説教「一つのパン」

2018年7月1日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第7主日

説教・「一つのパン」、鈴木伸治牧師  
聖書・エレミヤ書23章23-32節
    ガラテヤの信徒への手紙5章2-11節
     マルコによる福音書8章14-21節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・238「疲れた者よ」
    (説教後)讃美歌54年版・501「生命のみことば」
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 今はロシアでサッカーのワールドカップが開かれており、世界中の熱狂がこだましています。日本の試合の時には、深夜でも多くの人が観戦し、翌日は目をこすりながら学校や会社に行くようです。前にも報じられていましたが、サッカーの日本のサポーターが、試合が終わってから、スタンドのゴミ拾いをしていることで、ホットニュースとして世界の人々に紹介されています。日本のサポーターが手本になって、各国のサポーターもゴミ拾いをするようになったということです。この様なホットニュースを示されると楽しくなるのですが、いつもくらいニュースを示されているのです。夕食時、テレビをつけながら食事をするのですが、悲しい、恐ろしいニュースばかりで、思わずテレビを消してしまいます。わけもなく人を殺したくなったとか、面白くないから人を殺したとか、そういう理由なのです、一方、相変わらず詐欺の報道は絶えません。どうして老人が大金をもっているのか、どうしてそれを知っているのか、疑問に思うことばかりですが、巧みな言葉でだまし、大金をもって行ってしまうこと、割り切れないのです。人をだますこと、いつの時代にもあることでした。
 昔、私が青年の頃、私のいないときに、一人の若者がわたしの家に訪ねてきました。母が応対したのです。最初、「お兄さんはいますか」と聞かれたので「伸治ですか。今は出かけています」と応対します。すると若者は、それからは「伸ちゃん」と言うようになり、しきりに「伸ちゃん」と言うものですから母は信用してしまうのです。出先で財布を落としてしまい、当面の費用が必要なので、少し借りに来たと言われ、信用してしまっている母は、お金を渡したのでした。そんなに大金ではありませんが、いくらかのお金を渡してしまったのでした。もちろん詐欺でした。すぐに警察に届けましたが、もちろんつかまりませんでした。私の若かりし頃というのは、もう60年も昔のことです。その時代からも人をだます人々がいたのです。言葉巧みに人をだますこと、それはいつの時代においても行われていたのです。
 世界の動き、日本の動き、いろいろな報道がありますが、何が真実であり、本当のことが語られているのか、分らない状況です。テレビのコマーシャルは、信用して使うことにより「しあわせ一杯」の生活になりますが、本当に宣伝文句が正しいのか、やはり疑ってしまうのです。真実を述べ、相手の言葉を信用する、そういう人間関係でありたいのです。

