説教「光につつまれる人生」

2013年3月10日、横須賀上町教会
「受難節第4主日

説教、「光につつまれる人生」、鈴木伸治牧師
聖書、出エジプト記24章3-11節
    マタイによる福音書17章1-13節
賛美、(説教前)讃美歌21・305「イエスの担った十字架は」
    (説教後)讃美歌21・502「光のある間に」


本日は礼拝の後に、附属のめぐみ幼稚園の卒園式が行われます。幼い子供達がこの幼稚園で数年間過ごし、新しい世界へと導かれていくことは大きな喜びであります。いわば「光につつまれる人生」へと送り出したということです。小学校に進み、中学・高校へと進み、大学や社会人になっていく過程で、幼稚園で培われた「光につつまれる人生」が、常に基となって、力強く人生を歩んで行く、そういう人生を祈りたいのであります。
 私は42年間、牧師として歩みましたが、いずれの教会も幼稚園がありました。神学校を卒業して、最初に赴任した教会は東京の青山教会でした。副牧師でありましたので、幼稚園には直接関わりませんでした。しかし、幼稚園を卒業した子供達が教会学校に出席するようになり、その教会学校の子供達が、私はわずか4年の在任でしたが、未だに覚えてくれていることを示されています。青山教会の後は宮城県の陸前古川教会に赴任しましたが、そこの教会も幼稚園がありました。しかし、私は園長ではなく設置者としての責任でしたが、子供達にイエス様のお話をしていたのです。陸前古川教会の牧師をしながら、登米教会の牧師を兼任しました。その兼任教会の幼稚園では園長として子供たちと過ごしたのであります。そして、その後は大塚平安教会に赴任しますが、教会にはドレーパー記念幼稚園があり、園長・理事長を担いながら勤めたのであります。2010年3月をもちまして退任しますが、その4月からは半年間でありますが、横浜本牧教会の代務者を務めることになりました。そこの教会にも幼稚園があり、幼稚園では代務ということではなく、園長として関わらなければなりませんでした。最後に至るまで幼稚園の子供たちと触れ合いながら勤めることができことは、まさに喜びであります。現役牧師としては42年間でありますが、直接幼稚園に関わらなかった年月もありますので、幼稚園には37年間勤めたことで、キリスト教保育連盟から感謝状をいだきました。その感謝状を部屋に飾っているのは、名誉というものではなく、私にとって子供達との触れ合いの37年間なのであり、その37年間の喜びとして部屋に飾っているのであります。
 この三浦半島の地にキリスト教主義の幼稚園があること、誠に重い使命があり、大切な存在なのであります。三崎教会の関わりで保育園がありますが、日本基督教団関係としてはこちらの幼稚園と三崎教会の保育園だけであります。キリスト教主義の学校、横須賀学院がありますが、幼稚園がないのは残念です。もっとも横須賀学院に幼稚園がないことで、こちらの幼稚園の使命が深まるわけです。「光につつまれる人生」を歩む子供達をいよいよ世に送り出す使命を深めて行きたいのであります。横須賀上町教会附属めぐみ幼稚園が存立していること、そしてキリスト教主義の幼稚園が存立していること、人々に力と希望を与えていることは確かであります。今は幼稚園が多くありますので、一般的な幼稚園ではなく、キリスト教の幼稚園を選んで入園するのですから、神様のお心にあって成長することが願いなのであります。イエス様に養われた子ども達が毎年卒業し、それぞれの場で成長していくことは、教会にとっても幼稚園にとっても大きな喜びであります。聖書の御言葉に養われ、人生の基となるでありましょう。聖書の言葉に希望と喜びを持つ日が来るでありましょう。

