説教「喜びの人生を歩む」

2015年2月22日 三崎教会礼拝
「受難節第1主日

説教・「喜びの人生を歩む」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記6章10-19節
    ルカによる福音書4章1-13節
賛美・(説教前)讃美歌21・297「栄えの主イエスの」、
    (説教後)讃美歌21・408「この世のもので」

 本日は受難節、四旬節第一主日であります。前週の2月18日から受難節、四旬節に入りました。受難節、四旬節というのは主イエス・キリストのご受難、すなわち十字架への道を歩むことを示される期間ということです。キリスト教ではイエス様がお生まれになったクリスマス、そしてイエス様が死んでよみがえったイースター、その後お導きである聖霊が降ったペンテコステを喜び、お祝いしながら歩んでいます。今は受難節の時期であり、イースターの前の40日間、2月18日からイエス様の十字架への道を示されながら歩むのです。40日間なので「四旬節」と言われ、ドイツ語では「レント」と言っています。この受難節は主イエス・キリストの十字架のご受難を受け止めつつ歩みますので、なるべく質素な生活をしつつ過ごすのです。40日間、おいしいものを食べたり、楽しく騒いではいけないとなると、それでは今のうちに楽しもうということになるのです。従って、2月18日の灰の水曜日の前、一週間くらいを謝肉祭、カーニバルとして過ごすのです。四旬節の間は肉を食べてはいけないとの慣わしに従うので、今のうちに肉をいっぱい食べ、楽しく過ごしましょうということでカーニバルのお祭りがあるのです。カーニバルと言うとお祭りという理解があります。2010年3月まで大塚平安教会に在職していました。大塚平安教会は二つの社会福祉法人の施設に関わって歩んでいます。大塚平安教会の牧師はその施設の嘱託牧師です。毎週、それぞれの施設で礼拝をささげています。秋になると、いつもイベントが開かれていました。模擬店とか、いろいろな名前で集いを開催していたのですが、ある年のイベントをカーニバルという名で開催したのでした。カーニバルはお祭りであるという理解であったようです。だから、この秋にカーニバルという名で開催するのは、その意味を知っている人には笑われますよと注意したのです。以後はその名でのお祭りは開かれませんでしたが、カーニバルはイエス様の十字架の救いと関わることであることを理解しておきたいのです。
 もはや受難節に入っていますが、スペインのカーニバルはおそらくお祭り騒ぎが盛んであったろうと想像しています。昨年の10月21日から今年の1月7日までスペイン・バルセロナに滞在して参りました。バルセロナには娘がピアノの演奏活動をしていますので、過去二回ほど滞在していますが、今回もまた訪れることになったのです。実はその娘がスペイン人と結婚することになり、そのため行くことになったのであります。娘はサグラダ・ファミリアという教会で、カトリックでありますがミサの奏楽をしています。それで神父さんに結婚式について相談し、サグラダ・ファミリアで式を挙げることになりました。娘の父親がプロテスタント教会の牧師であることを知った神父さんが、それでは一緒に結婚式の司式をしましょうと提案してくれました。私自身驚きましたが、お導きと信じてお受けしたのです。カトリック教会で神父さんとプロテスタントの牧師が共同で結婚式の司式をすること、前代未聞でありましょう。
 娘の結婚式は10月25日でしたが、折角この時期にバルセロナに滞在するので、カトリック教会のクリスマスを体験することにして、1月6日の顕現祭まで滞在したのでした。12月25日はクリスマス・ミサが行われ、娘は別の神父さんとも知り合いで、その神父さんの教会でミサの奏楽を行うことになり、私達夫婦も一緒にミサに出席したのです。そういたしますとその教会の神父さんが、一緒にミサを司ってくださいと言われるのです。これにも驚きましたが、お導きと信じて神父さんのガウンを借りて司ったのでした。日本語で短い奨励を行いました。娘がスペイン語に訳して皆さんに示したのでした。クリスマスはそれぞれの教会でミサが行われ、ミサの後には簡単なお茶の会がある程度です。スペインではクリスマスと共に大事なのは顕現祭なのです。聖書ではイエス様がお生まれになったとき、東の国の占星術の学者たちがイエス様にお会いし、宝物をささげたと記されています。それが1月6日の顕現祭ということです。スペインでは占星術の学者ではなく、三人の王様なのです。三人の王様が船に乗ってスペインにやって来るのです。その王様を中心に伴の者がお菓子等を街中の人々に配るのです。ですから王様がいる広場には多くの人々が集まります。まさにお祭り騒ぎです。本当は現場に行って見学したかったのですが、多くの人々がいるので危険であるからと、家でテレビにより、その模様を見学したのでした。その関連で示されるとカーニバルも大変なお祭りなのでしょう。キリスト教の国であるスペインは聖書の示しを体験しながら歩んでいることを示されたのです。
 この受難節の期間、イエス様の十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのであります。日本のキリスト教でもこの受難節は、皆さんはそれなりにイエス様の受難を示されつつ歩みます。特に昔からの信者の方は克己の生活をしていました。克己とは己を克服するということで、欲望を抑えるということです。ですから、この受難節は喫茶店でコーヒーを飲まないとか、バスは短い距離であれば歩くのです。その様な克己の生活をしてイエス様のご受難を受け止めるということです。前任の大塚平安教会時代、やはり昔からの信仰を持っている方がおられて、この受難週になると克己の生活をしていました。受難週になるとビールは飲まない、甘いものは食べない生活をされるのです。水曜日の祈祷会に出席され、集会が終わると簡単なお茶が出るのですが、甘いものが出ても食べないのでした。中には無理に勧める人がいたりして大笑いしたことがあります。今でも受難週にはイエス様のご受難を示されますが、だからと言って肉を食べるな、ビールを飲むな、おいしいものを食べるなと奨励しているのではありません。今まで通り普通の生活をしてよろしいのです。そういう中でイエス様の十字架の救いをしっかりと受け止めることなのです。それが私たちに与えられる喜びの人生を歩むということです。今も祝福、死んでも祝福、それが喜びの人生であります。永遠の生命への道なのです。私達はこの世に生きており、この世はまさに荒れ野であります。この荒れ野を主イエス・キリストが先立ち、導いてくださっているのです。

