説教「救いを教えられる」

2024年1月28日、六浦谷間の集会

降誕節第5主日

                      

説教・「救いを教えられる」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨブ記22章21-30節

   ヨハネの手紙<二>4-11節

   ヨハネによる福音書8章31-38節

賛美・(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」

   (説教後)讃美歌21・507「主に従うことは」

 クリスマス以後は、イエス・キリストが成長し、人々に現れて、救いを与える記録が聖書に示されます。しかし、聖書はイエス様の伝記を記しているのではなく、救いを与えてくださる存在として証しをしているのです。従って、少年時代に両親と共に都に行き、両親がイエス様を見失ったことなどが記され、また青年時代にバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことが記されますが、その後はイエス様の救いを示しているのです。今朝はイエス様の教えが示されています。そのイエス様の教え、救いをいただいて私達も人々に証しするのですが、すぐに教えを信じる人は少ないと言えるでしょう。今朝のイエス・キリストを示される時、孤独な姿を示されます。イエス様も人々が理解できない中で、神様の御心を教え続けたのでした。今朝は「教えるキリスト」が主題であり、イエス様が教え続けておられることを示されるのです。信仰は孤独であります。ただ神様を仰ぎ見つつ歩むこと、人々の理解がなくても、その歩みこそ祝福なのであり、本当の自由を与えられた者としての歩みなのです。イエス様の教えをいただく時、自由なる者としての歩みとなるのです。

 旧約聖書ヨブ記が示されています。旧約聖書は39の書物が聖書となっていますが、それらは歴史書、文学書、預言書に分けることができます。ヨブ記詩編と共に文学書であります。従って、歴史的に登場した人物を記すのではなく、文学的に設定された人物群を通して神様の御旨を示しているのであります。ヨブ記は1章、2章で主題が設定されています。人間は神様の前にどう生きるかであります。天上において神様の前に天使たちが集まります。神様は天使サタンに言うのです。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」。これを聞いた天使サタンは神様に反論します。つまり、神様がお恵みを施しているから、ヨブは信仰があると言い、お恵みが無ければ神様を呪うというのです。神様は天使サタンがヨブに害を与えることを許します。それにより、ヨブの財産は無くなり、10人の子ども達まで失ってしまうのです。しかし、ヨブはお恵みが無くなったからと言って神様を呪いませんでした。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」というのでした。天使サタンは、「ヨブは自分自身に命の害が無いので、そんなことを言うのです。彼の体に害があるなら神様を呪う」と主張します。天使サタンは神様のお許しを得て、ヨブに危害を与えます。ヨブは全身に皮膚病ができ、陶器のかけらで体中をかきむしるようになりました。そういう中でも、ヨブは神様を呪いませんでした。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」というのでした。

苦難のどん底で苦しむヨブを三人の友人が見舞いに来ます。そして、順次見舞いの言葉と共に、ヨブに言い含めるのです。すなわち、あなたがこのように苦しんでいるのは、あなたが罪を犯したためであり、だから速やかに神様に罪を悔い改めなさいということでありました。悪いことをしたから苦しむ結果になる、すなわち因果応報的な考えであります。三人の友人は大変立派なこと、あたかも神様のお心であるかのように、ヨブに述べています。しかし、結局は因果応報的な解釈であり、この現実は明らかに罪の故であるとするのです。それに対してヨブは、何ゆえ正しい者が苦しまなければならないのか、と反論しますが、ヨブ自身も因果応報的に受け止めているのです。今朝の聖書はヨブ記の22章であり、見舞いに来た友人、エリファズの説得であります。エリファズは、「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう」とヨブに言っていますが、根源にあることは因果応報の論理であり、それは極めて人間的な結論であるのでした。良いことをすれば祝福があり、悪いことをすれば不幸になるということ、これは人生訓的でもあり、格言的なとらえ方なのであります。人間が考えた祝福であり、呪いでもあるのです。このような人間的な善悪の判断でよいのかということが旧約聖書の問いかけでもあるのです。人間が、真に命に導かれるのは神様の示しなのであり、人間の人生訓ではないことを示したのがヨブ記でありました。

