説教「光の中を歩きつつ」

2013年4月28日、クワラルンプール日本語キリスト者集会
「復活節第5主日

説教、「光の中を歩きつつ」、鈴木伸治牧師
聖書、サムエル記下1章17-27節
    ヨハネによる福音書14章1-7節
賛美、讃美歌54年版276「ひかりとやみとの」


 本日は28日であり、明日の29日は、日本においては「昭和の日」として祝日となっています。日本では昨日の27日からゴールデンウィークが始まったようです。4月29日は、もとは「昭和天皇の誕生日」であることから祝日でした。それが昭和天皇が死んでからは「みどりの日」と言うことになりました。そして、その後29日は「昭和の日」となり、「みどりの日」は5月4日になったのであります。ここで「昭和の日」の意義についてお話をしているのではなく、大塚平安教会に在任の頃、毎年4月29日に「教会学校生徒大会」を開催していましたので、説教の導入として触れておきたいからであります。
 昔はどこの教会も教会学校が盛んでした。昔はと言いますが、かなり昔のことです。教会学校で楽しく遊ぶことができますし、カードがもらえたり、その頃は素朴な楽しみが教会学校の喜びでした。その後、子供たちの行動範囲が広くなり、教会学校以上の魅力が社会に溢れるようになって行ったのです。大塚平安教会に在任していた頃、次第に減少していく教会学校の現実を踏まえ、地区の教会学校の子供たちが一年に一度、一堂に集まる「生徒大会」を開催しようと言うことになりました。それぞれの教会は少人数の教会学校でしたが、生徒大会として集まると100人以上にもなるのです。私が大塚平安教会を退任する年度に、会場が大塚平安教会になり、私にとりましても懐かしい思い出になっています。
 その時の主題は「共におられる神さま」(神さまのお心にしたがったモーセさん)であり、聖書は「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそわたしがあなたを遣わすしるしである」(出エジプト記3章12節)でありました。出エジプトの出来事をみんなで再現しつつ、モーセが神さまのお心に従って、奴隷の人々を救い出したように、私たちも共におられる神さまのお導きをいただき、どのような状況であろうとも力強く歩みましょう、との学びが与えられ、それぞれの取り組みを通して交わりが深められたのでありました。その時、私はモーセの役になり、皆さんから大笑いされながらモーセの役を演じたのでした。聖書の人々が奴隷の国エジプトから脱出して来ましたが、行くては海です。後ろからエジプトの軍隊が追ってきます。その時、モーセが祈りつつ海に杖を差し伸べると、海が二つに分かれるのです。その辺りを構成するのですが、エジプトを出てきた人々、つまり子ども達が、紙に画かれた海の前で行き詰ってしまうのです。その時、モーセが杖を差し出すと、紙の海が分かれて、その間を子ども達が通ると言うことでした。
聖書物語を実践的に体験することで、子供たちを励ましていたのです。子ども達が喜びつつ教会に集まること、教会学校の活性化は教会の活性化でもあります。子ども達が喜びつつ教会に集まる。教会の希望であります。子ども達が教会に集められ、いつも「光の中を歩きつつ」成長してほしいのです。それは子供たちと共に私達の歩みであります。私達も、いつも「光の中を歩む」人生でありたいのです。光の中をどのように生きるのか、それが本日の聖書の示しです。

