説教「十字架の喜び」

2013年3月24日、クワラルンプール日本語キリスト者集会
「受難節第6主日」(棕櫚の主日

説教、「十字架の喜び」、鈴木伸治牧師
聖書、哀歌5章15-22節
    コリントの信徒への手紙(一)1章18節-25節
    マタイによる福音書27章45-56節
賛美、(説教前)54年版・130「よろこべや」
   (説教後)495「イエスよ、この身を」
   

 本日は棕櫚の主日であります。主イエス・キリストの十字架への道の最後の一週間であります。本日のマタイによる福音書は十字架につけられ、死んで行く主イエス・キリストが示されています。棕櫚の主日は日曜日にイエス様が都エルサレムに入って行かれ、受難の道を歩まれることを記念しているのであります。マタイによる福音書は21章に記されています。都エルサレムが近づいたとき、イエス様はお弟子さんに、「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら。『主がお入用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる」と言われました。「ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて」との理解は、子驢馬が連れてこられたのか、親の驢馬であるのか、よく分からないのです。イエス様は子驢馬に乗ったと理解する人がいますが、子驢馬はまだ子どもでありますから、子驢馬に乗ったとは理解できないのであります。とにかく、イエス様は馬ではなく驢馬に乗ったのであります。馬は戦いをする者が乗るものであり、イエス様は戦いではなく、平和の象徴としての驢馬に乗り、都エルサレムに入ったのでありました。イエス様が都エルサレムの門を入られると、大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、他の人々は木の枝を切って道に敷いたのであります。つまり通られる道にじゅうたんを敷くかのごとくにして迎えたのでありました。木の枝とありますが、葉のついた木の枝であります。棕櫚の主日としているのは、前の口語訳聖書、ヨハネによる福音書で棕櫚の枝を道に敷いたと記されていましたので「棕櫚の主日」というようになりました。大塚平安教会在任の頃、小澤八重子さんという方が、棕櫚の主日には棕櫚の枝を持ってこられ、教会の玄関に敷いてくださいました。まさに主イエス・キリストをお迎えするかのようでありました。
 こうして人々はイエス様を歓呼して迎えました。「ダビデの子にホサナ。主の名によってこられる方に、祝福があるように、いと高きところにホサナ」と叫びつつイエス様をお迎えしました。「ホサナ」とはヘブライ語で「いま救いたまえ」との意味です。エルサレムに入ってきたイエス様に、「私たちをいまお救いください」と叫んでいるのであります。しかし、このように歓呼して迎えた主イエス・キリストでありますが、金曜日には裁判をしている総督ピラトに対し、「十字架につけろと」と叫ぶのでありました。人間の心の弱さを浮き彫りにしているのであります。この日曜日から始まる十字架の道を主イエス・キリストは確実に踏みしめていたのであります。私たちはこのイエス様の十字架への道をしっかりと受け止めつつ一週間を歩みたいのであります。
 一昨年、4月5月にスペイン・バルセロナにいる娘の羊子のもとで過ごしました。棕櫚の主日カトリック教会で体験しました。スペインはキリスト教の国であります。そのため受難週、復活祭の二週間はイースター休暇で、学校や会社等がお休みになるそうです。お休みなので教会に来るかといえば、旅行に出かけたり、楽しく過ごすということです。棕櫚の主日には子ども達が椰子の葉の飾りを持って教会に来ます。この日は多くの子ども達が椰子の葉で作った飾り物をもってくるのですが、この日だけで、他の日は来なくなるということでした。神父さんと共に賑やかにイエス様のエルサレム入城を歓迎していました。いわばお祭り騒ぎのようでした。棕櫚の主日は喜びの日なのです。

 旧約聖書は哀歌が本日の聖書になっています。哀歌は悲しみの歌でありますが、その悲しみは、バビロンに捕われの民となっていることと都エルサレムの荒廃を悲しんでいるのであります。哀歌の1章1節に「なにゆえ、一人で座っているのか。人に溢れていたこの都が」と歌われていますが、「なにゆえ」が本来の題名です。これは「エーカー」という言葉で、悲しみを表す言葉であり、ため息のような言葉でもあるのです。人々がバビロンに連れて行かれ、都は荒廃するばかりであります。「貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き、異国の民の中に座り、憩いは得られず、苦難のはざまに追い詰められてしまった」と悲しみの歌を歌っています。
 本日の聖書は5章15節からです。「わたしたちの心は楽しむことを忘れ、踊りは喪の嘆きに変わった。冠は頭から落ちた。いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ」と歌います。すなわち、哀歌はバロンに滅ぼされ、捕われの身となり、都は荒廃しているので、その悲しみを歌いつつ、この悲しみを呼んだのは「私たちが罪を犯した」からであるとするのです。神様のお心に従わず、人間の知恵により、または人間の力により頼んだために、神様の審判として捕われの身となっていることを受け止めているのであります。「主よ、あなたはとこしえにいまし、代々に続く御座にいます方。なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てて置かれるのですか。主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください。あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました」と絶望の声をあげています。しかし、絶望の声でありますが、この悲哀の現実を超えて、生きて行くことの希望でもあるのです。現実の苦しみ、悲しみをしっかりと受け止めること、そして生きて行かなければならないのです。「主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります」。この希望を持ちながら現実を生きているのです。
 哀歌は嘆きの歌であります。悲痛の声をあげています。どうしてこのように苦しみと悲しみの現実を生きなければならないのか、と嘆いています。結局は自分達が神様のお心に従わなかったゆえに、このような悲しみの現実に生きているのでありますが、心を神様に向けるときに希望が与えられることを示しているのです。「わたしたちは立ち帰ります」というとき、神様への信仰があるのです。この現実の苦しみの中にこそ、神様に立ち帰ることこそ、生きる道であると示されたのであります。