 神様を仰ぎ見、神様のお心に養われる人生が祝福の人生なのであります。今朝の旧約聖書は人々が神様の言葉を守り、行うことを告白しているのであります。モーセが神様の言葉とすべての法を人々に読み聞かせたとき、人々は皆、声を一つにして「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。守ります」と答えたことが今朝の聖書の示すところです。人々が神様を見たと記されていますが、一つの状況的な説明なのです。ここで示されていることは、人々が神様のお言葉を行い、守ることの告白であるのです。
 聖書の人々はエジプトの国で奴隷として生きること400年であります。もともと聖書の人々はカナンに住んでいましたが、全国的な飢饉が訪れ、食べることに窮することになりました。神様のご計画はヤコブの11番目の子どもをエジプトに行かせることでした。ヨセフは夢を解く不思議な力を持っていました。最初は兄達の妬みで、奴隷として売られていくのですが、夢を解く力が王様にも及ぶのです。王様の見た不思議な夢を解くことにより、ヨセフは王様に次ぐ大臣になりました。ヨセフの指導でエジプトにはたくさんの食料が蓄えられるようになりました。そして、飢饉が訪れ、ヤコブの一族が買出しにやってきました。そこで兄弟たちとの劇的な再会がありました。そして、ヤコブの一族はエジプトに寄留することになるのです。しかし、その後、ヨセフのことを知らない王が、自分の国に他所の国の者が住んでいることに懸念を持ち、奴隷にしてしまうのであります。苦しみの生活が始まったのです。その苦しみに対し、神様はモーセを指導者として、聖書の人々をエジプトから脱出させたのでありました。モーセの使命は二つの内容があります。一つはエジプトからの脱出であり、もう一つは神様の御言葉により養われる人々へと導くことでありました。それが今朝の示しであります。
 エジプトを脱出した人々はシナイ山の麓に宿営します。そしてモーセは神様の招きによりシナイ山に登っていくのでした。そのシナイ山で神様は十戒を授けたのであります。これは人間が生きるに必要な基本的な戒め、守ることでありました。十戒出エジプト記20章に記されています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と示されています。そして、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と戒めています。第一戒から第四戒までは神様を敬うことが教えられています。そして、第五戒から第十戒までは人間関係における教えであります。「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「欲しがってはならない」というものです。これらは当たり前のことなのですが、神様は当たり前のことが守られない人間を知っていたのであります。
 私たちもこれらの戒めは普通の生活をしていれば当たり前のことでありますが、やはりどこかでこれらの戒めを犯すことがあるのであります。改めて十戒をしっかりと受け止めたいのであります。
 十戒を示したモーセは、その後神様から示されたこととして、いろいろな戒めを与えています。それは出エジプト記20章22節以下から始まる「契約の書」というものであります。神様のお心をいただいて生きる者は、神様と契約の関係にあり、その契約を守りつつ生きるのであります。まず、聖書の人々が奴隷であったことから、奴隷についての戒めが与えられています。それが23章まで示されているのです。そして今朝の聖書になります。「契約の締結」とされています。つまり、これまで示されてきた戒めに対して、人々が応答すること、戒めに従う姿勢を示すことでありました。「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と告白したのでありました。このことにより、神様は聖書の人々を養い、導くのです。人々は示された戒めを行い、守ることによって祝福の人生へと導かれるのであります。そして、この後、聖書の人々に求められることは、神様のお言葉を行うのか、行わないのか、守るのか、守らないのかということでありました。人々は守らないで他の神に心を向け、偶像を造っては自分の思いをかなえさせようとしたのであります。神様の御心を行い、守る者は祝福が与えられます。しかし、守らない者は審判があります。そのことを厳しく示しているのです。

 神様が示された人間の基本的な生き方、十戒の戒めをしっかりと持ち続けること、それが祝福の人生であることは、新約聖書におきましても普遍的に示されているのであります。今朝の新約聖書は「イエス様の姿が変わる」と題されていますが、「山上の変貌」として重要な示しなのであります。
 「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と最初に記されています。「六日の後」とは前の部分で示されました弟子達の信仰告白であり、イエス様が十字架への道を歩むことをお示しになってからのことであります。十字架への道が主イエス・キリストのご栄光であることを示しているのであります。高い山に登ると、イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったということです。弟子達が驚きつつ見ると、そこにはモーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っていたというのです。するとペトロは、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです」と言うのでした。すると光り輝く雲が彼らを覆ったのであります。そして雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と神様の声が聞こえたのであります。弟子達はこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れたのでありました。それは一瞬のことであり、恐れている弟子たちにイエス様が声をかけたのでありました。
 この山上の変貌は十字架の道を歩むイエス様の勝利の姿であると示されます。まさにその通りでありますが、モーセとエリヤの出現が山上の変貌を意味深く示しているのであります。モーセもエリヤも昔の存在でありますが、モーセ十戒を与えられ、人々に神の言葉として教え導いた人であります。神の戒めを示す存在でありました。それは旧約聖書出エジプト記24章で示されたとおりであります。そしてエリヤは神様の御言葉を人々に示す預言者であります。預言の言葉は力となり、人々に神様の御心を示したのでありました。モーセは律法であり、エリヤは預言であるのです。イエス様がモーセとエリヤと話していたということは、主イエス・キリストが律法と預言であることを示しているのであります。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われたことは、主イエス・キリストが律法と預言であることは神様の御心であると示したのであります。
 このことは主イエス・キリストがはっきりと言われています。マタイによる福音書5章17節、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と述べています。律法の社会であります。モーセの時代から十戒と掟、すなわち律法を守りながら生きてきたのであります。その律法を完成するためであるというのです。人々は確かに律法を守りながら生きています。しかし、イエス様はここで問題提起をしています。「本当に律法を守りながら生きていますか」との問いであります。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイによる福音書5章21節〜)。人々は「殺すな」の戒め、これは十戒でもありますが、守っていると思っています。普通の生活をしていれば、誰も殺すことはありません。だから自分は律法を守っているということになります。それは表面的な律法の守り方なのです。イエス様は目に見える姿で守るのではなく、心で受け取る、全身で守ることを教えているのであります。まさに律法の完成であります。

