説教「イエス様の証人」

2013年4月7日、クワラルンプール日本語キリスト者集会
「復活節第2主日

説教・「イエス様の証人」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書65章17-20節
    使徒言行録13章26-31節
    マタイによる福音書28章11-15節


 主イエス・キリストのご復活をいただき、前週は喜びの礼拝をささげました。そして、礼拝後はお祝いの集いを開いたのであります。主の復活は私たちに新しい命を与え、力と希望を与えているのであります。イエス様の復活は、死んでいたものが新しい歩みだしへと導かれるのであります。マタイによる福音書は主イエス・キリストの復活の顕現の報告は記されていませんが、復活の証としてルカによる福音書ヨハネによる福音書が記していますので、その証を示されたいのであります。
 ルカによる福音書は24章13節以下にエマオで現れた復活のイエス様を記しています。二人のお弟子さんが都エルサレムから12キロ離れたエマオという村へ向かって歩いています。彼らが話しながら歩いていると、いつの間にかイエス様が二人に加わり、一緒に歩くのです。二人のお弟子さんは道連れの人がイエス様であるとは気がつきません。イエス様は二人が何について話していたのか聞きます。二人はナザレのイエスという人が、指導者達によって十字架で殺されたこと、自分たちはこの人が人々を解放してくれると信じていたことを話します。埋葬されたイエス様の墓に婦人たちが行ったところ、天使が現われて、「イエスは生きておられる」と告げたこと、それで仲間の者が墓に行ったのですが、婦人たちが言った通り、墓にはイエス様が見当たらなかったこと等を話したのでした。そうこうしているうちにエマオ村につき、もはや夕方なので二人は道連れの人に、一緒に泊まるよう勧めたのでありました。そして、夕食をしたとき、イエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人に渡されたのでありました。その時、二人の目が開け、道連れの人が復活された主イエス・キリストであることが分かったのでした。二人が分かったとき、イエス様は見えなくなったのでした。二人のお弟子さんは、すぐさま都エルサレムに戻り、他のお弟子さん達にイエス様にお会いしたことを報告しました。ところがイエス様の11人のお弟子さんや他のお弟子さん達もイエス様にお会いしたと喜びあっていたのでした。これがルカによる福音書の復活顕現の証です。
 ルカはさらにイエス様の復活顕現を報告しています。それは24章36節以下に記されます。お弟子さん達が復活のイエス様にお会いしたことを話し合っていると、そこに復活のイエス様が現れるのです。「あなたがたに平和があるように」と祝福を与えられました。ところが、先ほどは復活のイエス様にお会いしたと言って喜んでいたのに、再び復活のイエス様が現れたとき、彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったのであります。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われ、お弟子さん達に手と足をお見せになったのであります。ところが、お弟子さん達は喜びつつも、まだ信じられず、不思議がっているので、イエス様は「ここに何か食べ物があるか」と言われました。お弟子さんが焼いた魚を一切れ差し出すと、イエス様はそれを取り、彼らの前で食べたのであります。ルカによる福音書における復活のイエス様の顕現は、復活されたイエス様は亡霊ではなく、もとのイエス様であることを証言しているのであります。
 復活の証をヨハネによる福音書も記しています。これはヨハネによる福音書20章19節以下に記されています。週の初めの日の朝に主イエス・キリストはご復活になりました。その週の始めの日、すなわち日曜日の夕刻、お弟子さん達は人々を恐れて、家の中に閉じこもっていました。家の戸に鍵をかけていました。そこへ、復活のイエス様が入ってこられたのです。「あなたがたに平和があるように」と言われ、手とわき腹をお見せになったのであります。そして、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われたのであります。この時、お弟子さんの一人トマスがいませんでした。トマスは弟子たちにイエス様が現れたことを聞きますが、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」というのでした。それから八日たちました。お弟子さん達は家の中に閉じこもっています。そこにはトマスもいました。そこへ再び復活のイエス様が現れたのでありました。「あなたがたに平和があるように」と再び言われた後でトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのであります。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白いたしました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と主イエス・キリストは言われたのでありました。
 次にヨハネによる福音書21章に記されています。お弟子さんのペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子であるヤコブヨハネ、さらに二人の弟子達7人は、何をすることもなく過ごしていましたが、ペトロはもともと漁師であったので、「漁に行く」と言いますと、他の弟子達も一緒に行くことになりました。夜通し漁をしますが、魚は取れませんでした。既に夜が明けたころ、岸辺に人がいて「子たちよ、何か食べるものがあるか」と言っているのです。「ありません」と彼らが答えると、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはすだ」と言うのです。それでお弟子さん達は網を打ってみるとたくさんの魚が取れ、網を引き上げることができないほどでありました。そこで、岸にいる人が復活のイエス様であることが分かるのです。ペトロは泳いで岸に向かい、他の弟子達は取れたたくさんの魚を舟に引き上げて岸に向かったのであります。岸に上がると炭火がおこしてあり、魚が焼かれており、パンも用意されていました。「今、取った魚を何匹か持ってきなさい」とイエス様が言われ、そしてそこで朝の食事をしたのであります。主イエス・キリストが十字架にお架かりになる前、イエス様はお弟子さん達と「最後の晩餐」を行いました。その時、聖餐の儀式が示され、今日に至るまで聖餐式を執り行っているのであります。今、主イエス・キリストはお弟子さん達と朝の食事をしています。これは「最初の朝餐」であります。復活の主イエス・キリストがお弟子さん達の生活の中におられることを示しているのであります。「最後の晩餐」が信仰の導きであれば、「最初の朝餐」は生活を導く主イエス・キリストなのであります。
 以上、聖書における復活の証を示されました。ご復活の主イエス・キリストは私たちの生活と共におられ、私たちに新しい命を与え、新しい力と希望を与えてくださっているのです。新しい創造を与えてくださっているのであります。

