説教「強い存在へと導かれる」

2014年3月16日、三崎教会 
「受難節第2主日

説教・「強い存在へと導かれる」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書2章4-9節
    マルコによる福音書3章20-30節
賛美・(説教前)讃美歌21・297「ああ主は誰がため」
    (説教後)讃美歌21・474「わが身の望みは」


 3月の半ばになり、幼稚園や保育園は卒園式や入園式のことなどで何かと忙しく過ごされていることでありましょう。教会もまた年度の終わりと言うことで、事務的にも忙しく過ごす時期であります。過ぎ去って見れば、年月の移ろいが本当に早いものだと示されています。昨年の今ごろはマレーシアにいました。3月13日から6月4日までの三ヶ月間、マレーシアにあるクアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として赴いたのでした。マレーシアは常夏の国でありますから、一年中、何も変わることなく過ぎていくのです。それに対して日本の国は四季があり、春夏秋冬の日々を歩みますので、常に変化のある生活があります。猛暑の被害、花粉の被害、台風の被害、大雪の被害、洪水の被害等、自然災害が常にありますが、そういう中で日本人は強く生きようとしているのでもあります。常夏の国であるマレーシアは、自然災害はないのかと言えば、雷とスコールが毎日のようにあります。だいたい午後になりますと雲が出てきて、雷が響き渡ります。大音響と共に、ピカピカどんどんと言うことで鳴り響き、大雨が降ってくるのです。1時間くらいで終わりますが、人々は家の中にいて、通り過ぎるのを待っているのですが、家の中にいてもものすごい雷ですから、不安を覚えます。
 自然災害の恐ろしさと共に、私達は人間関係における恐ろしさ、不安を持たなければなりません。道を歩いていたら、突然襲われたという事件が報道されています。アメリカは銃を持つ国ですから、突然銃を乱射して人を殺すと言うことが良く報道されています。人間は、自分をどのようにコントロールできるかと言うことが課題でもあるのです。大塚平安教会在任中は八王子医療刑務所、神奈川医療少年院の務めをもっていました。少年院は篤志面接委員と言う立場でした。少年達といろいろと話をしながら、社会復帰を目指すのです。一人の少年との面接がありました。少年といっても20歳ですから、もう大人の一員であります。少年院に入った時は19歳でした。その少年と言うより青年ですが、4回目の面接でありました。彼と初めての面接した時、彼から少年院に入ることになった経緯を話してもらいました。なんだか自分でも分からなかったと言いました。中学に進んでレスリング部に入りましたが、先輩たちのいじめを受け、とうとう部活を辞めてしまったというのです。中学を卒業してからは通信教育で高校を卒業しました。仕事をしながら日々の生活をしていたのですが、ある日、いつの間にか包丁を持ち、自分をいじめたレスリング部のある中学校に向かっていたのです。学校の玄関に入るとポケットから包丁を出しました。たまたまと通りかかった先生に包丁を向けました。別に殺すとか傷つけることなどは考えていなかったのです。先生は後ずさりしながら、何か叫んでいました。それだけのことでした。彼はそのまま玄関を出て校門に向かいました。そしたらパトカーが数台駆けつけ、逮捕されたというのです。今から思い出しても、仕返しをしてやろうとも誰かをやっつけてやろうとも考えていなかったのです。なぜか、ある日、包丁を持って自分をいじめたレスリング部のある中学校に向かったというのでした。自分が分からなくなる、自分が見えなくなると言うことです。この青年は、またふらふらと自分ではわからないままに動くのではないかと不安を持っているのです。自分をコントロールできないこと、それは私達の中にもあります。自分を超えて、自分を見つめること、それができれば良いのですが、難しい私達の課題でもあるのです。

