説教「これほど大きな救い」

2014年3月2日、六浦谷間の集会 
降誕節第10主日

説教・「これほど大きな救い」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨナ書2章1-11節
    ヘブライ人への手紙2章1-4節
    マルコによる福音書4章35-41節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・125「わかき預言者」、
    (説教後)讃美歌54年版・258「貴きみかみよ」

 3月を迎え、今は隠退していますので実際的な仕事はありませんが、大塚平安教会在任中の3月の忙しさを忘れることはできません。3月は年度末でありますので、一年間のまとめを作ったり、次年度の予定を作ったり、いわゆる4月に開催される教会総会の準備をするのです。加えて日本基督教団の書記を担っていましたので、毎年2月には常議員会が開催されますので、その記録の整理もしなければなりません。さらに幼稚園の卒業式の準備です。準備は幼稚園の先生や事務の皆さんがしてくれるのですが、園長としての務めは、卒業する子供たちへ教会から聖書を贈呈するので、その聖書の扉に励ましの言葉を書き入れるのです。卒業する子供達とお弁当食べることも毎年のことでした。毎日、5、6人の子供が園長とお弁当を食べていました。お昼の時間帯でしたが、このために拘束されて、忙しい思いを持ったものです。また、卒業式の練習もあり、これらの幼稚園の職務を縫って教会の仕事、教団の仕事をしていたわけです。
 こうして迎えた幼稚園の卒業式は、やはりいろいろな思いをもって子供たちを送り出していました。特に重い障害を持ちつつ幼稚園生活をした子供達に卒業証書を渡し、子供の頭に手を置いて祝福のお祈りをする時、胸に詰まるものを感じていました。送りだした子供たちが元気に、そしてイエス様のお心をもって成長してほしいと願うのです。その送りだした子供達と再び会うことになります。ドレーパー記念幼稚園は卒業しても三回の同窓会が開かれています。第一回は幼稚園を卒業し、小学校一年生の夏休みになる頃、今は「海の日」として休日になっていますが、その時に同窓会を開催します。卒業した殆どの子供たちが出席します。久しぶりの幼稚園で、今まで使っていた椅子や机に対して、「小さい」なんて言っているのです。久しぶりの幼稚園で、みんな興奮して、騒がしい限りです。しかし、久しぶりの礼拝により、再びイエス様の御心へと導かれていると思います。二回目は小学校6年生を卒業した子供達の同窓会です。だいたい卒業した子供達の半分くらいが出席します。さらに中学を卒業した子供たちの同窓会が開かれます。卒業生の三分の一くらいが出席しています。小学校の卒業生も中学校の卒業生も毎年3月21日に開催しています。同窓会はそれでおしまいですが、幼稚園の後援会が毎年「ドレーパーだより」を発行し、卒業生に送っていますので、更にそれによりイエス様の御心が示されています。
 こうして生涯教育を目標に卒業した子供たちを祈り、覚えているのですが、卒業した子供たちが再び教会にもどってくるのです。何回か説教でも触れている笠倉正道さんが弱冠21歳で召天されましたが、約三年前より教会に戻ってきたのです。ドレーパー記念幼稚園を卒業し、大学受験の頃になって教会を思い出し、牧師を訪ねて来るようになったのです。送り出した子供たちが教会に戻ってくること、大きな喜びであります。大塚平安教会ではありませんが、他の教会に出席し、洗礼を受けた卒業生もおります。そのうち一人は神学校に進み、牧師になっている人もいるのです。子供たちが再び教会にもどってくること、喜びには違いありませんが、これは大いなる神様のお導きであるのです。むしろ奇跡が現れたと言うべきであります。生涯教育の目標がありますが、やはり卒業生に御心を持って導いておられるのは神様なのです。「これほど大きな救い」なのです。これほど大きな救いを私達も与えられていることを示されましょう。そして、これほど大きな救いを与えられている者として、更に日々の歩みが力強く導かれたいのであります。この私に神様の支え、導きが与えられているということです。

