説教「まことの信仰」

2022年7月17日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第7主日

                      

説教・「まことの信仰」、鈴木伸治牧師

聖書・エレミヤ書23章23-29節

   ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節

   マルコによる福音書8章14-21節

賛美・(説教前)讃美歌21・361「この世はみな」

   (説教後)讃美歌21・402「いともとうとき」

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 最近の事件では、宗教的な問題があり、改めて宗教とは何かと考えさせられます。長く日本の総理大臣として務めた安倍晋三さんが銃撃され、死亡したことは、世界の国々の皆さんも驚きであり、悲しみでありました。事件として宗教の問題があることも残念であります。容疑者の家族が新興宗教に入り、その団体に財産を寄付したということです。それも1億円もの寄付ですから、容疑者としても黙っていられなかったのでしょう。宗教は個人的なことであり、金銭問題とか家庭問題とか、そういうことは起きないことなのですが、新興宗教は金銭問題、家庭問題等が起こされているのです。宗教をもって人をだますようなことが行われるのであります。人をだますということでは、いつも注意されていますが、それでも多くの皆さんが騙されているのでした。人をだますということ、古今東西、いつの時代でも人をだます人がいるのでした。まことの信仰を示されたいのであります。宗教をもって人をだますこと、まことに悲しむべきことです。

 以前、知人が美容院に入院していましたので、お見舞いに行きました。たまたま病室にはお医者さんがいて、しばらく待合室で待っていました。そうしましたら、知らない人が近寄ってきて、小さな声で、「私達の仲間になると病気が治りますよ」と言うのです。そして、何やら案内書のようなものを渡されました。明らかに新興宗教なのです。入会すれば、どんな病気も治るということです。病気と宗教は結びついているのです。お祈りすれば治るということです。あるいはたくさんの寄付金により幸福がもたらされるということです。宗教ではなく、詐欺グループでもあるのです。確かに、病気になり、痛みや苦しみがあるとき、宗教に依存してしまいます。治らないとなると、祈りが足りないという訳です。宗教は偉大なる存在に身をゆだねることによって平安が与えられるのです。その場合、人間的にたくさんの寄付金とかは宗教ではありません。「まことの信仰」をもって歩みたいのであります。

 偽りを述べる人々、今の時代には多くいるのですが、聖書の世界でも、昔から偽預言者がおり、絶えず警告されていました。偽預言者と言うのは、神様の御心だと言いながら、自分の考え、思いを人々に押し付けているのです。そういう人々を偽預言者と称しています。

 エレミヤ書23章23節、「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか」と神様の存在を示します。確かに神様は地上の人間に近くいます方であります。だから、我々は安泰だと言っているのが偽預言者でありました。しかし、神様は世界のすべてを支配されているのであります。世界的な規模で人間を導く方なのであります。偽預言者達は「わたしは夢を見た」と言い、その夢が神様の御心であるかのように人々に示しているのであります。しかし、それは神様の御心ではなく、偽預言者達の思いにすぎないのであります。人々が喜ぶようなことを述べることを語るのが偽預言者であります。確かに、神様は夢によって御心を示しました。ここでは神様がエレミヤを通して直接に御心を示しているのであります。「わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい」と示しています。それはエレミヤを通して神様がお語りになることなのであります。そんなに簡単に、神様の御心が示されるのか、とエレミヤは言っています。神様は近くにいる方だと思っているのです。むしろ、遠い存在なのです。そんなに簡単に御心が示されないのです。御心をいただくには、心から願い、自分を無にして、自分の思いをなくして御心を仰がなければならないのであります。偽預言者たちの安易な御心を批判しているのです。

