説教「新しい人に導かれる」

2013年4月14日、クワラルンプール日本語キリスト者集会
「復活節第3主日

説教、「新しい人に導かれる」、鈴木伸治牧師
聖書、列王記上17章17-24節
    コロサイの信徒への手紙3章1-11節
    マタイによる福音書12章38-42節
賛美、(説教前)54年版・512「わがたましいの」


 本日は礼拝の後に総会が開かれることになっています。三ヶ月のボランティア牧師として、丁度良いときに赴任していると思っています。2012年度の歩みを振り返り、2013年度方向を定め、祈りつつ歩み出すのであります。KLJCFの存在そのものを示される次第です。先日、コー・はんな先生から今迄発行された記念誌をお借りいたしました。2周年記念誌、7周年記念誌、10周年記念誌、20周年記念誌であります。歴史と共に、その時代に関わった皆さんのお証を読むことができました。このKLJCFの存在がとても大きな意味になっていることを示されたのであります。今年は30周年を迎えていますが、現在KLJCFに所属しているものとして、主の群れの証を喜びつつ残したいのであります。
 私はこの数年において、世界のそれぞれの国で、キリスト者の群れが少人数ながらも力強く歩んでいることを示されています。2011年4月5月、娘がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしているので、連れ合いと共に行って参りました。そこにはバルセロナ日本語で聖書を読む会があり、月に一度でありますが、礼拝をささげています。丁度20周年を迎えていました。二ヶ月滞在しましたので、求められまして二度ほど礼拝説教を担当させていただきました。5、6名の出席であり、多くても7、8名の出席でした。そのとき、マドリッド日本語で聖書を読む会の皆さんが、日本の災害復興協力コンサートを開き、娘の羊子がピアノの演奏をしたのであります。そこでも月に一度でありますが、礼拝が開かれており、担当させていただきました。やはり6、7名の皆さんでした。そして、昨年の9月10月にもバルセロナを訪れ、皆さんと共に礼拝をささげたのであります。
 私が現役時代、大塚平安教会で30年間の牧師を担いましたが、礼拝出席はいつも50名、60名前後でした。大きくもない、小さくもない礼拝に慣れ親しんだようであります。ヨーロッパにおける国々で、日本人のキリスト者の皆さんが少人数ながら、礼拝をささげておられることを知るようになり、そのような群れの皆さんをお祈りするようになりました。実は私達夫婦も、今は小人数の礼拝をささげながら歩んでいるのであります。2010年3月をもちまして、30年間務めました大塚平安教会を退任しました。そしてその4月から9月までは横浜本牧教会の代務者を務めました。その後は無任所教師となり、どこの教会に出席しようかと夫婦で話し合っていました。私は無任所教師になり、どこの教会で説教するのではありませんが、日曜日のために説教を毎週作成していました。その説教はブログで公開していたのです。それで、説教が作成されていますので、私達二人で礼拝をささげようと言うことになり、2010年11月から六浦谷間の集会としての礼拝をささげるようになりました。時には私達の子供たちや知人が出席することがありますが、基本的には二人だけで礼拝をささげているのです。いつも礼拝をささげながら、この世界の中で、少人数でありますが礼拝をささげておられる皆さんを覚えさせていただいているのです。
 前任の教会、宮城県の陸前古川教会の牧師は40年間牧会を勤めて退任されました。その後任として赴任したのでありますが、地方の教会はなかなか新しい人が来ません。34歳で赴任し、数年牧会しましたが、新しい人を迎えるわけではなく、前進がないような状況で、前任の牧師に手紙を書きました。後を引き継いで牧会していますが、少しも教勢が上がりません、と言い訳めいた手紙でした。すると前任の牧師から返事が参りました。「それは40年間務めた私の言葉です。教勢は増えません。洗礼者はありません。それでも遣わされているのです」との内容でした。結果のみを考えていた若い牧師は、しみじみと牧会の使命を示されたのであります。人々に「新しい命」を示すこと、それが牧師の働きなのです。それによって教勢が増えたとか、洗礼者が与えられたとかではなく、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、新しい命へと導かれることを示していくのが、牧師の働きであることを示されたのでありました。長きにわたって伝道、牧会された先輩方には心から感謝をささげる次第であります。

