説教「新しい歩みが導かれ」

2024年1月21日、三崎教会

降誕節第4主日

                      

説教・「新しい歩みが導かれ」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記33章12-17節

   ヨハネによる福音書11章1-11節

賛美・(説教前)讃美歌21・281「大いなる神は」

   (説教後)讃美歌21・471「勝利をのぞみ」

 今朝はイエス・キリストが神様の御心を人々に伝える最初の頃を示しています。イエス様が現れた時代はユダヤ教の社会です。その時代の人々は旧約聖書で示された十戒が基準であり、十戒を教える人々、模範的に実践する人々が社会的にも重んじられていたのです。そのような固い地盤の中にイエス様が宣教を開始されたのです。宣教とは神様の御心を人々に示すことです。しかし、イエス様が宣教を開始しても、今までの生き方があり、なかなか新しい教えを受け入れられないのでした。今朝の新約聖書は「カナの婚礼」についての示しですが、困難な時代にイエス様がどのように御心を示したのか、そのお示しが現代の私達に示されているのです。私たちもイエス様の御心へと導かれたいのであります。

 今朝の旧約聖書出エジプト記であります。聖書の人々はヤコブの時代にエジプトで寄留することになります。それは全国的に冷害に見舞われ、食糧の危機でありました。神様のお導きで、ヤコブの11番目の子どもヨセフがエジプトの大臣になっていました。その経過については割愛しますが、聖書の人々はエジプトに寄留することになるのです。後の時代になって、聖書の人々がエジプトに寄留していることを知らない王様となり、この国によその国の人々が住んでおり、しかも次第に増えてくることに不安を持ち、奴隷としてしまうのでした。それからは聖書の人々の苦しい時代になります。その苦しみを救ったのがモーセでした。神様はモーセを選び、奴隷の人々を解放させたのです。解放までには紆余曲折がありますが、ついにエジプトの王様は解放を許すのでした。

 そして、その後は神様が示す土地へとめざして旅が始まるのです。その旅は40年間ともいわれています。そんなに長く荒れ野をさまようのは、聖書の人々の不信仰があったからです。今朝の聖書は、その荒れ野の旅の途中であります。神様は御心に従わない聖書の人々なので、もはや共にはいないとモーセに示すのでした。神様が共におられるから、希望をもって旅ができるのであり、モーセは神様に切に求めているのです。「お願いです。どうか、この国民があなたの民であることにお目をお留めください」とお祈りしています。神様が、もはやこの民とは共にいないと言われるのは、聖書の人々の不信仰があるからです。エジプトからの解放という大きな神様の救いを経験しながら、いつも不平、不満を述べているのです。食べ物が無くなったといってモーセに詰め寄ります。飲む水がないといってはモーセに詰め寄るのです。そのような不信仰な人々ですが、神様はマナと言う食べ物を毎日与え、飲む水も与えで荒れ野の旅を導いていたのです。今、もはや人々とは共にいないといわれるのは、人々の悔い改めのためなのです。悔い改めて神様の御心に従うという人々に対して、「わたしはあなたの前にすべての善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとするものを恵み、憐れもうとする者を憐れむ」とお答えになられたのでした。こうして、人々は信仰をもって荒れ野の旅を導かれることになったのです。「主という名を宣言する」といわれています。救いの神様であることを宣言すると言われているのです。自分勝手な生き方ではなく、「主という名」の存在が導いてくださっているという信仰を持つことです。「主」という名ということですが、神様の名前を示しているのですが、「主」は名前ではありません。本来、神様の名前はヤハウェという固有名詞です。昔はエホバと称していました。最初に聖書を訳した人たちは、読み方が分からなくてエホバと訳したのですが、その後の研究でヤハウェと読むことにしたのです。ところがモーセシナイ山十戒を与えられた時、その戒めの中に「あなたの神、ヤハウェの名をみだりに唱えてはならない」と示されています。そのため、聖書の人々は神様の名のヤハウェと言わないで、その代わりにアドナイというのでした。このアドナイが日本語で「主」なのです。昔の文語訳聖書は神様の名前のエホバをそのまま記していました。その後、口語訳聖書になった時、聖書の人々が、神様の名のエホバと言わないでアドナイと言っているので、神様の名のエホバを「主」と書くようになりました。そのため、聖書には神様の固有名詞が書かれてないので、現代の人たちは本当の神さまのお名前を知らないということです。

3.