 今朝は旧約聖書申命記から示されています。申命記モーセという人が聖書の人々に神様の御心を教えていることが記されています。モーセという人は、昔、聖書の人々がエジプトという国で奴隷にされていたことがありました。それが400年も続いたと言われます。神様は奴隷の人々の苦しみの声を聞き、モーセという人を選び、人々を救い出すのです。それについては旧約聖書出エジプト記に記されています。エジプトの王様に掛け合い、ようやくエジプトを脱出したことが記されています。この申命記は、脱出を振り返り、神様のお導きを人々に語り聞かせているのであります。
 今朝の申命記は6章10節以下19節であります。ここでは神様がまことの救い主あることが記されています。10節には「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満腹するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだされた主を決して忘れないよう注意しなさい」とモーセは救い主である神様のお導きとお恵みを示しています。奴隷の国を出て荒れ野を40年間彷徨い続けます。その荒れ野を人々が自分で切り開いてきたのではありません。むしろ、人々は不平を言い、不満をモーセにぶっつけながら歩んできたのです。今、約束の土地を目の前にして、自分達の成果などと決して思ってはならず、ただ神様のお導きであること、お恵みであることをしっかりと受けとめなさいと示しているのであります。だから「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」と示しています。「主の御名」と言う場合、その御名は「救いと導き」なのです。
 旧約聖書はエジプトを脱出した人々に、神様は「十戒」を与え、その戒めに従って歩みなさいと示しています。旧約聖書の全体的な教えになっています。十戒は10の戒めです。難しい戒めではありません。神様を信じること、隣人を大切にすること、そういう内容です。しかし、人々はそれがなかなか守られないのでした。「父母を敬いなさい」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「うそを言ってはならない」、「欲しがってはならない」という戒めなのですが、これがなかなか守ることができないのです。人間の基本的な指針ですが、実践できないのであります。この十戒を見つめ、神様のお導きを示されて歩むのが人々であったのです。