 旧約聖書預言者エリヤについて記しています。エリヤは預言者と言われていますが、むしろ「神の人」といわれるほど、神様の力を表した人でした。エリヤが登場したころのイスラエルの王様はアハブであり、彼ほど悪い王様はいないとまで言われています。偶像礼拝を行い、偶像の神殿まで造り、人々に偶像礼拝をさせたのであります。神様はこの状況を深く受け止め、審判を与えます。すなわち、イスラエルにはしばらくの間、雨が降らないということであります。まず、神様はエリヤをヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに住まわせます。神様はカラスに肉とパンをエリヤのもとへ運ばせるのであります。水はケリトの川から飲んでいましたが、雨が降らないので、その川も涸れてしまいます。そこで神様はエリヤをサレプタに行かせます。そこには一人の女性とその息子がいました。エリヤはその女性に水を所望します。そして、付け加えてパンも要求するのでした。それに対してサレプタの女性は「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壷の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」と言うのです。それに対してエリヤは、「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持ってきなさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい」と言うのです。女性は一握りの小麦粉とわずかな油しか無いと言っているのに、まず私のために作りなさいと言っているのですから、人道的にもよろしくないことを要求しているようです。しかし、女性はエリヤの言うとおりにしたのであります。その時エリヤはこうも言いました。「主が地の面に雨を降らせる日まで、壷の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」ということでした。女性はこの言葉を信じたのではありません。エリヤのために残っている一握りの粉で、パン菓子を作ったら、もうそれでお終いであることはエリヤに述べた通りであります。しかしエリヤの要求どおりパン菓子を作りました。ここに聖書の救済の深い意味が示されるのであります。
 このエリヤ物語は18章で始まるエリヤと偶像の預言者の戦いの導入の部分なのであります。偶像の預言者たちは権力を欲しいままに振舞っています。それに対して、一人の女性とその息子は、もはや一握りの小麦粉しかありません。死ぬのを待つばかりの親子にエリヤが遣わされたということです。ここに聖書の救済があるのです。女性は人々から相手にされない存在でした。死を待つばかりでありました。その女性が預言者エリヤを受け入れたということです。およそ権力には無縁であり、社会の中にあって忘れられているような存在でありました。しかし、預言者エリヤを受け入れたとき、神様の恵みと力がこの親子に与えられたのです。今朝の聖書は、神様の恵みと力がこの親子に現されたその後で、さらに神様の力が示されたと言うことを報告しているのです。
 この女性の一人息子が死んでしまうのです。夫は既に何らかの状況の中でおりません。女性にとって、一人息子が頼りです。「あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と言わざるを得ませんでした。それほどの悲しみを持っているのです。エリヤは神様にお祈りしました。「主よ、わが神よ、この子の命をもとに返してください」と祈ったとき、子どもの命が帰りました。神様は苦しむ人、苦境に生きる人、悲しむ人を決して見過ごしにはいたしません。世の人々から忘れられている存在をしっかりと受け止め、導いてくださるのであります。