 偽りを述べる人々、今の時代には多くいるのですが、聖書の世界でも、昔から偽預言者がおり、絶えず警告されていました。偽預言者と言うのは、神様の御心だと言いながら、自分の考え、思いを人々に押し付けているのです。そういう人々を偽預言者と称しています。今朝の旧約聖書エレミヤ書も偽預言者への厳しい審判であります。エレミヤは若い時に神様の召しをいただきました。その時、「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と与えられた使命を断っているのです。若者である自分が人前で語ること、そんなことはできないと言っているのであります。聖書の世界は、神様の御心を示すのは長老であるということでした。長老は年寄ですが、人生を長く生きている人々です。長い人生で、神様の御心を示されてきたのです。ですから長老は神様の御心を示す存在になっているのです。そのため人々に尊敬されていました。だから、長老を尊敬しなければならないのです。長老の前では起立しなければならないとまで教えられています。そのような世界で、若者にすぎない自分が、どうして神様の御心を人々に示すことができるのか、とエレミヤは思ったのです。それに対して神様は、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と励ましたのであります。この励ましを受けて、エレミヤは若者に過ぎないと思いつつ、神様の御心を力強く語ったのであります。それは指導者たちに向けてであり、宗教的な指導者である祭司、また偽預言者達に向けてでありました。この23章の始めに、「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と指導者達に厳しく述べています。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と神様の御心を示すのであります。そして、今朝の聖書は偽預言者たちへの追及であり、神様の真実なる御心を示しているのです。
 エレミヤ書23章23節、「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか」と神様の存在を示します。確かに神様は地上の人間に近くいます方であります。だから、我々は安泰だと言っているのが偽預言者でありました。しかし、神様は世界のすべてを支配されているのであります。世界的な規模で人間を導く方なのであります。偽預言者達は「わたしは夢を見た」と言い、その夢が神様の御心であるかのように人々に示しているのであります。しかし、それは神様の御心ではなく、偽預言者達の思いにすぎないのであります。人々が喜ぶようなことを述べることを語るのが偽預言者であります。確かに、神様は夢によって御心を示しました。それはいにしえの昔、ヨセフには夢を示して御心を示されたのであります。ヨセフの夢の導きは、そのまま人々の導きになりました。偽預言者は昔のように夢を武器として、神様の御心の根拠として示しているのであります。しかし、ここではそうではない。夢ではなく、直接に神様の御心が示されているのであります。それはエレミヤを通して直接に御心を示しているのであります。「わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい」と示しています。それはエレミヤを通して神様がお語りになることなのであります。そんなに簡単に、神様の御心が示されるのか、とエレミヤは言っています。神様は近くにいる方だと思っているのです。むしろ、遠い存在なのです。そんなに簡単に御心が示されないのです。御心をいただくには、心から願い、自分を無にして、自分の思いをなくして御心を仰がなければならないのであります。偽預言者たちの安易な御心を批判しているのです。
 いつの時代でも、すぐに喜ぶことが出来る方法、言葉、物品をもって言い広める人が居るものです。聖書では偽預言者でありますが、現代でも健康食品や器具、医薬品、あるいは人生読本があります。テレビのコマーシャルはそういう宣伝で溢れています。それらはみんな偽物だとは言いません。昔、グリコのキャラメルがあり。一粒食べれば3百メートルも走れるということが箱に書いてありました。だから、小さい頃、それを信じて、よく買って食べたものです。運動会では、8人での徒競走はいつも7番か8番であったので、キャラメルの箱を信じていたのかもしれません。今でもグリコキャラメルがあるようです。誇大広告に気を付けなければならないのです。何よりも「オレオレ詐欺」に引っかかる人が、いまだに後を絶たない現実は、偽の言葉に騙されやすい人間であり、だから偽預言者が後を絶たないのです。

