説教「御心をいただきつつ」

2022年1月30日、六浦谷間の集会

降誕節第6主日」       

                      

説教・「御心をいただきつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・歴代誌上29章10-17節

   コリントの信徒への手紙(二)6章14-18節

   マルコによる福音書1章40-45節

賛美・(説教前) 讃美歌21・205「今日は光が」

   (説教後) 讃美歌21・536「み恵みを受けた今は」

 

 もはや1月も終わろうとしています。正月の1月を示されますと、1月は新しい年の始まりで、やはりこの一年を歩む姿勢を示されたいと願うのであります。テレビで報道されていましたが、この寒さの中で寒中水泳をしていました。冷たい海から上がった皆さんは、小さい子供も見られましたが、震えながら焚火にあたり、温かい飲み物を飲んでいました。寒さに負けない強い身体をもって、困難にも負けない歩みをしたい等と述べていました。また、滝籠りというのでしょうか。冷たい滝壺で水を浴びる修業をしている人々がありました。気を引き締めて新しい年を乗り切るということでした。一年の始まりに、まず自分を鍛えて歩み出すということなのでしょう。きっと力強い歩みが導かれるのではないでしょうか。そのような備えを示されたとき、物事にはそれなりの準備が必要であると示されています。綿密な計画が求められるのです。時々報道される火災現場の検証で、設備が整ってなく、消防署の警告を聞かないで営業していたことが火災に繋がったことなどが報じられています。耐震診断も、昔は赦されていた基準は、今の地震を想定した場合、大変危険であるという状況になっています。そういう意味でも全国的に見直しがされていること、大切なことであります。常に備えをもって生活することが求められています。これらのことは生活の備えということですが、寒中水泳にしても滝壺に打たれることも精神的な備えでありましょう。

 今朝は、聖書から信仰の備えを示されています。どのようにして信仰が導かれるのか、御心をいただくためにどのようにしたら良いのか、その姿勢を示しているのが今朝の聖書なのです。何事も備えが必要でありますが、信仰においても備えを示されつつ歩むのです。

 本日は歴代誌上の示しです。ダビデという王様のお祈りが記されています。ダビデは歴史を通して名君と言われている人です。あるときダビデは、神殿を造る計画をもちます。その時の気持ちはサムエル記7章に記されています。ダビデ預言者ナタンに言いました。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ」と言いまして、神の箱を収める神殿造りを始めようとするのです。神の箱は十戒を収めているのです。その十戒モーセシナイ山で授与されたものです。聖書の人々は奴隷の国から脱出して、神様の約束の土地、乳と蜜の流れるカナンへと導かれていくのです。旅の途上であり、神の箱は幕屋に安置されているのです。幕屋はテントです。移動する時にはテントをたたみ、宿営する時にはテントを張って神の箱を安置するのです。こうして約束の土地に定着しますが、ダビデの時代になっても神の箱はテントの中に置かれていたのです。それでダビデは神の箱を安置する神殿造りを思いたつのでした。すると神様は預言者ナタンを通して御心を伝えるのです。「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日まで、家に住まず、すなわち幕屋を住み家として歩んできた」と言い、神殿造りを思いとどまらせたのであります。

 その後、ダビデは神殿造りの準備を始めます。それは子どものソロモンが後継者に決まったからでした。ダビデは神殿造りはできませんが、子供のソロモンが神殿造りをすることになるのです。そのダビデの祈りを示されます。「わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者なのでしょう、わたしの民など何者なのでしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」と祈り、準備ができたのも神様のお恵みであるとしているのです。「わたしたちの神、主よ、わたしたちが聖なる御名のために神殿を築こうとして準備したこの大量のものは、すべて御手によるもの、すべてあなたのものです」とお祈りしているのです。準備万端でありますが、ダビデや人々の力、財産ではなく、すべては神様のお恵みによるものですとお祈りしています。この準備は自分たちの功績等とは言わないのです。神様のお導きとお恵みの故に、この準備が導かれたことを告白しているのです。計画も準備もすべては神様のお導きであるということ、このダビデの祈りは私達の歩みにおいても示されなければならないのです。

