説教「御心の思いに導かれる」

2013年3月17日、クワラルンプール日本語キリスト者集会
「受難節第5主日

説教・「御心の思いに導かれる」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記25章27-34節
    ローマの信徒への手紙8章1-11節
    マタイによる福音書20章20-28節


 今年は受難節、レントが2月の13日から始まりましたが、本日は受難節第5主日であり、次週の3月24日は棕櫚の主日、受難週に入ります。主の十字架の救いの時が近づいてまいりました。主の十字架による贖いをいただき、信仰を深めて歩みたいのであります。
 本日は初めてこちらの教会の講壇に立たせていただいております。昨年の4月から専任の牧師が不在となり、日本基督教団から推薦された牧師が3ヶ月ずつボランティア牧師として担当することになりました。ですから今まで数人の牧師が来て皆様と信仰の歩みを共にされています。3ヶ月毎に新しい牧師が来るので、皆さんもオリエンテーションをなさるのに大変ではないかと思います。その意味でも私達夫婦もこちらに来るにあたり、マレーシアについていろいろと勉強させていただきました。最初に来られた相浦和生先生がレポートを残されていますので、拝見させていただき、とても参考になりました。「地球を歩く」と言うガイドブックでもいろいろと知ることができました。私達の住む横浜市金沢区には横浜市立大学があります。その大学が地域貢献と言うことでエクステンション講座を開設しています。その中で「マレーシアについて」2回の講義があり、夫婦で受講しました。生活や環境のことなど参考になった次第です。しかし、予備的な知識よりも実際の生活が何よりも実質的体験ですので、今後皆様のお世話をいただきながら過ごしたいと願っております。
 今、皆様が一番気になさっていることは、今度来た牧師はどんな人間なのか、と言うことだと思います。それについては今後皆様とのお交わりで知っていただくことでございますが、簡単な紹介をさせていただきます。私達夫婦は1939年生まれですから、共に73歳であります。2011年6月より日本基督教団の隠退教師になりました。それまで42年間、牧師として歩みました。私が将来牧師になるために神学校に入るのは23歳のときでした。6年間の学びを終え、最初に赴任したのは東京にある青山教会でした。そこで副牧師を4年間務めてから宮城県の陸前古川教会に主任牧師として赴任しました。約7年務めましたが、最後の1年間は同じ地区の登米教会の兼任牧師も務めました。そしてその後は神奈川県綾瀬市にある大塚平安教会の牧師に就任するのであります。そこでは幼稚園もあり園長・理事長を務めながら31年間の牧会でした。2010年3月に退任したのですが、4月から半年間、横浜本牧教会の代務牧師を務め、その後は無任所牧師でありましたが、2011年6月から隠退教師になった次第です。在任中は牧師、園長であり、刑務所の教誨師、少年院の篤志面接委員等も担っておりました。さらに神奈川教区の議長をしたり、日本基督教団の総会書記を担ったりしました。ですから2010年10月からはすべての職務から解放されまして、それからは夫婦でのんびりと過ごす毎日になりました。しかし、のんびりできない性質で、無任所教師になっても毎週の説教は作成していました。その説教はブログで公開していますので、読んでくださる方がおられるのです。せっかく説教が用意されているのであるから、夫婦で礼拝を始めることにしました。六浦谷間の集会との名称で、毎週日曜日に礼拝をささげるようになったのであります。たった二人でしたが、時には知人や家族が出席しますので、やはり意味ある集いであると思います。
 そのようなのんびりとした生活でありましたが、日本基督教団世界宣教委員会からこちらの教会のボランティア牧師のお話しがありました。実は、最初はお断りしたのです。のんびりとした生活をしているのに、再び牧会に携わることの不安もありました。それに昨年の9月10日から11月6日まではスペイン・バルセロナに行くので、そんなに家を留守にできないと思っていたのです。しかし、連れ合いの勧めもありました。今だからこそ行けるのであり、この先になると行かれなくなるということでした。それで思いを改めまして受託した次第であります。受託したというより、神様の憐れみをこの年になって受け止めているからであります。いつまでも自己紹介をしていないで御言葉に向かいましょう。今朝は人間の思いなのか、神様の御心なのか、そのような示しとして御言葉に向かっているのであります。