 主イエス・キリストは時の社会の指導者たちの教えによくよく注意しなさいと示しています。マルコによる福音書8章14節以下が今朝の聖書であります。聖書の状況はイエス様とお弟子さん達が舟に乗っているところであります。8章1節以下に記されますように、そこでは4千人の人々にパンを与えて養ったことが記されています。イエス様にお話を聞くこと三日も経っていました。そこでイエス様は「もう三日もわたしと一緒にいるのに食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」と言われました。お弟子さん達が、「こんな人里離れたところで、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょう」と言いました。イエス様は七つのパンがあることを確認され、群衆を座らせてパンを配られたのであります。七つのパンがイエス様によって祝福となり、人々を満たしたのでありました。さらに小さい魚が少しあり、それもイエス様の祝福の祈りによって4千人の人々を養ったのでありました。この聖書の示しを、ただ不思議だ、奇跡だと思うのではなく、イエス様が私達の全身を養っていてくださることを示されなければならないのであります。今日の示しはこのパンの奇跡ではなく、この奇跡をもとにしたイエス様の示しであります。
 群衆を後にしてイエス様とお弟子さん達は向こう岸に舟で渡ることになりました。お弟子さん達は、先ほどのパンを持ってくるのを忘れており、一つしかないことを話していたのでありましょう。その時、イエス様は、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。お弟子さん達は、自分たちがパンを持ってこなかったのでイエス様が言われているのだろうと思いました。そのようなお弟子さん達の思いをイエス様は、「まだ悟らないのか」と言われ、たしなめておられます。パンがないことで心配することはないのです。イエス様は7つのパンで4千人を養い、5つのパンで5千人を養いました。4千人を養い、さらに7つの籠にいっぱいになるほど残ったのでありました。従って、今イエス様が示しているのは、パンがあるとかないとかのことではなく、パン種に注意しなさいと示しているのであります。
 パン種はパンを膨らませるイースト菌酵母のことであります。パン種があるので、ふっくらしたパンになるわけですが、パン種そのものに注意するよう示しているのであります。ユダヤ教では祭壇にささげるパンは酵母を除いたパンをささげています。一つには出エジプトに関係します。人々がエジプトを脱出するとき、急いで身の回りの物をまとめて出て行くのですが、パンは酵母を入れないで、急いで作りました。酵母を入れないで、固いパンであったにしても、そのパンは恵みのパンであり、救いのパンでありました。神殿にささげるパンは、酵母を除くのでありますが、パンの発酵過程を腐敗とみなしたためであります。今朝の聖書もイエス様がパン種を悪い意味で示しています。コリントの信徒への手紙(一)5章6〜8節、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように。古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越しの小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」とパウロが示しています。パン種は悪い意味で示されています。しかし、イエス様自身、良い意味で用いている場合もあります。マタイによる福音書13章33節以下に、「天の国はパン種に似ている」と示しています。パン種を入れることによって全体が膨れるのでありますが、それは天の国へと広がっていく意味で用いているのです。
 イエス様が「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」と示した時、彼らの教えは悪いものであり、この世の指導者でありながら、世の人々を幸せにするものでありながら、むしろ良くない状況へと押しやるのであります。ファリサイ派のパン種は偽善者であります。ヘロデのパン種は人々に迎合する生き方でありました。ルカによる福音書18章9節以下にファリサイ派の人の祈りが示されています。「神さま、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝しています。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています」と祈っているのであります。まさに偽善であります。イエス様は律法学者やファリサイ派の人々の偽善をはっきりと指摘します。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイによる福音書23章1節以下)と批判しているのであります。

 主イエス・キリストは私達に真実の言葉を導いてくださいます。それはイエス様の十字架の救いであり、その救いに歩むように示された聖餐であります。イエス様の御体であるパンをいただくとき、真実の言葉が導かれてくるのです。イエス様が5千人の人々に5つのパンで養ったこと、それはイエス様の一つのパンで世界の人々が救いの道を与えられるということなのです。5千人の人々を養ったことは、イエス様の聖餐式の原型になるのです。そのため、私たちはいつも聖餐式に臨み、一つのパンから正しい言葉を語り合うものへと導かれたいのであります。
 去る6月17日は宿河原教会の礼拝に招かれ、説教と聖餐式を担当させていただきました。同教会は4月から伝道師の先生が就任していますが、まだ聖餐式を執行できません。そこで隠退教師でありますが、招かれまして聖餐式を執行したのでした。2016年6月までは横須賀上町教会で聖餐式を担当していました。やはり伝道師であったからです。その後、正教師になられましたので、私の職務が終わったのでした。今後は宿河原教会にも赴くことになるでしょう。教会の皆さんは、やはり常に聖餐式に臨みたいのです。2010年4月から9月までは横浜本牧教会の代務者でした。毎月、聖餐式を担当していました、ある時の聖餐式でありましたが、担当の方が会衆の皆さんにパンを配り、戻ってきたお盆の中にはパン一つしかありませんでした。配餐者二人と司式者のパンが必要なのです。そのとき、司式者の私は一つのパンを3つに分けました。一つのパンも小さいのですが、さらに小さいパンになりました。そのパンを会衆の皆さんと共にいただいたのでした。まさに一つのパンのお恵みを示されたのでした。イエス様の聖餐は、私たちを真実なものへと導いてくださるのです。
<祈祷>
聖なる神様。日々お恵みによりお導き下さり感謝いたします。この世のパン種を排除しつつ、真に御心に生きるようにしてください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。