説教「悪と戦う救い主」

2022年3月13日、六浦谷間の集会

「受難節第2主日」       

                      

説教・「悪と戦う救い主」、鈴木伸治牧師

聖書・エレミヤ書2章10-13節

   エフェソの信徒への手紙6章10-20節

   マルコによる福音書3章20-30節

賛美・(説教前) 讃美歌21・298「ああ主は誰がため」

   (説教後) 讃美歌21・448「お招きに応えました」

 今朝はイエス・キリストが悪と戦うことが示されています。悪と戦うということですが、イエス様が人々の前に現れるにあたり、40日間荒野で過ごされました。その後、イエス様に悪魔が現れ誘惑したのでした。イエス様はその悪魔を退けたと記されています。そして、そのあと人々の前に現れたと記すのがマタイによる福音書であります。しかし、マルコも同じように悪魔の誘惑を受けられたと記しますが、悪魔を退けたとは記していません。そのことについては前週も示されましたが、イエス様が悪魔の誘惑を受けるのはこの時ばかりではなく、十字架に至るまで誘惑を受けるのであります。その都度、悪魔の誘惑を退けますが、いつも悪魔の誘惑が続くのであります。それは私達もいつも悪魔の誘惑があり、その誘惑に打ち勝つのはイエス様の十字架の導きであると示されています。

 今朝も「悪」の問題を示されるのですが、悪とは何を言うのでしょうか。それと同じように「罪」と言う言葉があります。このことを理解するために創世記の原罪の示しを見ておきましょう。創世記3章に人間が罪に陥る姿が記されています。アダムさんとエバさんがエデンの園に住んでいますが、神様は何をしてもいいが園の中央の木の実を食べてはならないと戒めています。ところが蛇なる存在が現れて二人を誘惑するのです。「神様が本当に食べてはいけないと言ったのか」と聞くのです。そんなことを言われるので、改めて禁断の木の実を見るのでした。するとその木の実は「いかにも美味しそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」のであります。それで彼らは思わず食べたのでした。聖書はこれを原罪と示しています。つまり自分を満足するために禁断の木の実であろうとも食べてしまうこと、それが自己満足であり、他者排除になるのです。それを「罪」

と示しています。それにして蛇が誘惑したこと、それが「悪」と言うのです。第三者の存在が正しいことから外れることを勧めることです。従って「悪」は外からもの、「罪」とは人の内面から出て来るものなのです。イエス様は外から来る悪といつも戦っていたことが示され、私達が外からの悪に打ち勝つために十字架に架けられたと示されるのです。

 今朝の旧約聖書エレミヤ書ですが、本来神様の御心をいただいて歩む人々なのに、神様から離れていることへの戒めです。エジプトを脱出したイスラエルの人々は荒れ野をさまよいつつ、しかも指導者モーセに対していつも不平と不満を述べながら旅を続けたのであります。当初、シナイ山に登ったモーセの留守に金の子牛を作り、偶像礼拝をいたしましたが、その後はモーセに導かれて荒れ野をさまよい続けたのであります。不平、不満を述べたとしても、神様の御心に従う人々でありました。それだけ神様に従順に従っていたのであります。神様だけが自分たちを導く存在であることを信じていたのであります。荒れ野の40年間でありますが、この期間こそ神様と密接な関係を保ちつつ歩んだのであります。

 ところが、今朝の聖書は「密接な関係」が、今は全くなくなってしまったと示しています。荒れ野の40年が終わり、神様の約束の地、乳と蜜の流れる土地に定着した時、現地の偶像の神々に心を寄せて行くのです。「お前たちの先祖は、わたしにどんな落ち度があったので、遠く離れて行ったのか」と神様は人々に問いかけています。神様の落ち度などあるはずはありません。人々が神様のお恵みを忘れたのです。お導きを忘れ去ってしまった結果というものです。「神様はどこにおられるのか」と問う者はいないということです。神様に心を向けない人々になってしまったのです。「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き、味の良い果物を食べさせた。ところが、お前たちはわたしの土地に入ると、そこを汚し、わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた」と人々を告発しています。