 いつの時代でも、すぐに喜ぶことが出来る方法、言葉、物品をもって言い広める人が居るものです。聖書では偽預言者でありますが、現代でも健康食品や器具、医薬品、あるいは人生読本があります。テレビのコマーシャルはそういう宣伝で溢れています。それらはみんな偽物だとは言いません。飲み物のコマーシャルで。この中には乳酸菌が100億個入っていると言っています。それは嘘ではないかもしれませんが、100億個も入っていますよと言っているのです。誇大広告に気を付けなければならないのです。何よりも「オレオレ詐欺」に引っかかる人が、いまだに後を絶たない現実は、偽の言葉に騙されやすい人間であり、だから偽預言者が後を絶たないのです。真実、神様の御心をいただかなければならないのです。

 主イエス・キリストは時の社会の指導者たちの教えによくよく注意しなさいと示しています。マルコによる福音書8章14節以下が今朝の聖書であります。聖書の状況はイエス様とお弟子さん達が舟に乗っているところであります。群衆を後にしてイエス様とお弟子さん達は向こう岸に舟で渡ることになりました。お弟子さん達は、パンを持ってくるのを忘れており、一つしかないことを話していたのでありましょう。その時、イエス様は、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われました。お弟子さん達は、自分たちがパンを持ってこなかったのでイエス様が言われているのだろうと思いました。そのようなお弟子さん達の思いをイエス様は、「まだ悟らないのか」と言われ、たしなめておられます。パンがないことで心配することはないのです。イエス様は7つのパンで4千人を養い、5つのパンで5千人を養いました。4千人を養い、さらに7つの籠にいっぱいになるほど残ったのでありました。従って、今イエス様が示しているのは、パンがあるとかないとかのことではなく、パン種に注意しなさいと示しているのであります。

 パン種はパンを膨らませるイースト菌酵母のことであります。パン種があるので、ふっくらしたパンになるわけですが、パン種そのものに注意するよう示しているのであります。ユダヤ教では祭壇にささげるパンは酵母を除いたパンをささげています。神殿にささげるパンは、酵母を除くのでありますが、パンの発酵過程を腐敗とみなしたためであります。今朝の聖書もイエス様がパン種を悪い意味で示しています。コリントの信徒への手紙(一)5章6~8節、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように。古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越しの小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」とパウロが示しています。パン種は悪い意味で示されています。しかし、イエス様自身、良い意味で用いている場合もあります。マタイによる福音書13章33節以下に、「天の国はパン種に似ている」と示しています。パン種を入れることによって全体が膨れるのでありますが、それは天の国へと広がっていく意味で用いているのです。

 イエス様が「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」と示した時、彼らの教えは悪いものであり、この世の指導者でありながら、世の人々を幸せにするものでありながら、むしろ良くない状況へと押しやるのであります。ファリサイ派のパン種は偽善者であります。ヘロデのパン種は人々に迎合する生き方でありました。イエス様は律法学者やファリサイ派の人々の偽善をはっきりと指摘します。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23章1節以下)と批判しているのであります。

 イエス様は時の指導者たちを批判しました。偽りをもって人々を支配していたからであります。その根源をパン種としています。それに対して、イエス様は「わたしが命のパン」であると示されたのでした。聖書はパンについていろいろな角度から示していますが、いずれもパンをもって人々を養うことでした。奴隷の国、エジプトを脱出して荒野の旅しているとき、食べることに行き詰まることになります。その時、神様はマナと言う食べ物、すなわちパンを与えて養ったのでした。そのパンの養いは、イエス様ご自身になるのです。イエス様は十字架にかかる前、お弟子さん達と最後の食事をしますが、その時、パンを与えながら、「今後、わたしだと思って食べなさい」と示しています。聖餐式の基であります。イエス様を食べなさいと言うことです。イエス様の示す神様の御心をいただくということです。そこに真実の歩みが導かれてくるのです。イエス様の御体であるパンをいただくとき、真実の言葉が導かれてくるのです。イエス様の聖餐は、私たちを真実なものへと導いてくださるのです。「まことの信仰」へと導いてくれるということです。

<祈祷>

聖なる神様。日々お恵みによりお導き下さり感謝いたします。真に御心に生きるようにしてください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。

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