 本日の旧約聖書イザヤ書65章17-25節は救いの預言であります。イザヤ書は1章から39章までは第一イザヤが書いています。ここでは神様の御心に生きるようにとの示しが記されています。イザヤ書40章から55章は第二イザヤが記しています。背景は聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、捕囚として捕われの身になりますが、その捕囚の終わりの頃のことが記されています。そして、56章から66章までは第三イザヤが記しています。この背景は捕囚から解放され、かなりの期間を経ていますが、荒廃した都の中で希望もなく生きていた人々への預言が示されているのです。本日はこの第三イザヤの示しであります。
 「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と励ましています。「初めからのことを思い起こす者はない」と言われますが、「初めからのこと」とは捕囚の苦しみであり、さらにエジプトにおける奴隷の時代であります。初めから苦難の歴史でありました。しかし、今や新しい創造が始まっているので、昔の苦難を思い出さないほど、創造の恵みが与えられると言うのであります。「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫び声は、再びその中に響くことがない」と示しています。新しい天と新しい地の創造は、人々そのものが新しい創造にあずかるのであります。「そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬものは若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者となる」というのです。みんな百歳以上生きるということです。
 こうして新しい創造が与えられる時、それは神様の御心をいただいて生きることであり、人々は喜びと希望に生きることになるのであります。荒廃した都の中に生きている人々にとって、このイザヤの預言は力となりました。自分で何とかしなければ思うものの、基本的には今までの自分の姿であります。今までの自分では何も新しく変わらないのです。神様の御心をいただくこと、そこに新しい自分を見出すのです。神様の御心をいただいて生きるとき、新しい創造が導かれてくるのです。第三イザヤは力を無くしている人々に力と希望を与えました。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」と示しています。神様の御心がすぐに示され、人々の願いをすぐにくみ上げてくれる神様を示しているのです。

 新しい天と新しい地を創造するのは主イエス・キリストであります。それが復活のイエス様なのです。福音書における復活の証を示されました。「見ないで信じる者は幸いである」とイエス様は言われています。また、生活の中におられて、私たちと共におられる主イエス・キリストの導きがあります。新しい創造にあずかっているのです。私たちの前にある大きな課題、問題は新しい創造にあずかっている私たちにとって、導きがあることを示されるのであります。
マタイによる福音書28章11節以下が本日の聖書になっています。ここでは主イエス・キリストの復活を否定しようとするたくらみが記されています。これは27章62節以下に、祭司長たちとファリサイ派の人々がピラトに言います。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子達が来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります」。このような疑いのもとに、墓の前には番兵が見張っていたのであります。地震が起こり、天使が降って来て、石をわきへ転がしたとき、番兵達は、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになったと記されています。その後、番兵達は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告したのであります。そこで、祭司長たちは長老達と集まって相談し、兵士達に多額の金を与えて、偽りの証言を言わせるのであります。「弟子達が夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」という偽りの証言でありました。「我々の寝ている間」というのであれば、番兵達は職務怠慢ということになります。死体を盗まれないように番をするのが職務でありました。兵士達は教えられたようにしたと記されていますが、主イエス・キリストの復活は偽りの証言によって消されることなく、むしろ今日に至るまで、人々の希望となり、喜びとなっているのであります。
 主イエス・キリストのご復活は私たちの新しい創造であります。復活をいただいた私たちは、もはや今までの自分を絶対として生きているのではなく、新しい自分として、人々の中に生きているのであります。

 昔、神学生の頃、北海道の教会で夏休みの一ヶ月間、夏期伝道をしました。神学生として実際に教会の御用、牧会的な働きをしつつ学ぶのであります。北海道の余市教会でした。高校生達も結構出席していました。あるとき、一人の高校生が私を訪ねてきました。そして質問したことは、なぜ十字架につけられ、殺されたイエスを信じるのかということでありました。日本にも人々の身代りになった人がいる。イエスも人々の身代りになったことは分かるが、なぜ信仰としてイエスを信じるのかということでした。私はまだ神学生の2年生で、24歳のころであります。初めて聞く質問内容ですが、すっと出てきた答えは、「イエス様は死んで終わりではなく、復活されたんだよ」と言うことでした。それを聞いた青年は、最初は目を吊り上げているようでしたが、とたんに和やかな顔になり、「そうでしたね、そうでしたね」と繰り返しうなずくのでありました。彼も自分の思いの絶対性を確信していたのであります。しかし、第一関門はすぐになくなり、ご復活のイエス様をしっかりと受け止めたのであります。
 私たちの人生は主イエス・キリストのご復活に与ることであります。それはイエス様が神様のみもとに引き上げられたように、私たちも永遠の命へと導かれることなのです。イエス様が神の国を示し、今生きている者として神の国を生きることへと導かれたのであります。死んでから神様の国へ導かれることではなく、生きている今、イエス様の導きをいただきつつ神の国を生きるのであります。復活の主イエス・キリストが私の現実を神の国に生きる者へと導いてくださるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。復活の証を示され感謝いたします。いよいよ私たちが復活の主と共に人生を生きることを得させてください。主のみ名によりおささげいたします。アーメン。