 これほど大きな救いを証ししているのは旧約聖書ヨナ書であります。ヨナ書は物語でありますが、預言書として示されています。「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている』」と神様はヨナに言われています。このヨナ書は聖書の民ばかりでなく、すべての国の人々が神様のお心に生きることの示しであります。ニネベはアッシリア帝国の大都市でありました。その大都市が悪に染まっているので、神様はヨナを通して神様の御心を示しお救いになろうとしているのであります。ところが神様のご命令をいただいたヨナは、そのご命令を不服とし、ニネベではない別の方角に向うのであります。するとヨナが乗っている船が、海が大荒れになり、今にも沈みそうになるのであります。その時、ヨナは船底に寝ているのでした。船長はヨナをたしなめ、こんなに船が沈みそうになっているのに、寝ているとは何事か、と言われるのでした。船の人々は船が危なくなっているのは誰かのせいなので、くじを引いて誰であるかをはっきりさせることにしました。くじはヨナに当たりました。ヨナはそこで告白します。海が大荒れになっているのは自分のためであると言いました。神様のご命令から逃げたからであります。だから自分を海の中に放り投げてくれと言います。船の人たちは躊躇するのですが、ヨナの申し出のとおり、ヨナを大荒れの海の中に放り込みます。すると大荒れがぴたりと止まり、海は静まったのであります。海に投げ込まれたヨナを大きな魚が飲み込んでしまいます。
 そこで今朝の聖書になります。ヨナは三日三晩、魚のお腹の中で過ごします。そしてヨナはそこで悔い改め、神様のご命令に従う決意をいたします。すると大きな魚はヨナを吐き出します。そこがニネベの大都市でした。ヨナは神様の御心を示し、悔い改めるよう人々を諭します。するとニネベの大都市の人々は一斉に悔い改めるのであります。王様自身も悔い改めるのでした。悔い改めたニネベの大都市の人々に対して、神様は審判を与えず、救いを与えたのであります。ところがヨナは大都市ニネベに神様の審判があると思っています。それで高いところから高みの見物をしているのです。暑い時なので、とうごまの木の陰でしのいでいます。すると、そのとうごまの木の葉が枯れてしまい、暑さが身にしみるようになります。それでヨナは激しく怒るのです。その時、神様の御心が示されます。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」と示されたのであります。
 神様の救いは諸国の人々に与えられているのであります。それも大いなる奇跡により、救いを与えておられるのです。救いをもたらすために神様は大いなる奇跡を与えては、人々を救いに導かれているのです。これがヨナ書のメッセージであります。

 新約聖書も主イエス・キリストの奇跡を記し、大いなる救いを示しています。マルコによる福音書は4章においてイエス様の教えが記されています。「種を蒔く人」のたとえに始まり、そのたとえの弟子達への解説、「ともし火」と「秤」のたとえ、「成長する種」のたとえ、「からし種」のたとえ等をお話しされてきました。33節に「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」と示しています。そして、お話しを終えて向こう岸に船で渡ることになりました。ところが船を進めていると突風が起こり、船は波をかぶって、水浸しになるほどでありました。しかし、イエス様は船の艫の方で枕をして寝ておられました。それで、弟子達は寝ているイエス様を起こします。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言うのです。するとイエス様は起き上がり、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になったのであります。その時イエス様は弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われたのであります。「まだ、信じないのか」と言う言葉はとても重い言葉であります。34節に示されるように、「御自分の弟子達にはひそかにすべてを説明された」のであります。弟子達はイエス様の教えを丁寧に、分かりやすく示されているのであります。神様の御言葉には力があること、神様が導きをお与えになっていること、御言葉の威力と言うことを懇切に示されているのであります。
 26節以下は「成長する種」のたとえであります。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」というたとえです。神様の力、神様の導きをそこに示しているのです。そのように教えられながらも、弟子達は「まだ信じない」のであります。繰り返しイエス様は弟子たちに神の国の力、導きを示されているのです。自分が導きをいただいていることを悟ることなく、現実の困難に音をあげてしまうのであります。これだけ御心を示しても「まだ信じないのか」と言われています。弟子達は湖の奇跡を示され、非常に恐れつつ、「いったい、この方はどなただろう。風や湖さえも従うではないか」と言うのでありました。思いもよらない奇跡を行われるこの方はどなたなのだろう、との弟子達は改めてイエス様を見たのであります。この後、マルコによる福音書は次々に奇跡物語を記していきます。5章では「悪霊に取りつかれているゲラサの人をいやす」であり、その後は「ヤイロの娘と12年間出血の止まらない女性」の癒しが続きます。そして、6章では「五千人に食べ物を与える」奇跡が記されます。そして、その後は「イエス様が湖の上を歩く」奇跡が記されています。その後もイエス様による奇跡が記されています。
 マルコによる福音書8章27節以下で、イエス様は御自分について聞かれました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねます。すると弟子達は、「洗礼者ヨハネと言っています。ほかにエリアと言う人も、預言者の一人だという人もいます」と答えました。そこでイエス様は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちにお尋ねになりました。ペトロが「あなたはメシアです」と答えたのであります。イエス様は「まだ信じないのか」と言われつつ、繰り返し御業を示されています。弟子達は驚きつつ、「この方はどなたなのだろう」との思いでイエス様を見ているのです。そして、ついにここで信仰の告白へと導かれているのです。「あなたはメシアです。救い主であります。大いなる救いを私達にお与えになるために奇跡を行われてきました。今こそ、大いなる救いを信じます」と告白しているのであります。繰り返し示されてきた奇跡の意味を今こそ知ったのであります。この私の大いなる救いでありました。「まだ、信じないのか」と言われつつ、イエス様は忍耐をもって奇跡の導きを与えておられるのであります。「まだ信じないのか」とイエス様は私たちにも言われているのであります。

