説教「御心の礎を与えられつつ」

2019年3月17日、陸前古川教会 
「受難節第2主日

説教・「御心の礎を与えられつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記6章11-22節
   ルカによる福音書11章14-26節
賛美・(説教前)讃美歌21・297「栄えの主イエスの」
   (説教後)讃美歌21・535「正義の主イエスに」

 今朝、久しぶりにと言いますか40年ぶりになりますが、こちらの教会の講壇の御用をさせていただき感謝しています。私どもの三人の子供たちは、幼稚園時代、小学校時代を古川で過ごしましたので、折にふれ、一度古川を訪ねたいと話していました。この度、願いがかなえられましたこと、心から感謝しています。40年ぶりではありますが、その後も年賀状をいただいていましたので、いつも皆様のことが示されていました。今朝、この講壇に立たせていただいていますが、昔の思い出話しをするのではなく、御言葉を示されているのであります。そういう姿勢でありますが、やはりいくつかのことは昔の思い出になってしまいます事、お許しいただきたいと存じます。
 私は1969年に神学校を卒業し、最初の教会は東京の青山教会でした。4年間、伝道師、副牧師の務めをしました。その後、こちらの教会のお招きをいただき、6年半でしたが牧師として仕えさせていただきました。最後の1年間はこちらの教会を担いながら登米教会の牧師、また登米幼稚園の園長も担わせていただきました。
 この度、この古川の地に来た時、町が大きく発展していることは驚きでした。こちらの教会の牧師としてお招きをいただいたとき、50年前にもなりますが、陸前古川駅を降りたとき、町中が煙に包まれているようでした。その後、東北新幹線が古川に停車するようになり、また東北道も古川インターが設置され、古川の町は大きく発展していくのですが、その途上に退任しましたので、その後の発展ぶりは、今回の訪問によって示されています。
 私は1979年8月にこちらの教会を退任しまして、神奈川県綾瀬市にあります大塚平安教会の牧師に就任しました。同時に教会が設立しておりますドレーパー記念幼稚園の園長に就任しました。この教会には30年間務めることになり、2010年3月に退任しました。退任しましてすぐに横浜本牧教会の代務者を担い、教会付属の幼稚園の園長を担ったりしましたが、2011年に現役を退任したのであります。ところが隠退牧師になりましたが、幼稚園の園長を担うことになり、横浜本牧教会付属幼稚園の園長になったり、今は伊勢原幼稚園の園長を担っています。この伊勢原幼稚園の園長を担うことになったとき、不思議な神様のお導きを示されています。
 私がこちらの教会に就任する前は後藤金次郎先生が40年間お勤めになっておられました。後藤先生は隠退されて伊勢原市にお住まいになるのであります。そして伊勢原教会に出席されるようになるのですが、その教会の牧師は体調がよろしくなく、何かとお手伝いをされていたのでありました。40年間、こちらの陸前古川教会を牧会された後に私が就任し、そして今は後藤金次郎先生がおられた伊勢原教会の幼稚園の園長を担っていますので、後藤先生の後をいつも追いかけているようでもあります。伊勢原教会には後藤先生のお嬢さん、後藤恵宮さんが出席されておられ、前週の9日には伊勢原幼稚園で羊子のピアノリサイタルを開かせていただいたのですが、恵宮さんもお出でになり、親しくお交わりをさせていただきました。
 伊勢原幼稚園の園長を担っていますが、毎週の礼拝は、六浦谷間の集会として夫婦で礼拝をささげています。隠退したとき、どこかの教会に出席を考えたのですが、結局二人で礼拝をささげるようになりました。その集会には、時には知人や家族が出席しますので、いつも4、5名で礼拝をささげているのです。従って、隠退したものの説教は今も続けています。私にとって御言葉に向かうことは、生涯の務めとしているのです。今朝は「御言葉の礎を与えられつつ」との示しであります。御言葉が人生の支えであることを示されているのであります。