 本日の旧約聖書ダビデがサウル王とその子どものヨナタンが死んだことで、彼らを悼む歌を詠み、歌の題を「弓」とし、人々に教えるように命じたのでありました。聖書の国は、もともと王様のいない12部族の宗教連合体でありました。聖書の最初の人はアブラハム、そしてイサク、ヤコブと族長が引き継がれていきます。ヤコブには12人の子どもが与えられ、そのまま12の部族に成長しました。その中で誰かが王様になって民族を統一することはなかったのです。中心は神様であったからです。しかし、12の部族がそれぞれの地域に生きるとき、周辺の国々からの侵略があり、戦いを余儀なくさせられます。サムエル記の前に士師記がおかれていますが、一時的に士師といわれる、神様から立てられたつわものが現れて、地域的に苦しんでいる人々を救いました。サムソン、ギデオンという人々です。そういう情況ですから、聖書の人々は王様を立てることを要望し、そこで誕生したのが初代のサウル王でありました。神様のお心にあるサウルでしたが、彼は次第に神様のお心から離れ、自らの思いで支配するようになるのです。それで神様はサウルを見放し、次なる王としてダビデを選任しました。しかし、サウルは厳然として王様であります。ダビデはサウルの家来として働くようになります。ところがダビデが戦いにおいて功績を立てますので、人々はダビデを高く評価するようになりました。むしろ、サウル王を超えてダビデが人々から賞賛されるようになりました。面白くないのはサウル王です。そして、ついにダビデを排除し、殺すことまで考えるようになりました。ダビデはサウル王から逃れて、あちらこちら逃げまどいます。サウルはダビデに追手を差し向けていますが、戦争の最中でもありました。そのサウルが戦いの最中に死んでいくのであります。サウルの子どもがヨナタンでありますが、ダビデヨナタンとは親友の間柄になります。父のサウルがダビデをねらっていることをダビデに告げるのはヨナタンでありました。そのヨナタンも戦いで死んでしまうのです。
 本日の聖書はダビデがサウルとヨナタンの死を悼み、歌を詠んでいるのであります。しかし、不思議なことは、ダビデにとって、自分の命をねらっていたサウル王の死をどうして悼むのかということです。23節、24節「サウルとヨナタン、愛され喜ばれた二人。鷲よりも速く、獅子よりも雄々しかった。命ある時も死に臨んでも、二人が離れることはなかった。泣け、イスラエルの娘らよ、サウルのために。紅の衣をお前たちに着せ、お前たちの衣の上に金の飾りをおいたサウルのために」。確かに自分の命をねらったサウルでありましたが、サウルは神様から選ばれた人でありました。ダビデにとってそれは重要なことでありました。ダビデにとって、命がねらわれる苦しい状況でありましたが、神様の導きを真実受け止めていたのであります。自分が神様に選ばれたとするなら、このサウルもまた神様に選ばれているのです。他の存在を受け止めて生きること、それはまず神様が十戒をもって教えたことでありました。ダビデが「弓」の歌を詠み、人々に教えるように命じたのは、国のために生きたサウルとヨナタンを悼んでいるのであります。自分とは異なった姿で神様のお心をいただき、生きた二人であったからなのです。自分が神様に選ばれ、導かれているように、この人も神様に選らばれ、導かれているのです。その存在を尊重して、たとえば自分にとっては面白くないとしても、光の中を歩いているのです。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」と主イエス・キリストは示しています。ヨハネによる福音書14章からはイエス様の弟子達への決別説教であります。この後、主イエス・キリストは十字架の道を歩まれます。お弟子さん達と分かれなければなりません。そういう意味で「心を騒がせるな」とお弟子さん達を励ましているのですが、この言葉はヨハネによる福音書が書かれる状況が反映しているのです。イエス様の十字架の死、埋葬、復活、聖霊降臨、これらの導きをいただきながらお弟子さん達は福音を宣べ伝えて行きました。ヨハネによる福音書が書かれたときは、だいたい紀元100年頃であります。その頃、主イエス・キリストを信じる人々が次第に増えてきていますが、それと共に迫害も増えておりました。特にユダヤ教の迫害は、会堂追放という生活に関わることでもありました。ユダヤ人は会堂を中心に生活しています。エルサレムの神殿に行かなくても、それぞれ町には会堂があり、聖書の示しを与えられているのです。会堂追放は出入を禁止することですが、会堂追放を受けた人に対しては交際をしてはいけないことになります。物の売り買いが出来ません。すなわち生活ができなくなってしまうのです。日本では村八分という処置がありますが、同じような断罪でもあります。
 このヨハネによる福音書9章には「生まれつきの盲人をいやす」イエス様について記されています。生まれつき目の見えない青年が、イエス様によって見えるようになりました。すると、人々は不思議でならないのです。「あなたの目はどうして見えるようになったのか」と人々が聞きますので、青年は「イエスと言う方が、治してくれました」と答えるのですが、人々は納得しないのです。それで青年の両親を呼んで、「あなたがたの息子はどうして見えるようになったのか」と聞きます。そこで両親は、「私達には分かりません。本人にお聞きください。本人はもう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と答えるのです。両親は息子が誰にもよって治してもらったかを知っています。しかし、真実を言うことを恐れたのです。「ユダヤ人達は既に、イエスをメシアであると公に言い現す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」と聖書は記しています。
 そのような迫害の中でヨハネによる福音書は書かれています。そのような苦しみの人々に「心を騒がせるな」と励ましているのです。そのような迫害に生きたとき、「父の家には住む所がたくさんある」と示し、神様の祝福が与えられることを教えています。神様を信じ、主イエス・キリストを信じて生きる人生は、例え迫害の中に生きようとも祝福であることを教えているのです。このことはダビデにおいても示されたことであります。苦しい状況を日々生きたとき、祝福へと導かれていたことをダビデは証しているのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」と主イエス・キリストは宣言しています。
 イエス様が十字架によりご自分の命を捨てられたので、私達がイエス様の命をいただき、永遠の命へと導かれているのであります。イエス様はヨハネによる福音書11章25節で、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と示されました。ここでも「命である」と示しています。「命であると」ということは「死んでも生きる」、「信じる者は死ぬことはない」とも教えられています。私達の信仰の人生を示しているのであります。イエス様の教えは神様の国に生きることであります。この現実はいかなるものでありましょうとも、苦しい状況かもしれませんし、悲しい現実なのかもしれません。しかし、イエス様を信じるとき、すでに神の国に生かされているのであります。神様の国は死んで行くところではありません。今の現実の生活において、ここが神の国であることを信じて生きることなのであります。「わたしは道であり、真理であり、命である」とイエス様は示されています。
ここでキリスト教の死生観ということを示されておきましょう。このお話は4月16日の婦人会の折、牧師のメッセージがありましたので、お話させていただいております。私達、生きる者は必ず死んでいきます。人生、今は100年生きることが普通になって来ていますが、しかし若くして「神の国」に導かれる方もあるのです。「神の国」と申しあげましたが、「神の国」は死んでから行くと考えるのはなく、今が「神の国」に生きていると示されているのが、私達キリスト者であるのです。主イエス・キリストは世の人々に現れたとき、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。つまり、「神の国」は彼方の世界ではなく、今、この現実が神の国なのですよと示されたのです。その教えが、「あなたがたは自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という教えなのです。隣人と共に生きる、隣人を受け止めて生きる、隣人を積極的に見つめて生きる、そこはまさに神の国なのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」ということです。ですから、現実の「神の国」と死んで彼方の国である「神の国」は一つの文章で続いているのです。仏教の場合、お葬式は人生のお終いとして、文章にたとえれば区点「。」を付けるのです。そして、次の文章である彼方の世界へ、杖を持たせ、草鞋を添えて弔うのです。しかし、キリスト教の葬儀は区点「。」ではなく、読点「、」なのです。まだ文章が続いているのですよ、ということになります。それはこの世の人生も、あの世の人生も同じであると言うことだからです。この世に生きながら、あの世に生きていると同じなのですから、あの世について心配する必要はないのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」イエス様の御心に従って生きると言うことなのです。