 その様な旧約聖書の導きに対して、新約聖書は新しい導きを与えているのです。イエス様が荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたことが記されています。イエス様が人々の前に現れるとき、悪魔の誘惑を受けたとして記されています。イエス様は荒れ野にいるので何も食べなかったということです。そして40日が終わると悪魔が誘惑するのであります。第一の誘惑は「食べる」ことの誘惑です。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と言うのです。イエス様はこれから社会に出て行き、人々に神様の御心を教えようとしています。それには体力、生活の糧が必要です。悪魔はまず生活の糧の誘惑を与えているのです。それに対してイエス様は、「人はパンだけで生きるものではない」と言われるのです。この言葉は申命記8章3節以下の引用です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを知らせるためである」との聖書の言葉なのであります、
 次に悪魔はイエス様を高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見させます。「もし悪魔を拝むならば、これらのものを皆あげよう」と言うのでした。この世の権力、繁栄であります。イエス様は世の中に出て行くにあたり、支えが必要であります。支えがあって神様の活動が展開されるのです。悪魔はそういう誘惑をしているのです。それに対してイエス様は、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われました。この言葉は今朝の聖書、申命記6章13節の言葉です。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」との聖書の言葉なのです。悪魔を拝むなら繁栄が与えられるということ、これは考えさせられることではないでしょうか。文化が栄える、そこにはどんなにか人間が犠牲となっているのです。文化の繁栄の陰で苦しんでいる人がある、悲しんでいる人があるということです。イエス様はもちろん悪魔の支える身の安全は断固排除したということです。そして、三つ目の誘惑です。悪魔はイエス様を神殿の屋根に立たせ、飛び降りなさいと言っています。神殿ですから、かなり高い建物です。その高いところから飛び降りたとき、下は石畳ですから、大変なことになります。しかし、石に打ち付けられる前に、神様は天使を送って支えてくれるというのです。神様のお守りがあるからやってみろということです。それに対してイエス様は、「あなたの神である主を試してはならない」と答えたのであります。この言葉も申命記の引用です。神様がいつもお導きくださり、お守りくださっているのに、さらに神様を試すようなことをしてはならないのです。
 主イエス・キリストはこれらの誘惑を退けられました。悪魔が出てきてイエス様を誘惑したと記されています。その悪魔をどのように思うでしょうか。このルカによる福音書は悪魔ですが、マタイによる福音書はサタンとしています。サタンと言えと西洋の悪魔として、黒い、頭にちょんちょりんみたいなものがある存在を思います。イエス様に別の存在が現れて誘惑していると思います。しかし、これはイエス様の内面的な戦いなのです。人間として現れているイエス様です。食べること、権力があること、神様がお守りくださること、人間として常に持つ希望です。それらを、自分を満足するために受け入れるのではなく、神様のお導きに委ねて歩むことの決意を示しているのであります。その様な悪魔の誘惑に打ち勝ち、この社会の中で私達に先立って歩み、導いておられるのであります。

 私達が生きている社会を「荒れ野」としてしまうことは問題があるのかもしれません。社会の中には親身になって私のことを考えてくれる人がいるのです。昔から、「渡る世間に鬼はなし」と言われますが、「渡る世間は鬼ばかり」とのテレビドラマがあるようです。要するによく見えても、悪いことが付きまとっているということでしょう。この社会が荒れ野であると聖書は示していますが、その社会に私達が生きるとき、まず主イエス・キリストが荒れ野で生き、悪魔と対決しているのです。その対決は私達の日常の出来事でもあります。食べること、社会的保障、神様のお支え等、常に求めていることであります。しかし、イエス様は「何を食べようか、何を着ようか、何を飲もうかと思い悩むな」と示し、それらのものは神様がちゃんと備えてくださっていることを諭し、私達が必要なことは「まず、神の国と神の義」を求めることだと教えておられるのです。イエス様の荒れ野の勝利はそこに根源があるのです。まず神の国を求めること、神様の御心を求めることだと示しておられるのです。神様はこの現代の荒れ野に言葉を与え、導いておられるのです。そして荒れ野の戦いに勝利したイエス様の導きに委ねることを示しているのであります。
<祈祷>
聖なる神様。荒れ野において誘惑を退けたイエス様の導きを感謝致します。ただ、御心を求めて歩ませてください。主イエス・キリストに御名によっておささげします。アーメン。