 明日の自分を見つめつつ、今何をすべきかと思います。今年は良い年でありますようにと神仏にお願いすることは人間の素朴な姿であります。もう少し自分の願いが実現するために、そのように思いつつ寒中水泳をしたり、滝壺に打たれたりします。そのような備え、準備をしつつ歩み出しているのです。そういう姿勢に対して、本日は旧約聖書で示されましたように、準備の段階で神様に委ねるということです。自分の力で計画を建てるのではなく、計画の時から神様に委ねることが示されているのです。

 新約聖書はマルコによる福音書1章40節からです。病を持つ人がイエス様によって癒されたことが記されています。その病の人がイエス様のみもとに参りました。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」とお願いしています。他の聖書を見ますと、イエス様のところに来る人々は、「癒してください」とお願いしております。イエス様の力を信じているからであります。それに対して、本日の病を持つ人のイエス様への願いは異なっているのです。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言っています。「御心ならば」と言い、まずイエス様の御心を求めているのです。「御心ならば」という思いが先立っているのです。自分はこのような病を負うものになってしまった。この先、どのように生きて行くのか。その自分に神様はどのように導いて下さるのかとの思いがあったのです。自分のこれからの人生を、神様はどのように導いてくださっているのか、その思いが強かったと言えるでしょう。だからイエス様に対して「御心ならば」と言い、神様の御心は私に対してどのようにお導きになられるのでしょうか、と尋ねているのです。神様の御心であるならば、イエス様が私を清めて下さるとの信仰なのです。いきなり自分の思いを言うのではなく、御心はいかがなのでしょうかとお聞きしているということです。

 イエス様はこの病の人を深く憐れみ、手を差し伸べてその人に触れられたのであります。この病の人は、自分に対して御心を求めているのです。神様の御心は祝福の人生です。悲しみの人生ではありません。自分に対しての御心を求めている病の人に、「御心はあなたが清くなることです」と示されたのであります。この自分に対して、神様の御心は何であるのかと求めることです。神様の答えは私達が喜ぶこと、それが私達の図式です。願いがかなえられることです。私達の願いは、家内安全、商売繁盛、一家安泰、交通安全、日々健康等であり、それがそのまま答えられることです。そうではないということを今朝の聖書は示しているのです。まず「御心は何ですか」と尋ねることであるのです。

 私が30年間牧会していた大塚平安教会は、2015年には新しい会堂が与えられました。私が退任してから5年後になります。しかし、新しい教会は私が辞めてから計画し、造られたのではなく、私が在任していた頃から計画し、準備していたのです。長い道のりであったと思います。1989年は創立40周年でありました。その時、この期に新会堂を建設する計画を持ちました。その40周年の2、3年前から準備を始めたのです。大塚平安教会の土地は複雑な絡み合いがあり、なかなか困難でありました。すぐには解決できないことでもありました。それなら新会堂ではなく、改築ということで進めましたが、それも困難でした。結局、内部の修繕ということにしたのでした。その改築教会で20年を経てきました。そして60周年を迎え、やはり新しい会堂建設の計画が持ち上がり、設計担当の人々と共に計画を進め始めたのであります。その時にも教会の皆さんで話し合い、いろいろな意見が出されています。今のままで良いと言う人、新しい時代にあった教会建設という意見、今までも論議尽くされている事でもあります。しかし、まず御心を求めての計画ではなかったでしょうか。皆さんが御心を求めてお祈りされたと思います。私が2010年3月に退任する頃は、かなり方向性が定まって来ていました。御心を求めつつ、そしてついに新しい会堂建設は御心であると示されたのであります。人間的な知恵はいくらでもあります。計画はどのようにでもできるでしょう。しかし、人間的な知恵、計画ではなく、まず準備の段階で神様の御心を求めることなのです。御心をいただきつつ歩む私達の人生を示されました。

<祈祷>

聖なる神様。十字架を仰ぎ見る人生へと導かれ感謝致します。まず御心により歩ませてください。キリストの御名によりお祈りします。アーメン。

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