 今朝のヨハネによる福音書2章は「カナの婚礼」の場面ですが、その終わりに、イエス様が「最初のしるしをガリラヤのカナで行われた」と示しています。つまり、イエス様は人々に神様の御心を示す前に、神様の御業を示されたのでした。それは、この後もいろいろな形で御業を示すのですが、旧約聖書で示されますように、「主という名」が前にある生き方を示されているのです。ガリラヤのカナという村で婚礼が開かれました。イエス様もお弟子さんたちもその婚礼に招かれているのです。そして、イエス様の母でもあるマリアさんも婚礼のお手伝いに来ていました。その婚礼が賑やかに行われていたようですが、婚礼にはお祝いのぶどう酒が振舞われています。お祝いであるので、その振る舞いのぶどう酒が無くなってしまうのです。そこでマリアさんがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と報告するのでした。マリアさんがイエス様に、ぶどう酒がなくなったからどうにかしてください、とお願いしているのではないのでしょう。マリアさんもイエス様にそのような力があるとは思っていないでしょう。その時、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われたのですが、意味不明の言葉でもあります。「わたしとどんなかかわりがあるか」と言われたこと、マリアさんのイエス様への思いを示しているのでしょう。イエス様がお生まれになった時、羊飼いさんたちが喜びつつイエス様を拝みに来ました。その時、マリアさんは羊飼いさんたちがイエス様を拝んだことで、マリアさんは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らした」とルカによる福音書は報告しています。それらの関連から示されるならば、まだイエス様の宣教は始められたばかりであり、神様の御業を現されていないのですが、イエス様という存在に重い存在を感じていたマリアさんであると示されます。マリアさんは召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っているのです。

 マリアさんに対して、ぶどう酒がなくなったことには無関心であるように見受けられますが、イエス様は召し使いたちに、そこにある「石の水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われたのでした。ぶどう酒がなくなったのに、水がめに水を入れることに何の意味があるのでしょう。しかし、召し使いたちは、マリアさんがこの人のいうことを、「そのとおりにしてください」と言われているので、イエス様のいうとおりにしたのでした。召し使いたちがかめにいっぱい水を入れたとき、「それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と言われたのでした。世話役がそれを味見すると、とてもおいしいぶどう酒になっていたのでした。それで世話役は、花婿に「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を取っておかれました」といって称賛したのでした。イエス様の神様の御業であることは知りません。知っているのはマリアさんと召し使いたち、またイエス様お弟子さんたちでありましょう。そして、この出来事の終わりに、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と記しています。そして、そのことでお弟子さんたちは、イエス様についてきたのですが、この最初のしるしにより、イエス様を信じたのでありました。

 この最初のしるしは、お弟子さんたちにとって、旧約聖書で示されている「主という名」がいつも前にあるという信仰として導くことになるのです。イエス・キリストは、「主という名」であり、前に立って導いてくださる方なのです。

 私たちは、いつも「主」という言葉を使っています。「主人」とか「主婦」と言っていますが、この場合には中心的な存在の意味で使っています。ところで聖書を開くと、ほとんど「主」という言葉で示されています。それについては先ほども示されました。神様の固有名詞はヤハウェ、エホバですが、「みだりに神様の名前を唱えてはならない」という十戒の戒めがありますから、神様の名を唱えるときは「アドナイ、主」と言う言葉で唱えているのです。そうすると、私達は「主イエス・キリスト」と言っていますが、「アドナイ・イエス・キリスト」ということになり、「エホバであるイエス・キリスト」と無意識に唱えているのです。讃美歌21を見ると実に70の讃美歌が「主」という言葉で始まっています。讃美歌21の484番は「主われを愛す」です。いつも感銘深く歌っています。ここで歌っている「主」とはイエス様であります。しかし、聖書の全体的に示されるならば、「アドナイわれを愛す」であり、さらに「エホバわれを愛す」と歌っているのです。「主」はイエス様ですが、そのイエス様がエホバ、神様であるということです。今朝は「新しい歩みが導かれ」と題しての聖書の示しをいただいています。新しい歩みとは、今朝の聖書で示されましたように、私達は「主という存在」に導かれているということです。その「主」の存在は十字架によって示されているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。救い主の存在が私達の生活の中にありますこと感謝いたします。「主という名」によりお導きください。主のみ名により、アーメン。

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