説教「救いの創始者」

2014年3月9日、横須賀上町教会 
「受難節第1主日

説教・「救いの創始者」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書31章27-34節
    マルコによる福音書1章12-15節
賛美・(説教前)讃美歌21・297「栄えの主イエスの」
    (説教後)讃美歌21・451「くすしきみ恵み」


 今朝は受難節第一主日としての礼拝です。前週の3月5日が「灰の水曜日」です。この日から四旬節、受難節、レントといろいろな言い方がありますが、40日間、主イエス・キリストのご受難を仰ぎ見つつ歩むのであります。「灰の水曜日」の「灰」というのは、苦しみや悲しみを持つとき、頭から灰をかぶるのです。旧約聖書の時代でありますが、灰を頭にかぶったり、灰の中に座るのは悲しみや苦しみを現しました。ヨブ記の中にも記されています。義人ヨブが苦しみのどん底に落とされてしまいます。もともとヨブは神様のお恵みのもとに、正しく歩んでいました。その姿に対してサタンが神様に言います。「ヨブが神様を敬うのは、神様がヨブにお恵みを与えているからである」と言うのです。神様のお許しを得て、サタンはヨブを苦しみのどん底に落としてしまいます。たくさんの財産もなくなり、ヨブ自身も体中に皮膚病ができ、灰の中に座り、陶器のかけらでかきむしっていたのであります。灰は頭にかけることもあります。苦しみや悲しみを現す意味なのであります。主イエス・キリストの十字架に至る40日前から、イエス様の苦しみ、悲しみを受け止めつつ歩むことがキリスト教の歩みであります。40という数字は、聖書の人々がエジプトで奴隷として生きること400年であり、その後、エジプトを出て荒れ野の40年間を彷徨します。さらに主イエス・キリストは40日間、荒れ野の試練を受けるのであります。40という数字は聖書的には深い意味があるのです。
 灰の水曜日から40日間、主イエス・キリストの十字架の救いを仰ぎ見つつ歩むことです。40日の中には主の日である日曜日は入りません。日曜日を除いた3月5日からの40日間なのであります。この40日間なので「四旬節」と言われ、ドイツ語では「レント」と言っています。この受難節は主イエス・キリストの十字架のご受難を受け止めつつ歩みますので、なるべく質素な生活を過ごすのです。40日間、おいしいものを食べたり、楽しく騒いではいけないとなると、それでは今のうちに楽しもうということになるのです。従って、灰の水曜日の前、一週間くらいを謝肉祭、カーニバルとして過ごすのです。四旬節の間は肉を食べてはいけないとの慣わしに従うので、今のうちに肉をいっぱい食べ、楽しく過ごしましょうということでカーニバルのお祭りがあるのです。ローマカトリック教会の中で行われた習慣が今に至っても行われているのです。娘の羊子がスペイン・バルセロナに滞在していますが、バルセロナカトリック教会では、灰の水曜日礼拝を行い、礼拝出席者には頭に灰をかけられるということでした。
 前任の大塚平安教会時代、関係する知的障害者の施設が、毎年秋になると楽しいイベントを行っていました。まあ「○○祭」と言うような意味で、模擬店を出したり、盆踊りをしたりしていました。ある年、恒例のイベントを「カーニバル」との名称で開いたのでした。その時、職員の皆さんにカーニバルの意味をお話してあげました。その年はカーニバルとの名称で開催してしまっているので訂正はできませんが、翌年からはその名称は避けて「○○祭」と言う従来の名称にしたのでした。
 私たちは謝肉祭はしませんが、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのです。主の十字架には決して及びませんが、生活の中で痛みのある生活をすることが必要であるということです。ある方はこの40日間はコーヒーを飲まないとか、いつもバスに乗っていたのに、歩いて電車の駅まで行くとかにより、イエス様の苦しみに与るのです。その生活を克己の生活と言います。克己の生活でできたお金を克己献金としてささげる方もおられるのです。昔は教団から克己献金袋を送られてきましたが、何時のときからか、なくなってしまいました。人に強いられてするのではなく、自分の生活の中で、自分ができる克己の生活をしつつ、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのであります。主イエス・キリストはご受難を歩み、そして復活へと導かれていくのです。このご受難、主イエス・キリストが十字架にお架りになり、それにより私達の罪が贖われたのであります。救いの完成です。救いの創始者としての主イエス・キリストをこの受難節により示されるのであります。救いの約束をしっかりといただきたいのであります。