 ヨハネによる福音書にはイエス様と人々の会話がかみ合っていません。 かみ合わない対話の中にイエス様は真理を示し、神様の御旨を示しているのです。今朝の聖書は8章31節からでありますが、イエス様が示そうとしていることは8章1節以下に記される出来事、すなわち人間の救いということなのです。ここには一人の罪を犯した人について記されています。一人の人が罪を犯したというので、人々はその人をイエス様のところに連れてきます。このような人は石で打ち殺せと律法に記されているが、あなたならどうするか、とイエス様に詰め寄るのです。明らかにイエス様の答え方次第で、訴える口実を作るためなのです。どうするのか、どうするのかと答えを迫っている人々に対して、イエス様はかがみ込み、指で地面に何かを書き始めていました。しかし、人々がしつっこく問い続けるので、身を起こして言われるのでありました。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この人に石を投げなさい」と言われ、再び身をかがめて地面に書き続けられたのでありました。イエス様の言葉を聞いた人々は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、連れてこられた人だけがそこにいるのでした。つまり、人を裁いていますが、自分自身を考えてみれば、自分は罪がないとは言えないのです。「あの人たちは何処にいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」とイエス様は言われ、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのであります。イエス・キリストは裁くためではなく、一人の存在を真に生かすために来られていることを示しているのです。そして、その後のかみ合わない対話も、イエス様が救いについて示しているにも関わらず、理解しない人々なのであります。

 その後、イエス様は12節で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。すると人々は、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と否定します。そのような対話があって、今朝の聖書は、イエス様が「わたしはある」という存在であることを示しているのです。すなわち、救い主であることを証しているのでありますが、人々は常識的な範囲でしかイエス様を理解することはできないのでありました。

 ヨハネによる福音書はかみ合わない対話、人々とイエス様の対話が次々に示されています。そのことはヨハネによる福音書2章23節以下に記されることが基となっているのです。このように記されています。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と示されています。イエス様の証しに対して、人間は極めて常識的な判断しかできないと示しているのです。それはヨブ記でも示されたように、あたかも神様の御旨であるかのように教え諭していること、因果応報的に示すことしかできないことであります。神様の御旨として受け止めていることの中には、私の思い、希望がたくさん含まれているのです。人間の教え、人間の理解である限りイエス・キリストの教えは信じられないのです。イエス様の教えを信じること、それが主の教えに向かうことであり、私が真に生きる者、自由に生きる者へと導かれることなのです。

 イエス・キリストの教えは人間の救いであります。聖書に向かうとき、人それぞれがイエス様の救いの教えに導かれるのですが、私自身がイエス様の救いの教えをいただいています。先ほども示されましたが、人々が罪を犯した人を連れてきて、「イエス様ならこの人をどうするか」と迫りました。その時、イエス様は「あなたがたの中で、罪を犯したことのない人が、この人に石を投げなさい」と言っています。結局、人々はだれもいなくなりました。当時の社会はユダヤ教の社会で、中心は十戒の教えでした。その十戒には、「あなたは殺してはならない」との戒めがあります。普通に生活をしていれば、殺すことはしません。だから、自分は戒めを守っていると思います。しかし、イエス様は「他者を心の中で憎んだら、殺したのである」と示したのであります。イエス様は、十戒の再解釈をしています。それはマタイによる福音書5章に示されています。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、欲するな」などの教えでありますが、人々は表面的には十戒を守っているのです。しかし、イエス様は表面的ではなく、内面的に守りなさいと教えているのです。内面的に、私の存在すべてにおいてイエス様の十戒の再解釈の教えをいただくことにより、「救いを教えられる」のであります。何よりもイエス様は十戒を二つにまとめたことです。「神さまを愛し、自分のように隣人を愛しなさい」と教えています。救いの教えであります。この教えを基として歩むことが救いの原点なのであります。

<祈祷>

聖なる御神様、主の教えに向かわせてくださり感謝いたします。十字架の主に真に向かわさせてください。主の名によって祈ります。アーメン。

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