前任の教会で、2010の3月7日の礼拝で受洗された方がおられます。その3月末には退任する私なので、駆け込み受洗みたいですねと言われました。しかし、その方は神様が自分のこれまでの生き方の中に、いろいろな導きを与えておられたことを、ようやく知るようになったのであります。ご自分が生まれた時、母親の切なる祈りがあったことを後に示されます。その母の願いで教会学校に通ったことも後で知るようになるのです。そして、婦人の友社の「友の会」に入るようになりました。友の会は羽仁もと子さんが提唱して作られた会であります。会合の時には讃美歌を歌い、聖書が読まれていたということです。そういう中で、もっといろいろな讃美歌を歌ってみたいとの思いから、教会の礼拝に出席するようになりました。教会の皆さんとお交わりを深めながら歩むようになりました。私は何度か受洗することをお勧めしましたが、決心には至りませんでした。私が退任することになり、一度先生に自分の人生をお話したいということで面接に来られました。今日までの姉妹の歩まれた人生をお聞きし、「神様が長い間、お導きを与えてくださっていたんですね」、と申し上げました。すると混乱した糸がほぐれるように、姉妹は、お母さんのお祈り、教会学校に通わされたこと、婦人の友社の「友の会」のこと等、すべては神様のお導きであったことを受けとめられたのであります。自分が切り開いてきた人生ではないと知るに至ったのであります。イエス様の十字架の救いをご自分の救いとして信じたのであります。この姉妹にとって、今日までの歩みを顧みることは信仰告白であります。神様が忍耐を持って導いてくださったことを告白するようになったのであります。自分がキリスト教におりにふれて関わって来たとの思いから、神様がお導き下さってキリスト教に関わらせてくださったのである、と視点が変えられたのです。そうすると今迄の歩みがすべて神様のお導きであると示されたのであります。
「わたしは道であり、真理であり、命である」とのイエス様の御心に従って生きる者へと導かれたのであります。本日は「光の中を歩きつつ」、読点の人生を歩み、永遠の生命、永遠の神の国へと導かれていく喜びを示されたのであります。

<祈祷>
聖なる御神様。私たちにイエス様の道を示し、人生の真理をお与えくださり、永遠の命に至る導きをくださいましてありがとうございます。いよいよ導きを与えられ、光の中を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によりおささげ致します。アーメン。