 「あなたは自分を良く見なさい」とは神様が聖書の人々、イスラエルの人々に言った言葉であります。聖書において神様とイスラエルの人々は密接な関係がありました。人々は神様によって導かれる存在でありました。だから神様と人々との関係が壊れるようなことがあれば、神様はいつも警告を発しているのです。「ヤコブの家よ。イスラエルの家のすべての部族よ。主の言葉を聞け。主はこう言われる。お前たちの先祖は、わたしにどんな落ち度があったので、遠くはなれて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い、空しいものとなってしまった」と神様は若き預言者エレミヤに示しています。預言者は神様のお心を人々に示し、神様と人々との関係を導く人なのです。エレミヤ書2章は若きエレミヤが預言者として召され、最初に示された職務の内容であります。若きエレミヤに神様の召しが与えられました。その時、エレミヤは「わたしは若者にすぎません」と言い、神様の召しに躊躇いたします。しかし、神様は「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と言われました。こうして神様の使命をいただいたエレミヤは、神様の御心を人々に伝える職務を担うようになりました。その最初の職務がヤコブの家に対してであり、イスラエルの家のすべての人々に対してでありました。ヤコブの別名がイスラエルですから、ヤコブの家もイスラエルの家も同じ人々なのです。「行って、エルサレムの人々に呼びかけ、耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」と述べています。
 「あなたの若いときの真心」「花嫁のときの愛」「荒れ野での従順」と述べていますが、これは聖書の人々が奴隷の国エジプトから解放されて、荒れ野を40年間さまよった時でありました。エジプトを脱出したイスラエルの人々は荒れ野をさまよいつつ、しかも指導者モーセに対していつも不平と不満を述べながら旅を続けたのであります。当初、シナイ山に上ったモーセの留守に金の子牛を作り、偶像礼拝をいたしましたが、その後はモーセに導かれて荒れ野をさまよい続けたのであります。不平、不満を述べたとしても、神様の御心に従う人々でありました。それだけ神様に従順に従っていたのであります。それはまた「花嫁のときの愛」でもありました。神様だけが自分たちを導く存在であることを信じていたのであります。荒れ野の40年間でありますが、この期間こそ「花嫁のときの愛」であったのです。聖書は神様と聖書の人々との関係を密接な関係としています。その表現が「花婿と花嫁の関係」であり、「夫と妻」の関係でありました。
 ところが「花嫁のときの愛」は、今は全くなくなってしまったのです。荒れ野の40年が終わり、神様の約束の地、乳と蜜の流れる土地に定着した時、現地の偶像の神々に心を寄せて行くのです。「お前たちの先祖は、わたしにどんな落ち度があったので、遠く離れて行ったのか」と神様は人々に問いかけています。神様の落ち度などあるはずはありません。人々が神様のお恵みを忘れた結果というものです。お導きを忘れ去ってしまった結果というものです。「神様はどこにおられるのか」と問う者はいないということです。神様に心を向けない人々になってしまったのです。「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き、味の良い果物を食べさせた。ところが、お前たちはわたしの土地に入ると、そこを汚し、わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた」と人々を告発しています。
 聖書の人々を神様が告発すると言った時、人々が恵みを恵みとしない姿がありました。自分勝手に生きる姿がありました。神様の御心ではない、偶像の答えを持って生きようとする姿でした。偶像の答えを持つということは自分の気持ちによって生きるということなのです。自己満足の姿であります。それが悪なる姿であり、神様はエレミヤを通して人々の悪を告発しているのです。旧約聖書には「悪」とは何かをはっきり示しています。まず、創世記におけるアダムとエバの禁断の木の実を食べることでありました。エデンの園で過ごす彼らは何を食べても、何をしても良かったのですが、一つだけ約束がありました。エデンの園の中央にある木の実を食べてはならないというものです。彼らは守っていましたが、蛇の誘惑で禁断の木の実を見つめることになります。「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」ということです。彼らは思わず手を伸ばして木の実を食べてしまいました。戒めの木です。しかし、自分の思いを満足させようとした時、戒めは忘れ去っていたのです。自分の思いを満足させるために、一切を取り除いてしまう生き方、それが人間の根本的な罪であり、悪であると聖書は示しています。