 救いの約束を与えているのは今朝の旧約聖書エレミヤ書であります。31章27節以下でありますが、31章は全体が「新しい契約」との主題のもとに預言が記されています。エレミヤの時代は大きな国々の狭間にあって揺れ動いていた時代であります。一方ではバビロンと言う国があり、またエジプトの国があり、小国であるユダはその狭間にあって、どちらの国に傾くかと言うことでした。バビロンの侵入の脅威がある中で、国の指導者達はエジプトに傾き、エジプトの力に頼ろうとしています。それに対してエレミヤは人々が生き伸びるために、バビロンに降服することを主張するのであります。戦いではなく、降伏して生き伸びると言うことなのです。そのエレミヤの勧告は無視され、むしろエレミヤを裏切り者とするのでした。このエレミヤ書の終わりの方で、聖書の人々はバビロンに滅ぼされていくことが記されています。人々がバビロンの捕虜として連れて行かれるのであります。今、暗雲漂う中で、エレミヤは神様の救いを宣言しています。人間の力により頼むのではなく、神様の救いに委ねると言うことです。そのことを示しているのがエレミヤ書31章の「新しい契約」なのです。
 今朝は31章27節からです。「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る」と言われています。人の種を蒔くとは、変な言い方でありますが、人々が増え広がっていくことを示しているのです。多くの人が殺され、犠牲となり、いなくなっています。これからは平和のうちに人が増えていくことを示しているのです。今までは人々の罪、神様の御心に従わなかったので、神様の審判がありました。それが「かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていた」ことなのです。しかし、今や「わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている」と示しています。人々が祝福の歩みとなるよう、聖書の人々を見つめているということです。一人一人が神様の御心をもって生きるよう導いているのであります。
 「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」と言う言い方は、個人の信仰を励ましていることなのです。バプテスマのヨハネが現れて神様の御心を示したとき、「我々の父はアブラハムだ」などと思っても見るな、と言っていますが同じことです。アブラハムが祝福された人だから、我々も祝福されていると思ってはいけないと言うことです。アブラハムアブラハム、あなたがたはあなたがたであると言うことです。先祖は先祖、今に生きる人々は今の生き方を求めているのです。先祖とは関係なく、個人として神様の御心をもって生きなさいと示しているのです。そして「新しい契約」を示しています。神様との約束は十戒によって示されました。この十戒を守るならば末長く祝福に生きると言うことです。しかし、守らないならば神様の審判があると言うことです。石の板で示された十戒でした。人々は守ることができなかったのであります。そこで神様は、「わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す」と示しているのです。もはや石の板を示されて御心を実践するのではなく、私達の心に深く示されるのです。今までは石の板が基でした。そのために幕屋を作り、幕屋の中に石の板を入れた箱が安置されていました。そして神殿まで造り、そこに石の板を収めていたのです。もはや石の板ではなく、私達の心に神様の御心が刻まれているのですよ、とエレミヤは示し、人々を導いているのです。