 今朝の礼拝の聖書は日本基督教団が定めている聖書であります。まず旧約聖書を示されます。旧約聖書は創世記6章に示されるノアの洪水物語です。今朝の聖書は神様が悪なる存在を指し示し、救いの道を示しているのです。神様の御心を示されたいのであります。今朝の聖書は6章11節からであり、ノアが神様に命じられて箱舟を作ることが記されています。箱舟を作ることを神様はノアに命じましたが、それは悪を滅ぼすためでした。6章の最初に意味深く示しています。「さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」と記しています。このあたりは神話の世界でありますから、あまり事実性として捉える必要はありません。その時に言われた神様の言葉です。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」と述べられた結果、人間の人生は120年となったというのです。今朝の6章の前の5章には、人間が900歳、800歳まで生きたことを示しています。しかし、6章には120歳と定められました。つまり人間が罪に生きることにより寿命が短くなったことを示しているのです。人間が造られたとき、神様は粘土で人の形を作り、その鼻に神の息、霊を入れました。すると人間は生きたものとなったのです。今6章では、「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」と神様が言っておられるのです。すなわち、神様の霊をいただいているにも関わらず、人間は自己満足が優先されているのです。そして、神様はこの世を見るとき、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」人間を認めるのです。そこで神様は、「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われているのです。神様の霊をいただいて造られた人間でありますが、肉なる人間は最初から自己満足を持つ者として示しているのが聖書です。創世記3章には堕罪が記されています。アダムさんとエバさんは、神様から戒められていた禁断の木の実を食べてしまいます。それは「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」のであります。自分の欲望を満足するためには、たとえ戒められていても自分の満足を優先するのであります。
 そこで今朝の聖書は、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地をご覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」と示しています。神様は、この地を滅ぼすために、ノアと家族だけを残すことにし、ノアに生き延びるための箱舟を作らせるのであります。箱舟の長さは300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマとしています。1アンマは人間の手の肘から中指の先までで、およそ45センチメートルです。従って、長さは135メートル、幅22メートル、高さ13メートルになります。やはり大きな船になります。そして、この船ができたとき、神様はすべての動物の雄と雌を入れさせ、そしてノアの家族も皆箱舟に入らせ、扉を閉めさせます。すると雨が降り始め、40日間降り続いたのであります。地上はすべて水となり、生き物はすべて絶えるのであります。こうしてノアは神様の導きにより生きる者となったのでありました。箱舟は救いのシンボルとなりましたが、モーセが生まれたときも、箱舟により救われる者になったのです。悪を滅ぼし、正しい人間を救うことを神様が示しているのです。神様の御心こそ礎とならなければなりません。ノアの洪水は物語です。しかし、この物語を通して、神様が「御心の礎を与えつつ」導いていることを示されるのであります。

 主イエス・キリストは悪なる存在と常に戦っています。イエス様は世に現れる前から悪と戦っていました。そして、神様の御心を人々に示す時にも、イエス様の前に立ちはだかる存在と常に戦っていました。今朝はルカによる福音書11章14節からです。「ベルゼベル論争」との標題になっています。ベルゼブルとは悪霊の頭だとされています。イエス様が人々に神の国の教えを与え、悪霊につかれた人を癒していました。ここに口の利けない人がいました。悪霊にとりつかれていたからだとしています。イエス様はその人の悪霊を追い出しました。するとその人はものを言うようになったのです。このことで人々は驚き、どうしてそんなことができるのかと不思議に思うのです。中にはイエス様が悪霊を追い出したのはベルゼブルの力によるものだというのです。それに対してイエス様は、悪霊が悪霊を追い出すのは内輪もめだと答えています。悪霊を追い出すのは神様の御心の礎なのです。20節の言葉がこの聖書の中心になります。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ている」のであります。口の利けない人、目の見えない人、病気の癒しは、神の国の到来を示しているのであります。口の利けない人を癒すことは医者ならできるでしょう。しかし、今、イエス様が神様の指の業として癒す時、そこに神の国の到来があるのです。癒されることは神の国に生きる者へと導かれるということなのです。神様の御心の礎をいただくことです。そこに神の国に生きる喜びと希望があるのです。
 24節からも汚れた霊についての示しです。汚れた霊は追い出されて、砂漠をうろつきます。しかし、休む場所がないのです。砂漠ですから人がいないのです。人の中に入ることはできないのです。休む場所がないので、今まで入っていた人の所に戻るのです。すると、「家は掃除をして、整えられていた」と言います。そこで、汚れた霊は自分よりもっと悪い七つの霊を連れてきてそこに住みつくというのであります。面白いたとえであると思います。つまり、汚れた霊を追い出された人は、すっかり喜んで、これからは真面目に正しく生きようと思っています。そういう姿が「家の中を掃除する」ことなのです。しかし、掃除するだけではだめなのです。掃除したら、そこにしっかりと神様の御心の礎を据えなければならないのです。イエス様が神様の御心の力によって汚れた霊を追い出して、神の国を与えてくださったのですから、神様の御心が満たされ、神の国に生きる喜びを持たなければならないのです。それが無いから、再び汚れた霊が戻ってきますし、もっと悪い七つの悪霊が住み着くことを示しているのです。私達はイエス様によって神様の御心の礎が据えられているのでありますから、汚れた霊は追いだされているのです。だから神の国に生きる者として、常に御心をいただく者でなければならないのです。
 以上、ルカによる福音書において、イエス様の悪霊との戦いを示され、私達の戦い方を示されました。悪霊が付け入るすきを与えてはいけません。「御言葉の礎を与えられつつ」歩むことが私達の人生なのであります。

