨセフさんにもマリアさんにも与えられています。二人はそれぞれ聖霊の導きを信じたのであります。このことは私たちも聖霊の導きにより、イエス様がおとめマリアさんから出現したことを信じるのであります。そして、それは科学的には証明できません。聖書の証言通り、聖霊により神様の救い主がマリアさんを通して出現したことを信じるのであります。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とマリアさんは告白致しました。聖書にはヨセフさんの苦悩、マリアさんの恐れがはっきりと記されています。しかし、人間の思いを超えて神様の導きが実現するのであります。神様ご自身がマリアさんを通して地上に現れたということであります。苦しみを救い、貧しさから解放し、悲しみから救われる、その救い主が今こそ現れることを示しているのであります。この後、47節から「マリアの賛歌」が記されています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と歌っています。そして「主はその腕で力を振るい、思いあがる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」と詠うのであります。まさに神様は自分のような身分の低い者から救い主を生まれさせ、だから貧しい人々を幸せにしてくださるとの希望、喜びを歌っているのであります。クリスマスとは、私の貧しさの中に救い主が現れることであります。私の貧しさとは、神様のお導きによってのみ私の歩みがあると信じることであります。自分の財産とか、名誉とか、富とか、人間的なものに頼るのではなく、ただ神様の御心によって生きること、それが貧しさということであります。イエス様が山上の説教で「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えられたのは、実にそのことなのであります。私たちは心を貧しくして、神様の御心だけが私達の人生を祝福のうちに導いてくださることを示されるのであります。

 クリスマスにはいろいろな物語がありますが、改めてそれらの物語から示されましょう。
 アンデルセンの「マッチ売りの少女」を心に示される時期です。その年の最後の日、雪の降る中、マッチを売りに出なければなりませんでした。誰も買ってくれません。マッチが売れないで家に帰ると、お父さんからひどく叱られるのです。ですから帰ることもできないのです。もはや夕闇です。それぞれの家は、明かりの中で楽しい団欒をしているのです。空腹と寒さの中で、暖を求めて売り物のマッチを擦ります。一時の明かりの中に暖炉やご馳走が並べられているのです。何度もマッチをするうちに愛するおばあさんが出てきます。そして、少女はその寒さの中で、そのおばあさんに抱かれて、天国に召されていくのです。横たわる側の家の中では、暖炉のぬくもりの中で美味しい食事が出されているのでした。誰も扉を開けることはなかったのでした。この物語は、そこに力点が置かれているのではないでしょうか。
ミシェル・バタイユの小説「クリスマス・ツリー」は悲しく美しい物語です。核実験の側にいた少年が被爆してしまい、別荘地で療養しているうちにオオカミと友達になります。クリスマス・ツリーを飾り、お父さんとお祝いをする準備を始めるのです。お父さんが留守をしており、ツリーの飾り付けをしていますが、病状が悪化して、ツリーの下で眠るように天に召されていくのでした。誰もいないのではなく、少年の周りをオオカミたちがじっと見守っていたのです。悲しい物語ですが、オオカミとの美しい友情が記されていました。ツリーはイエス様の救いを証しするものです。少年はイエス様の救いにあずかりながら天国に召されたことを、この小説は示していると思いました。
今朝はマリアさんが心を貧しくして聖霊の導きに委ねたことを示されました。私たちも心を貧しくして聖霊に委ねたいのであります。イエス様は、このルカによる福音書によれば、馬小屋の中で産まれ、飼い葉桶の中に寝かされたのです。貧しさの象徴なのです。私の貧しさとは、自分の存在に苦しむこと、人間関係が良くいかないこと、孤独であり、上手くいかない状況です。その貧しさの中にイエス様が現れてくださったということです。
<祈祷>
聖なる神様。主のご降誕を感謝致します。イエス様の救いをこの地の人々に伝えていくことができますよう導いてください。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。