 本日の旧約聖書は創世記25章27節からであります。エサウヤコブの兄弟争いが記されています。アブラハムが民族の最初の人でした。その子どもがイサクであります。そのイサクにエサウヤコブの双子が生れました。エサウは巧みな狩人で野の人となったといわれます。ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常としたということです。この二人に対して父親のイサクは兄のエサウを愛したのであります。エサウが狩をして持ってくる獲物を喜んでいたのであります。それに対して母親のリベカは弟のヤコブを愛したのでありました。ある時、ヤコブが煮物をしていると、兄のエサウが疲れきって野原から帰ってきました。エサウヤコブに「お願いだ、その赤いもの、そこの赤いものを食べさせて欲しい。わたしは疲れきっているんだ」と頼みます。すると、弟のヤコブは「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」というのです。それに対してエサウは「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言います。「では、今すぐ誓ってください」とヤコブが言うので、エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまうのであります。長子の権利は、その家を継ぐものであり、受け継ぐ財産は他の兄弟に対して二倍なのであります。ヤコブにとって双子として生れてきましたが、自分が弟の身分にならなければならなかったことは、何とも残念というより、悔しい思いでいたのであります。
 ここでヤコブは兄から長子の権利を奪い取ってしまいますが、しかし最終的には父からの祝福がなければなりません。父の祝福をいただいて初めて後継者になるのであります。そのことはこの後の27章に記されています。父のイサクがエサウに対し、「祝福の儀式をするから、狩をして獲物を取り、おいしい料理を作りなさい。それを食べてから祝福を与える」と言っているのを母のリベカが聞きます。そして、エサウが狩に行っている間に、ヤコブにおいしい料理を運ばせ、イサクに食べさせ、祝福を与えられるのです。イサクは年を取り、目がかすんでエサウヤコブかも分からなくなっていたのであります。ヤコブが祝福を与えられた後にエサウがやってきます。父の言いつけのおいしい料理を持ってくるのですが、父イサクは既に祝福は与えているといいます。ヤコブに騙されたと思うエサウですが、自分にも祝福を与えてくださいと願います。しかし、祝福は一度かぎりであるといわれるのであります。この後、ヤコブは兄エサウの怒りから逃れて母の兄、伯父さんのもとに逃れていくのであります。
 物語はそこで止めておきますが、ヤコブが祝福を大事にしたことが聖書の主題であります。長子の権利も同じであります。アブラハム、イサク、そしてその後に続く者が大事なことであります。神様が選んだ民族です。神様のお心を受け継ぐものとしての生き方であります。人間的な思いでいたエサウが失格したということです。祝福を大事にし、神様のお心を担っていくヤコブの姿勢を示されるので。人間的な思いなのか、神様の御心に従う姿勢なのか、エサウヤコブ物語はそのことを示しているのであります。ヤコブは狡猾に生きていきますが、民族を担っていく使命があるからこそ、自分が神様の御心をしっかりと担ったということなのです。人間的な思いは父のイサクがエサウに希望を持ったことでありました。たくましく生きているエサウこそ民族を担う者だと思っていました。それに対する弟のヤコブは弱すぎると思ってもいたのです。母親と共に家の周りで生きているヤコブには希望が持てなかったということです。それは人間的な思いであるのです。自分の希望の判断であるのです。今は禁句になっていますが、「男のくせに」とか「女の子らしく」とか、男女のそれぞれの生き方を昔は社会的に定めていたのでありました。今は男女平等に生きることが求められている時代になっています。それは大きな進歩であります。今、私たちは神様の御心に従う歩みなのか、人間的な思いなのか、その生き方が問われているのであります。