 主イエス・キリストは十字架の道を歩みます。イエス様は時の指導者達に捕らえられる前にお弟子さん達と夕食をしました。これが名画になっている「最後の晩餐」であります。その時、お弟子さん達にパンを与えながら言われました。「取って食べなさい。これは私の体である」。次に杯を取り、感謝のお祈りを唱え、お弟子さん達に渡しながら、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われたのであります。このパンとぶどう酒をいただくこと、2千年の昔から今に至るまで聖餐式として行われています。パンとぶどう酒をいただくこと、主イエス・キリストの十字架の救いが与えられるのであります。
 イエス様はお弟子さん達と最後の夕食をしますが、その後ゲッセマネという園に行きお祈りをささげます。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られたのであります。主イエス・キリストはクリスマスにマリアさんから生まれました。神の御子としてこの世に現れましたが、生れたときは一人の人間として生れているのです。喜怒哀楽を持つ一人の人間であります。従って、死んでいくということ、これは一人の人間として避けて通りたい人間の課題をそのまま持っているのです。しかし、神様の御心を示されています。時の指導者の妬みにより捕らえられること、十字架によって殺されることを示されていました。できればそのようなことにならないようにお願いしているのであります。そのようなお願いをしますが、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と神様に委ねているのであります。
 この祈りが終わったとき、時の指導者が差し向けた大勢の群衆がイエス様を捕らえにやってきたのであります。イエス様を捕らえると、人々はイエス様を大祭司のところに連れて行きました。聖書の世界で裁判は最高法院という場で行われます。人々はイエス様の不利になる証言を行い、ローマから派遣されている総督ピラトの下に連れて行くのであります。ピラトは主イエス・キリストを調べますが、罪にあたることが認められないので赦そうとします。しかし、人々は十字架につけよと叫ぶのです。もし、赦すことになれば暴動が起きかねない状況になりました。ピラトは十字架につけることにしたのであります。
 そこで本日の聖書になります。イエス様は十字架につけられました。二人の強盗も同じように十字架につけられたのであります。十字架は悪いことをした人が処刑されるところなのです。主イエス・キリストは罪を犯したのではありません。時の指導者達の妬みによるものでした。神様はそのようにして御子であります主イエス・キリストが十字架で殺されていくことを承知していました。むしろ、イエス様が十字架で死ぬことにより、人間の奥深くにある自己満足、他者排除をイエス様の十字架の死と共に滅ぼされたのであります。従って、私たちが十字架を仰ぎ見るとき、私の罪をイエス様が赦すために死なれたということを信じるのであります。
 金曜日の午後3時頃、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言いつつ息を引き取られたのであります。神の子であるイエス様が、神様から見捨てられたと言いつつ息を引き取られたことに疑問が残ります。しかし、イエス様の十字架の救いはそんな安易なものではありません。神の子だからではなく、一人の人間なのです。そして、人間のさまざまな悪を一身に受けて死んでいくのですから、絶望の極みでありました。旧約聖書の哀歌では、苦難と悲惨な状況において、「主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります」。この希望を持ちながら現実を生きて行くことが示されました。しかし、イエス様には希望がないのであります。完全な絶望でありました。この完全な絶望が十字架の救いを完成させたのでありました。主イエス・キリストの十字架の救いが完成されたのであります。神様の御心が実現されたのであります。私たちはイエス様の完全な絶望により、私の中にある自己満足と他者排除を滅ぼされた主イエス・キリストに希望を置くのであります。本日から始まる一週間、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩むのです。
 コリントの信徒への手紙(一)1章18節、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と示されています。十字架という、社会の人々にとって重罪人の処刑の場であるところから、神様の救いが始まったのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と示しています。

 本日より受難週になります。日本の教会は、受難週は主イエス・キリストのご受難を偲びつつ歩むことが奨励されていました。イエス様が十字架にお架りになって、私達をお救いくださったのであります。先ほども示されましたが、一昨年スペイン・バルセロナで棕櫚の主日カトリック教会のミサで体験して以来、棕櫚の主日に対する思いが変えられました。棕櫚の主日は、人々がイエス様を歓呼してお迎えしたのです。「ホサナ、ホサナ」との歓呼の声は、「十字架につけよ」との声に変わっていくのですが、そのような人間的に弱い心を示されながら、この棕櫚の主日を喜びをもって迎えたいのです。主イエス・キリストは、私達の弱さのゆえに十字架にお架りになり、私達を新しい人間へと導いてくださったのです。十字架の御救いを感謝します。皆さんで感謝の喜びの声を上げましょう。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いを与えてくださり心より感謝いたします。神様のご栄光を現しつつ歩むことを得させてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。