 今朝の聖書、ヘブライ人への手紙2章で示されています。3節「ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんじゃくでいて、どうして罰を逃れることができるでしょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によって私たちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、様々な奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与え、証ししておられます」と示されています。
 大いなる救いは私たち一人ひとりに与えられています。驚くべき奇跡が与えられているのです。今朝は幼稚園の卒業生が再び神様の御心へと戻ってくることを最初に示されましたが、まさに大いなる救いを与えられた皆さんなのです。
大塚平安教会を2010年3月末に退任することになっているとき、その3月の第一日曜日に二人の方が洗礼を受けられました。駆け込み洗礼だなんて言う方がありますが、そうではありません。神様の奇跡の導きなのです。洗礼を受けた姉妹は、その頃の3年前から礼拝に出席されるようになりました。いつも出席されているので、すでに洗礼を受けられていると思われていた方もあります。姉妹のお証を示された時、神様は姉妹が生まれたときから、すでに救いの順序へと導いておられたのです。教会に出席することはお母さんの祈りであったということです。その後、主婦の友雑誌に関わる「友の会」にお入りになって、キリスト教の世界で活動されるようになっていました。「友の会」は羽仁もと子さんの著作を学びながら歩む集いです。集会で讃美歌を歌い、羽仁もと子さんの本を読んでいますが、教会に来られる動機は、もう少し讃美歌や聖書に触れられるということでした。そういう中で牧師と話すうちに、自分のこれまでの人生が神様の救いの順序であることを受け止められたのであります。まさに神様の奇跡が与えられたと言うことです。もう一人は兄弟です。彼はドレーパー記念幼稚園を卒業した後は教会学校に出席しながら成長しました。子どもの教会を中心に教会を含めて写真係りをされていました。いろいろな写真を写してくださるので、教会としても貴重な資料が残されています。子どもの教会の小さな子どもたちの相手になってくれたり、子どもたちも喜んでいたのであります。いつも教会に出席しているものの、なかなか洗礼を受ける決心には至りませんでしたが、救いの順序を示され、その道へと導かれたのであります。これを奇跡と言わなければならないのです。
 この私が神様の奇跡によって大いなる救を与えられているのです。この上、どんな奇跡を願っているのでしょうか。私の存在に神様の奇跡を見るだけで十分なのです。この私のために神様は主イエス・キリストを世にお遣わしになり、十字架の贖いによりお救い下さったのであります。その救いを信じることができたこと、大いなる奇跡なのであります。
<祈祷>
聖なる神様。この私に奇跡が与えられ、大いなる救いへとお導き下さり感謝いたします。多くの人々に奇跡お与えください。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。