 そこで今朝の聖書は、人々の悪い姿を述べています。それは「生ける水の源であるわたしを捨てた」ということです。「生ける水」を大切にしなければなりません。「生ける水」は神様から与えられることを忘れてしまったということです。私たちは、日本の国は水に関してはめぐまれています。水道水は美味しくいただいています。日本の水道水は世界に自慢が出来るということです。外国は水事情がよろしくないのです。日本に住んでいること、美味しい水を飲んでいるお恵みの中にいるのです。当たり前のように思っていますが、「生ける水」を与えられている思いです。「生ける水」の「源は神様である」ことを深く教えているのが今朝の聖書なのです。

 旧約聖書において、繰り返し自分の生きる原点を示されます。神様の御心から離れて生きることは、自己満足の姿であると指摘しています。自己満足は他者排除であり、それは悪であり、罪に陥ると言うことであります。だから常に神様の御心にもどりなさいと教えているのです。「生ける水」の原点は神様なのです。その教えは新約聖書においても主イエス・キリストの出現により、神様の御心に生きることが示されるのです。自分の姿に向かうこと、悪なる存在に向かうこと、イエス様の教えが悪に対する勝利であることを示しているのであります。

 マルコによる福音書ベルゼブル論争が記されています。マタイによる福音書の場合は、イエス様が悪霊に取りつかれて目が見えず、口のきけない人を癒した時に、ファリサイ派の人々が、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言ったことから論争がはじまりました。しかし、マルコによる福音書は、身内の人たちがイエス様を取り押さえに来たとしています。それは人々が「あの男は気が変になっている」と言っているからです。律法学者たちも「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていることから論争が始まったのです。ベルゼブルは悪霊の頭です。マタイによる福音書4章に登場するサタンであります。神様の御心に反する存在がサタンであり、ベルゼブルなのであります。

 「どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ちゆかず、滅びてしまう」とイエス様は示しています。悪霊に取りつかれている人をどうしてベルゼブルなる悪霊の頭が、その悪霊を追い出すことになるのかということです。神様の御業でなくてなんでありましょう。イエス様は神様の御業を表しているのであります。どうしてその事実を受け止めないのか、信じないのかとイエス様は示されています。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」とイエス様は示されています。救いの事実をはっきり示されながら、それを別の角度で見てしまい、理解しようとすること、聖霊を汚すことなのです。私たちの中に悪なる存在があるとき、聖霊を汚す者になるのであります。イエス様は私達に「生ける水」、命の水をくださっています。命の水をいただくとき、イエス様の御心へと導かれていくのであります。

 こうして私達は悪なる存在と戦わなければなりません。では悪なるものとは何かと言うことです。エフェソの信徒への手紙は「悪と戦え」との示しであります。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と示しています。昔のことでありますが、教会学校の夏期学校の主題を「神の武具」として学んだことがあります。武具ですから、実際に武具を作りました。「真理の帯」は帯に真理と書きました。「正義の胸当て」は十字架を書いたりして作りました。子供たちなりにいろいろ考えて神様の武具で身を固める学びをしたのでありました。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです」と示しています。神様の武具で身を固めるとき、悪いものは食い止めるのであります。神様の武具で身を固めるとき、主イエス・キリストの十字架の救いをはっきりと示されるのであります。その時、私たちはイエス様の十字架の輝きによって自分の姿があらわにされます。自己満足の姿がえぐりだされるのです。その悪の姿を主イエス・キリストが十字架によって滅ぼしてくださったのであります。悪との戦いは自分との戦いであります。自分との戦いは十字架を仰ぎみることで、自分に打ち勝つことができるのです。

 エレミヤ書はハッキリと示しています。「生ける水の源であるわたしを捨てた」と示し、無用なものに心を寄せていると示しています。「生ける水の源」はイエス様の十字架なのです。

<祈祷>

聖なる御神様。悪との戦いを導いてくださり感謝いたします。神様の武具で身を固め、強く雄々しく歩ませてください。主の名によって、アーメン。

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