 聖書に親しみつつ日々の歩みを致しましょう。ギデオン協会という聖書贈呈運動をしている人々がおります。中学生、高校生、大学生に聖書を贈呈しています。それは学校に贈呈を申し込み、公立学校でも申し入れを受け止めてくれる学校があります。看護師の皆さんにも贈呈しています。またホテルの各部屋においてもらっていることもしています。贈呈された聖書が、どれだけの人々に読まれているか、疑問視する人がいますが、いるのです。贈呈された聖書を読み、自殺を思いとどまったと聞いています。希望が与えられた人もいるのです。ホテルでふと目にした聖書の言葉が、人生の支えになったと言われる方もおられます。
 聖書が自分の存在の中にあるということ、「光につつまれる人生」であるのです。大塚平安教会在任中に知的障害者の施設、綾瀬ホームの嘱託牧師として関わっていました。毎週木曜日の朝、職員礼拝と利用者の礼拝があります。利用者の皆さんは7、80名いますが、礼拝にはホールに集まって礼拝をささげていました。赴任した当初は、利用者の皆さんにどのようなお話をして良いものやら迷いました。しかし、利用者の皆さんと接しているうちに、普通に話しかけるようにしてお話ができるようになりました。とにかくつまらないお話は聞き耳を持たず、勝手におしゃべりをするのです。しかし、利用者の皆さんもお話は良く聞いてくれます。頷いている人もいますし、中には涙を流す人もいるのです。知的障害者であり、中には奇声を上げたり、歩きまわったりする人がいますが、それでも利用者の皆さんはお話を聞いてくれるのです。30年も一緒に礼拝していると、同じお話を何回もすることになります。利用者の皆さんは、同じお話の方が喜びであります。結論を知っているので、けらけら笑いながら聞いてくださるのです。讃美歌もいつも同じような讃美歌ですので、大きな声でうたいます。30年間、知的障害者施設の綾瀬ホームとさがみ野ホームで礼拝をささげることができたこと、本当に恵みのときでした。
 利用者の礼拝と共に綾瀬ホームでは職員礼拝をしていました。職員礼拝では皆さんに聖書を輪読していただきました。そしてその聖書に基づいて奨励を行うのです。職員の皆さんは静かに聞いてくださっていました。そのように礼拝をしながらの綾瀬ホームの職務でしたが、働いていた人が退職しました。大分時がたっていたと思いますが、その人と電車の中でばったり出会いました。その人が言いました。「綾瀬ホームで礼拝があり、先生のありがたいお話がありましたが、すいません、何も覚えてはいません。しかし、礼拝で聖書をみんなで順番に読んだことだけは忘れられません。なんかそれだけで力になっているのです」と言われたのです。その言葉を聞いて、改めて職員礼拝の意義を示されたのでした。礼拝中はただ下を向いて聞いているだけですが、礼拝に参加することが大きな意味にもなっているのです。聖書と共にある働きが導かれていたのです。「光につつまれる人生」になっているのです。
<祈祷>
聖なる神様。主イエス様のお導きは「光につつまれる人生」であります。高く掲げ、守りつつ歩むことを得させてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。


○説教の休会について
この度、マレーシアのクワラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として、日本基督教団より推薦され、赴くことになりました。現地の集会の希望により、夫婦で赴くことになりました。期間は3月13日より6月4日までの三ヶ月間です。この期間の説教はお休みします。帰国して、6月9日の説教より公開します。