 主イエス・キリストに対して、人々は教えをいただき、神様の御業を示されるのですが、人間的な思いで受け止めている人、神様の御心として受け止めている人々がいるのです。そのことを新約聖書も示しています。
 マタイによる福音書20章20節以下は、極めて人間的な姿が記されています。主イエス・キリストは御自分が十字架の道を歩むことを弟子たちに示しました。これが三度目です。「今、わたしたちエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」と前の段落で示されました。今朝の聖書は「そのとき」と記しています。従って、イエス様が死と復活を述べた後にすぐのことであります。お弟子さんの中にゼベダイの息子、ヤコブヨハネがいます。彼らはペトロとアンデレが漁師であったように、彼らも漁師でありました。その二人にイエス様が声をかけられ、お弟子さんへと導かれたのでありました。そのヤコブヨハネの母親が二人の息子と共にイエス様のところへ来まして、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願うのであります。弟子達のイエス様に対する考え方として、これまでも示されてきました。すなわち、イエス様をメシア、救い主として信じていますが、そのメシアは極めて人間的な救い主でありました。イエス様が王様のような権威と権力を持つようになるということです。ですから、この方に従うことは、必ず自分達の栄光になるということなのです。今、ヤコブヨハネの母親が願っているのは、人間的なメシアへの希望でありました。それに対して、イエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と尋ねました。彼らは何もわからないままに「できます」と答えたのであります。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左に誰が座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と示されたのでありました。
 このイエス様とヤコブヨハネ、そして二人の母の会話を聞いていたお弟子さん達は、このことで大変腹を立てたというのです。自分達をさしおいて、二人がイエス様の右大臣、左大臣になりたいといっているのですから、お弟子さん達にとっては穏やかなことではないのです。しかし、お弟子さん達も、弟子の中で誰が一番偉いのかと議論していました。これはマルコによる福音書9章33節以下に記されることです。イエス様はお弟子さん達に「途中で何を議論していたのか」と聞きます。彼らは黙っていましたが、途中で誰が一番偉いのかと議論していたのであります。マタイによる福音書の場合は18章1節以下で、「いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょう」とイエス様に質問しています。常に上下を考えていたお弟子さん達であったのです。イエス様は言われます、「あなたがたの中でえらくなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕となりなさい」と教えられたのであります。そして、イエス様御自身が「仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるためにきたのと同じように」と教えておられるのであります。人の思いは上を目指していますが、イエス様は下を見ておられるのです。そして、仕える姿勢こそ神様の御心であることを教えておられるのです。人の思いは輝く自分でありますが、神様の御心は人に仕えることでありました。十字架の道こそ、主イエス・キリストが人間に仕えることなのです。
ヨハネによる福音書には、仕えることを具体的に示しています。イエス様とお弟子さん達が食事をします。その時、イエス様はたらいを持ってきて、お弟子さん達の足を洗い始めました。ペトロは先生であるイエス様が自分の足を洗うことに対する恐れを持ちます。しかし、イエス様は12人の足を洗い、あなたがたもこのようにしなさいと教えるのであります。つまり、人の足を洗うということ、相手の足元にうずくまって洗うということです。人に対する姿勢であります。仕える、してあげると言いながら、相手を自分の立場まで引き上げて、自分がしやすいようにすること、それは仕える姿ではありません。自分のしやすいようにすることは人間的な思いであり、相手の足元にうずくまってすることが霊の思いであるのです。自分の思いを通すことではなく、神様のお心にあって相手に接することが霊の思いであるということです。

 大塚平安教会在任中は、月に一度の木曜日は刑務所に行っていました。ある時、この日は4名の皆さんがキリスト教教誨を希望しました。受難節であり、主イエス・キリストの十字架への道についてお話ししました。十字架は人間を救う原点であります。神様はイエス様が十字架で死ぬことにより、人間の奥深くにある原罪、自己を中心とする生き方、他者排除の姿勢を滅ぼされたのであります。私たちは私の原罪を滅ぼされたイエス様の十字架を仰ぎ見ることにより、救いへと導かれるのであります。従って、キリスト教は十字架が中心になっており、教会の屋根にも、礼拝堂の正面にも十字架が掲げられているのです。そのようにお話ししました。「十字架はイエス様が造ったのですか」との質問がありました。十字架の意味を知らないのです。十字架が重罪人の処刑の場であることを知らないのです。十字架はイエス・キリストが造ったと思っています。十字架のネックレス、十字架のイヤリング、十字架の飾り物を喜んでいる人がいます。私は初めて知ったのですが、世の中の人は十字架が重罪人の処刑の場であることを知らないということ、美しい飾り物としてしか受け止めてないということです。十字架の意味を知っているものとしてお話しをしていましたが、今後は十字架そのものの意味を含めてメッセージを示さなければなりません。
 主イエス・キリストが十字架への道を示した直後に、お弟子さん達の右大臣、左大臣にしてくださいとの願いは、極めて人間的な思いでありました。この十字架に救いがある、との信仰が神様の御心に従う道なのであります。神様の御心に従うこと、永遠の命へと導かれていくのであります。本日のローマの信徒への手紙8章6節、「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」と示しています。十字架を飾り物と思うのは肉の思いであります。救いの原点と信じることが霊の思いであります。いよいよ十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのであります。
<祈祷>
聖なる神様。人間的な欲望を取り去り、十字架の救いを真実いただいて歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。