 私達の心に、また胸に刻まれているのは主イエス・キリストの十字架であります。十字架は私達の救いであります。教会の屋根の上に十字架を見なくても、教会の中で十字架を示されなくても、十字架は私達の心に、胸に刻まれているのです、それは救いのしるしであります。その救いの十字架を与えてくださったのが主イエス・キリストなのです。神様は旧約聖書以来、歴史を通して人々に救いを与えて来られたのです。しかし、今こそ真の救いを主イエス・キリストによりお与えになったのです。救いの創始者は主イエス・キリストであります。
 今朝の新約聖書はマルコによる福音書1章12節から15節までですが、イエス様が世に現れる初期の頃が示されています。12節以下の「誘惑を受ける」はイエス様の40日間の荒れ野の修業です。マタイによる福音書は4章に、イエス様が悪魔から誘惑を受け、その誘惑内容まで記しています。少なくとも三つの誘惑がありました。食べることの誘惑、神様のお守りの誘惑、国々の支配者となる誘惑等です。いずれもイエス様は悪魔、サタンの誘惑を退けていることを示しています。ところがマルコによる福音書は「サタンから誘惑を受けられた」としか記していません。40日間、荒れ野において様々な誘惑を受けたということです。その誘惑を退けたとか、サタンに勝った等とは記していません。「誘惑を受けた」としか記していないのです。人間として生きる様々な誘惑は、この世に現れたイエス様の人間としての課題でもあると言うことです。サタンや悪魔はこの時ばかりではなく、十字架に至るまでサタンの誘惑があったということです。マタイのように悪魔をやっつけてから人々の前に現れたというのではなく、十字架に至るまで悪魔がつきまとって、常に誘惑していたということをマルコは示しているのです。
 イエス様がご受難を受けることを弟子たちに話したとき、それを聞いたペトロはイエス様をわきへお連れしていさめ始めたのであります。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言うのでした。それに対してイエス様は、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのであります。まさにペトロの言葉は悪魔の誘惑であったのです。さらに弟子たちと最後の晩餐をしてからゲッセマネの園に行きお祈りしています。十字架の受難が迫っているときです。その時、イエス様はご自身、自分との闘いのうちにお祈りしています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っています。これは悪魔の誘惑でもあるのです。その祈りをささげた後に、「しかし、わたしの願いどおりではなく御心のままに」とお祈りしています。この時も自分の中にある悪魔と戦いながら、御心に従う祈りをささげているのです。マルコによる福音書がマタイによる福音書のように、悪魔やサタンの誘惑内容を記さないで、「サタンから誘惑を受けた」としか記さないのは、誘惑は十字架に至るまでついて回るからなのです。
 主イエス・キリストはご自身の誘惑に打ち勝ち、人間の奥にある誘惑をすべて十字架により滅ぼされたのです。私達は自己満足、他者排除をもつものです、それらが誘惑を引き起こしているのです。救いの創始者、イエス様の十字架を仰ぎ見つつ歩むことが私達の人生なのであります。

 今は2014年と言う年ですが、西暦はイエス・キリストが出現してから始まっています。しかし、今は誤差があって、イエス様のお生れになったのは紀元前になってしまうのですが、西暦はキリスト歴と言われるようにイエス・キリストをもって始まっています。そうすると救いの創始者は2014年間、私達を救いへと導いておられるのです。奴隷であったイスラエルの人々をモーセが脱出させるのは紀元前1280年頃です。脱出と共に神様は十戒を与え、救いの道しるべを与えたのです。しかし、十戒を人々は守ることができなかったのです。十戒が人々の救いの道しるべだとしても、1200年くらいのことでした。しかし、救いの創始者エス様の十字架の救いは2000年も経過していますし、今後も救いの基として後世に示されていくでありましょう。私達にとって普遍的な救いは十字架であると言うことです。十字架を仰ぎ見る歩みを導かれましょう。
 その十字架を仰ぎ見た一人の青年が、黒い十字架を見たと言います。クリスマスに示される白い十字架、明るい十字架ではなく、黒い十字架が示されて来ると言います。それは自分自身の生きざまにおいてイエス様の十字架が黒く、重く見えるのだと言うのです。この黒い十字架を見ている青年は病院に入院中でした。彼は癌により下半身麻痺となり、車椅子の生活ですが、病院にて療養していました。その彼を私は毎週木曜日の午後になるとお見舞いしていました。聖書を共に読み、信仰のお話をしていたのです。彼は教会の幼稚園、ドレーパー記念幼稚園の卒業生であったのです。突然の病気で下半身を失い、希望も力も無くした彼ですが、このような自分でも生きる道はあると、希望を持つようになるのです。聖書を一生懸命読むようになり、救いの創始者エス様の導きをいただくようになるのです。その彼が黒い十字架を描くようになるのです。「僕はまた、なんとも黒い十字架の上の悲しい、さびしい、怒りはないが、何かうったえような、そして黒い背景のイエス様を見なければならない。とにかく救いがそこにあるような気がする」と記しています。そして「君の罪は私が引き受けた。だから一生懸命、またやってごらんなさいという、呼びかけているのかもしれない」とも記しています。イエス様の黒い十字架が自分を導いていると確信していのです。今は白い十字架のイエス様のもとに引き上げられているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。救いの創始者エス様の十字架を仰ぎ見つつ歩ませてくださり感謝致します。いよいよ十字架を負って歩ませてください。主の御名によりお祈りします。アーメン。