 時々、陸前古川教会当時の歩みを示されています。毎週水曜日の夜は祈祷会が開かれていました。夜のことなので、なかなか皆さんは出席できないのであります。その当時、いつも出席されていたのは佐瀬春子さん、佐々木シゲルさん、司馬美代子さんでした。冬になると、寒さもありますし、雪が降ったりします。寒さが厳しい時もあります。いつもはどのような時にも出席される皆さんですが、ある日の祈祷会はどなたも出席できませんでした。そのような時は牧師夫婦二人で祈祷会をしていました。祈祷会が終わる頃になると、三番目の子供がやってきます。祈祷会中は三人の子供たちは家でテレビを見ながら過ごしているのですが、祈祷会が終わる頃になると、決まって三番目の子供がやってくるのです。その頃は祈祷会が終わって、しばしお茶を飲みながら過ごしているのです。それが狙いでやってくるのですが、そのある日の祈祷会は誰もいないので、お父さんとお母さんしかいないのです。しげしげと私達を見つめながら言った言葉は、「今日は、お客さん、誰も来ないねえ」ということでした。「今日は、寒い日なので、それに皆さんは御用があるのかも」と答えたのですが、この言葉の響きが忘れられません。その頃、週報には牧会日誌なるものを記していました。早速、その言葉を紹介しながら日誌に記しておきました。そして、後に日本基督教団が発行している教団新報のコラム欄に記したのであります。その題も、「今日はお客さん来ないねえ」でした。発行後、全国の牧師達から電話等をいただき、感想を言われたのであります。ある日の説教でこのコラムを紹介したというのです。多くの教会は、祈祷会とか夜の集会には集まらないものです。しかし、祈祷会は大切な集会ですので、続けている教会が多いのです。夫婦だけの祈祷会を見た子供の声、「お客さん、誰も、来ないねえ」は反響が大きかったと言えるでしょう。牧師夫婦がしっかりと教会を支えている姿勢が示されたのでした。
 こちらの教会を退任し、神奈川県の大塚平安教会に赴任しました。いつも礼拝には5、60人の皆さんが出席されていました。県道に沿って建てられていますので、新しい人が結構出席するのです。その大塚平安教会で牧会しながらも、いつも陸前古川教会の存在を心に示されていました。日本基督教団には1700の教会がありますが、いろいろな所で伝道されているのです。お客さんが誰も来なくても、毎週の礼拝がささげられています。日本の地のはてかと思われる場所にも教会があります。ある牧師は、若いとき人生に行き詰って自殺するために地のはてと思われるところに行きました。自殺しようと思っていたときに、そこに教会が建っていたのです。思わず足が進んだと言われます。その教会の礼拝に出席しました。数人の出席者でした。そこで神様の御心の礎が据えられたと証されています。礼拝の出席人数が多いとか少ないということではなく、そこで礼拝がささげられていることが大切なのであります。
 この古川の地で皆さんが礼拝をささげつつ、神様の御心の礎を与えられつつ歩んでいることが祝福なのです。教会は神様の御心をいただく唯一の場所です。これからも礼拝をささげつつ信仰の生涯が導かれることをお祈りしています。
<祈祷>
聖なる神様。神様の御心の礎を与えられつつ歩むお恵みを感謝いたします。御心をいただきつつ生涯を歩ませてください。主イエス様の御名によりおささげします。アーメン。