説教「イースター、おめでとう」

2013年3月31日、クワラルンプール日本語キリスト者集会
「復活祭」イースター

説教・「イースター、おめでとう」、鈴木伸治牧師
聖書・エゼキエル36章25-32節、
    ローマの信徒への手紙6章12-14節
    マタイによる福音書28章1-10節
賛美・(説教前)54年版・155「そらはうららに」
   (説教後)54年版・496「うるわしの白百合」


 主イエス・キリストのご復活をお喜び申し上げます。聖書の告知に示されましょう。主イエス・キリストは金曜日に十字架に架けられ、死んで葬られたのでありました。イエス様のご復活に至る一週間を聖書から示されておきましょう。マタイによる福音書26章36節から27章66節までに記されています。まず、ゲッセマネの祈りから示されます。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とイエス様は祈られたのであります。杯とは十字架への道でありました。一人の人間として、イエス様もこの苦しみは避けて通りたかったのであります。しかし、自分の思いではなく、神様の御心に全てを委ねられたのでありました。そこへ弟子の一人、ユダが手引きして大勢の群衆がイエス様を捕らえにやってくるのです。最高法院で裁判を受け、ローマからの総督ピラトのもとで裁判を受け、結局ピラトは自分の地位を守るためにも、イエス様には罪なるものを見出せないとしても十字架にかけることに同意したのでありました。そして、金曜日には十字架にかけられたのでありました。棕櫚の主日において、イエス様の十字架への道を示されました。本日、改めて十字架への道を示され、そして本日は主イエス・キリストのご復活をお祝いしているのであります。十字架への道を示されれば示されるほどに主の復活の喜びが増し加わるのであります。もはや新しい道が示されているのであります。お弟子さん達を始め、イエス様に従った人々はイエス様のご受難を基としながら、その上に新しい歩みを与えられているのです。喜び勇んで新しい歩みを始めたのであります。
 今年のイースターは3月31日でありますが、いつもは4月の初旬に迎えています。その頃は学校が始まり、担っていた幼稚園でも新しい子供達を迎える入園式、在園生の始業式が行われていました。始業式では新しいバッチを胸に付けてあげます。すなわち、今まで三歳児の子ども達は黄色いバッチでしたが、四歳児になるとピンクとオレンジのバッチになります。今まで四歳児の子どもはピンクのバッチでしたが、五歳児になると青いバッチになります。子ども達はバッチが変わることで、大変な喜びがあるのです。今までとは違う、一つ大きくなった組になるのですから、バッチへの期待は大きいものなのです。特に年長組の青いバッチは子ども達にとって憧れのようです。青バッチはお兄さん、お姉さんであり、年中や年少のお友達のお世話をする使命があるのです。新たなる思いが深まっているのであります。
 毎月一度でありますが、少年院に行って、そこにいる少年と面接をしていました。その少年達もバッチを付けています。最初は青バッチのようです。何の問題もなく少年院の生活をしていると黄色のバッチになり、間もなく出院になる頃は赤いバッチになります。来月から赤バッチになると言っていた少年がいました。次の月に行って見ると、まだ黄色のバッチでした。「赤バッチにならなかったの」と聞きますと、違反をして延びてしまったというのです。赤バッチは憧れであります。その後、赤バッチになった少年は、何となく違った少年に見えました。新たなる思いで生活していることが分かるのであります。
 新たなる歩みへと導かれています。主イエス・キリストのご復活を信じ、ご復活の主が共におられるという信仰は私たちの歩みを新しくしてくれるのです。

 神様が「新しい心を与え、新しい霊」を置いてくださると旧約聖書エゼキエル書は示しています。エゼキエルという預言者は聖書の人々がバビロンという国に滅ぼされ、多くの人々が捕われの身としてバビロンに連れて行かれるのですが、エゼキエルも連れて行かれたのであります。その時はまだ預言者ではありませんでしたが、捕われの身分、それを捕囚と称していますが、捕囚の中で神様のお心を人々に示す預言者へと導かれたのであります。人々は捕囚の苦しみに生きています。異国の空の下で故郷に帰りたいとの思いを持ちつつ、現実の苦しみに希望を無くして生きているのでした。しかし、この現実は聖書の人々が神様のお心に従わなかった審判でもあるのです。人間的な力により頼み、自分の思いをかなえさせる偶像に心を寄せたからであります。その結果がバビロンの国に滅ぼされるということでありました。
 しかし、神様は捕囚の人々に希望を与えています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める」と示しています。神様の審判としての捕囚の生活でありますが、今や審判のときは終わり、神様の新しい民として、神様のお心をいただきながら歩む民へと導かれるのであります。まず清められる。そして、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と示しています。神様のお心が清められた人々に与えられるのであります。神様のお心が与えられる時、かたくなな心、自己満足の心、他者排除の心である石の心が取り除かれるのであります。「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と示しているのであります。
 「石の心」を取り除くのであります。石の心は極めて自分の思いにこり固まっている姿であります。ただ、自分の思いこんでいることで生きているのです。日本語には頑固者という言葉がありますが、頑固者は別に悪い姿ではありません。人の意見を聞かない程度でありますので、悪いということではありません。私たちは大体が頑固な姿をもっています。それに対して、「石の心」は心が何一つ動かないということです。冷たいのです。感動もない。何の動きもない心なのであります。「石の心」を取り去り、「肉の心」を与えるといわれています。肉の思いといえば、霊に対立するものでありますが、ここでは「肉の心」は石に対立するものとして示されているのです。「肉の心」は喜怒哀楽を持っています。神様のお心を素直に受け止めることもできますが、悪いことをも受け止めることにもなります。しかし、基本的には「肉の心」は神様のお心をいただき、御心に養われるのです。動きのある心であるということであります。あるときは躍動的に、あるときは消極的に振舞う肉の心であるのです。要するに人間の心であるということであります。その人間の心に新しい心が与えられるのです。新しい霊が与えられるのです。喜びと希望に満ちた歩みが始まって行ったのでした。