 旧約聖書のメッセージは、一人の存在を顧みてくださることであります。そしてそのメッセージを確実に示しているのが新約聖書の主イエス・キリストの救いなのであります。ルカによる福音書7章11節以下に「やもめの息子を生き返らせる」ことが記されています。イエス様はナインと言う町に行かれました。その町の門まで来ると、埋葬に行く行列に出会います。ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところであったのです。イエス様はこの母親を見て哀れに思い、「もう泣かなくてもよい」と言われたのであります。そして、近づいて棺に手をふれ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。すると、死んでいた若者は起き上がったのでありました。このイエス様の御業は、まさにサレプタの女性にしたエリヤの神の力であります。悲しみの傍らに立つイエスなのです。
 サレプタの女性は聖書の人ではなく、外国の人でありました。外国の人をも顧みてくださる神様が証されていたのであります。主イエス・キリストもカナンの女性を顧みています。カナンの女性の娘が悪霊に取り付かれて苦しんでいます。それで、このカナンの女性はイエス様に懇願するのです。イエス様はこのカナンの女性の信仰を祝福しました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われたとき、その娘の病気が癒されたと聖書は示しています。(マタイによる福音書15章21節以下)。
 このようにして主イエス・キリストは救いを人々に与えています。しかし、人々は真にイエス様に求めるのではなく、保証を求めているのであります。本日の聖書、マタイによる福音書12章38節以下は、人々がしるしを欲しがることが記されています。イエス様に「先生、しるしを見せてください」と言うのです。イエス様に感心を示しているようでありますが、それには「しるし」が必要なのであります。保証となるものがあれば、イエス様を信じると言うことであります。直接、主イエス・キリストを信じるのではなく、むしろしるし、保証を信じるという姿勢なのです。それに対して、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とイエス様は言われました。
旧約聖書におきまして、ヨナは神様のご命令を受け、ニネベの都に行かなければなりません。ニネベは悪徳に栄え、このままでは滅びるのであります。神様はヨナを預言者とし、悔い改めを導く使者としたのであります。ところがヨナは、この働きを不本意とし、ニネベ行きの船ではなく、別の方角に向かう船に乗ってしまうのでした。ところがヨナが乗っている船に大波が押し寄せ、今にも沈みそうになりました。船の人々は積荷を捨てたりして船が沈むのを防いでいるとき、ヨナは人々に言いました。これは神様の私への審判だから、私を海の中に放り投げなさいと言いました。人々は躊躇しますが、ヨナの言うとおりにします。すると大波は静まるのでした。ヨナは海に放り投げられると、大きな魚がヨナを一飲みにします。ヨナは三日間魚のお腹の中にいたのです。そして、神様のご使命に答えようと思ったとき、魚はヨナを吐き出しました。そこはニネベでありました。ヨナはニネベの人たちに神様の審判を宣告します。するとニネベの人たちは心から悔い改めたのであります。これが「ヨナのしるし」であります。主イエス・キリストはニネベの人たちが悔い改めたのに、人々が神様のお心に反する生き方をしており、救い主が現れたのに、そのメッセージを聞こうとしない人々を示しているのです。ヨナが三日間魚のお腹にいたこと、それは主イエス・キリストが墓に三日間いたことでもあります。それは、この後になりますが、復活の主イエス・キリストを信じない人々を示しているのです。
南の国の女王についても示されています。旧約聖書においてダビデの後を継いだソロモンは知恵のある存在でした。その知恵は神様のお心です。その知恵を求めて外国人の女王がやってきたのであります。ソロモンが神様の知恵に満たされていたとすれば、主イエス・キリストは神様の救いとして世に現れた方でありました。今や現実に救い主が現れているのに、しるしを求め、イエス様を信じることにおいて保証を求めている人々でありました。

 神様は一人の存在に新しい命を与えられています。主イエス・キリストは新しい命を与えるために現れたのであります。特に社会の中で弱き存在、小さき存在が新しい命を与えられ、力を与えられたのであります。今朝は「新しい命」として示されていますが、説教で示されることは、いずれも主イエス・キリストの十字架の贖いであります。毎週、いろいろな題を付けて聖書から示されていますが、示されることは一つであります。主イエス・キリストの十字架による救いをいただくことなのです。
以前のことですが、日本基督教団と台湾長老基督教会との宣教教議会が大阪で開催されました。両教会がそれぞれ祈りつつ宣教をしていくことが話し合われました。その中で、台湾の牧師がエピソードとして語られたことが心に残りました。一人の日本人がケンタッキー州で住むようになり、毎朝散歩をしていました。同じように散歩しているアメリカ人に「おはよう」と挨拶をしました。そのアメリカ人は「ケンタッキー」と答えたと言うのです。すぐ向こう側はオハイオ州であったので、オハイオ州のことを言っているのかと思い、ここはケンタッキーと教えたつもりであったのです。ところが毎日二人は散歩で会います。日本人は必ず「おはよう」と挨拶するので、アメリカ人は修正する意味で「ケンタッキー」と言っていました。アメリカ人は毎日「おはよう」という日本人に「ケンタッキー」と教えているのに、なぜ毎日言うのか、日本語が分かる友達に聞いたと言うのです。「おはよう」は朝の挨拶であることを知り、すっかりうれしくなり、翌日の朝に散歩に出かけ、やはり何時もの日本人に会いましたので、アメリカ人の方が先に「おはよう」と声をかけたのでした。そしたら、日本人は「ケンタッキー」と言ったというのです。この日本人は自分が「おはよう」と言えば、「ケンタッキー」というので、その言葉が挨拶の言葉と思っていたのです。ここでは、もはや「おはよう」も「ケンタッキー」も同じ意味になっていたのであります。
本日のコロサイの信徒への手紙3章11節、「もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」と示されています。主イエス・キリストの十字架の救いが全ての人々に与えられており、それぞれの姿において「新しい命」になっているのであります。本日も新しい命を与えられました。この30年間、KLJCFで共に礼拝をささげた人々は、一つの姿に導かれているのです。「おはよう」も「ケンタッキー」も同じ意味になったように、ここに集まる皆さんは「新しい命」を与えられている共通の人なのです。今週も新しい命を力強く歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架による新しい命に生きることができ、感謝いたします。この新しい命を多くの人々に証していくことが出来ますよう。主の御名によって。アーメン。