 旧約聖書において、繰り返し自分の姿を見なさいと示されます。神様の御心から離れて生きることは、自己満足の姿であると指摘しています。自己満足は他者排除であり、それは悪であり、罪に陥ると言うことであります。だから常に神様の御心にもどりなさいと教えているのです。その教えは新約聖書においても主イエス・キリストの出現により、神様の御心に生きることが示されるのです。自分の姿に向かうこと、悪なる存在に向かうこと、イエス様の教えが悪に対する勝利であることを示しているのであります。
 マルコによる福音書ベルゼブル論争が記されています。マタイによる福音書の場合は、イエス様が悪霊に取りつかれて目が見えず、口のきけない人を癒した時に、ファリサイ派の人々が、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言ったことから論争がはじまりました。しかし、マルコによる福音書は実際には、身内の人たちがイエス様を取り押さえに来たとしています。それは人々が「あの男は気が変になっている」と言っているからです。律法学者たちも「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていることから論争が始まったのです。ベルゼブルは悪霊の頭です。マタイによる福音書4章に登場するサタンであります。神様の御心に反する存在がサタンであり、ベルゼブルなのであります。
 「どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ちゆかず、滅びてしまう」とイエス様は示しています。悪霊に取りつかれている人をどうしてベルゼブルなる悪霊の頭が、その悪霊を追い出すことになるのかということです。神様の御業でなくてなんでありましょう。イエス様は神様の御業を表しているのであります。どうしてその事実を受け止めないのか、信じないのかとイエス様は示されています。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」とイエス様は示されています。救いの事実をはっきり示されながら、それを別の角度で見てしまい、理解しようとすること、聖霊を汚すことなのです。私たちの中に悪なる存在があるとき、聖霊を汚す者になるのであります。

 こうして私達は悪なる存在と戦わなければなりません。では悪なるものとは何かと言うことです。エフェソの信徒への手紙は「悪と戦え」との示しであります。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と示しています。昔のことでありますが、教会学校の夏期学校の主題を「神の武具」として学んだことがあります。丹沢の青山荘で開催しました。武具ですから、実際に武具を作りました。「真理の帯」は帯に真理と書きました。「正義の胸当て」は十字架を書いたりして作りました。子供たちなりにいろいろ考えて神様の武具で身を固める学びをしたのでありました。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです」と示しています。神様の武具で身を固めるとき、悪いものは食い止めるのであります。神様の武具で身を固めるとき、主イエス・キリストの十字架の救いをはっきりと示されるのであります。主イエス・キリストの救いの事実をはっきりと見ることになるのです。その時、私たちはイエス様の十字架の輝きによって自分の姿があらわにされます。自己満足の姿がえぐりだされるのです。その悪の姿を主イエス・キリストが十字架によって滅ぼしてくださったのであります。悪との戦いは自分との戦いであります。自分との戦いは十字架を仰ぎみることで、自分に打ち勝つことができるのです。
 少年院の少年たちは出院のころには、しっかりと自分を見つめることができるようになっています。少年院に入る前、自分の好きなことをやっていました。放火、窃盗、恐喝、猥褻、無免許運転暴力団等、好きなことをやっていました。比較的多いのは放火であります。窃盗とか恐喝は仲間と共に行う場合が多いのですが、放火は一人でもできます。むしゃくしゃした気持ちが放火する気持ちになり、社会が大騒ぎすることで、なんとなく満たされる思いになるのです。そのようなことで少年院に入れられ、当初は窮屈でしょうがなかったと言います。何をするにも規律があり、好きなことができない苦しさを身にしみて感じます。しかし、一年もすると、この少年院での生活が自分にとってどんなにか訓練になったかを知るようになるのです。自分を見つめることができるようになるのです。今までは自分を見つめるどころが、自分の欲望のままに生きていたのです。
 主イエス・キリストの十字架は私自身を明るみに出してくれるのです。内面の自己満足の姿を明るみに出し、イエス様の十字架によって滅ぼすことができるのです。強い存在へと導かれるのです。いよいよ主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることであります。
<祈祷>
聖なる御神様。悪との戦いを導いてくださり、勝利者へと導いてくださり感謝いたします。神様の武具で身を固め、強く雄々しく歩ませてください。主の名によって、アーメン。