 新しい始まりを告知しているのが主イエス・キリストのご復活であります。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」と記されています。安息日とは土曜日であります。聖書の世界では土曜日の安息日は絶対的な日であります。創世記に神様が世界をお造りになったことが記されています。日曜日から始まって、金曜日に創造の業が成し遂げられました。それで土曜日はお休みになったといわれます。従って、人々は安息日は神様の創造の業を讃美し礼拝する日であるとしていました。主イエス・キリストは金曜日に十字架で死に、夕刻には埋葬されますが、土曜日は安息日なのでお墓参りも出来ないのです。それでマリアさんたちは週の初めの日の明け方、日曜日にお墓参りに行ったのであります。
 すると、大きな地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったと記されています。イエス様が十字架で死なれたとき、アリマタヤ出身のヨセフという人が、イエス様の死体を埋葬したと言われます。墓は横穴でありました。穴の中に安置すると、穴の入口に大きな石でふたをしておいたのであります。その石を天使が降って、わきへ転がしたのでありました。墓の入り口付近には番兵がいました。これは27章62節以下に記されていることであります。祭司長たちやファリサイの人々はピラトに言いました。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子達が来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります」。このような疑いのもとに、墓の前には番兵が見張っていたのであります。地震が起こり、天使が降って来て、石をわきへ転がしたとき、番兵達は、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったと記されています。
「恐れることはない。十字架に付けられたイエスを捜しているのであろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。婦人達は先ほどから、恐れと驚きをもってお墓の前にたたずんでいたのです。天使のお告げを受けたとき、婦人達は恐れながらも大いに喜びました。天使が、「遺体の置いてあった場所を見なさい」と言っていますが、婦人達が見たとは記していませんので定かではありませんが、天使のお告げをしっかりと受け止め、急いで弟子達に知らせに行ったのであります。ところが、その途中で復活のイエス様にお会いしたのであります。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と主イエス・キリストは言われたのであります。
イエス・キリストのご復活がどのようにしてなされたのか、聖書は記していません。死んで葬られた。三日目に復活されたという告知であります。私たちはこの告知を信じているのであります。科学的には考えられないことであります。しかし、信仰は科学の証明を持って導かれるのではなく、聖書の証言を受け止め、信じることが信仰なのです。主イエス・キリストが世に現れたとき、それは処女マリアから生れたと聖書は告知しています。科学的には考えられないことであります。科学の証明があって信じているのではなく、その事実を信仰を持って受け止め、信じているのであります。復活の主イエス・キリストは厳然と現代の世に生きておられることを信じているのであります。

エス様は、「ガリラヤへ行きなさい」と弟子達に命じています。ガリラヤは主イエス・キリストが弟子達と共に、神の国に生きることを示した場所であります。再び働きの場へと導いておられるのであります。生活の場がガリラヤでありました。その生活の場に復活の主イエス・キリストが共におられることを示しているのであります。
ところで、このマタイによる福音書28章1節から10節までの中に「恐れる」という言葉が4度記されています。まず、恐れたのは番兵達であり、婦人たちでありました。その恐れは地震が起こり、天使が降りてきたことの恐れでありました。経験したことの無い出来事に対する恐れでありました。番兵達は、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったといわれます。同じように恐れている婦人たちに、天使が「恐れることはない」と言われました。経験したことの無い事実の前に恐れおののいている婦人たちに、この事実は神様の力であることを示すのです。この天使の恐れの解消を示された婦人たちであり、しかしまだ恐れを持ちつつもこの事実を受け止め、弟子達に知らせるため、墓を後にしたのであります。すると、婦人たちに復活のイエス様が現れました。「恐れることはない」とイエス様も婦人たちを励ましています。婦人たちにとって、愛するイエス様はお墓に埋葬されているのです。その思いは厳然たる事実であります。しかし、その事実は打ち消され、新しい事実を示されたのでありました。すなわち、イエス様はお墓の中に居るのではなく、復活されたという新しい事実であります。この新しい事実に対して、恐れながらも、次第に喜びへと導かれ、急いで新しい事実を弟子達に知らせに行ったのであります。
 新しい事実に生きること、それは新しい命に生きることであります。ローマの信徒への手紙6章4節、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」と示されています。主イエス・キリストのご復活は私たちに新しい命を与えているのです。もはや、私の悲しみはありません。もはや私の苦しみはありません。痛む心も、悩みの日々も、新しい命を与えられている私たちでありますから、勇気をもっと現状を受け止め、新しい一歩を踏み出していくのであります。ご復活の主イエス・キリストが共におられ、どのような状況に生活していましょうとも、励ましと力を与えてくださいまして、新しい命を歩ませてくださるのです。イエス様は婦人たちに、また弟子達に「ガリラヤへいきなさい」と言われました。ガリラヤは私たちの生活の場であるのす。現実から別のところへ行くのではなく、現実に戻り、新しい命によって歩むことが、私たちの歩みなのです。ご復活の主が導いておられるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。主のご復活のお恵みを感謝いたします。自分の生活の場で、新しい命により力強く歩むことを得させてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。