説教「主に従う道」

2011年3月27日、六浦谷間の集会 
「受難節第3主日

説教・「主に従う道」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書63章7-14節、テモテへの手紙<二>2章8-13節
ルカによる福音書9章18-27節
賛美・(説教前)讃美歌21・280「馬槽のなかに」、(説教後)507「主に従うことは」


 受難節第三主日になりました。後三週間で受難週となり、主のご復活となります。今は主のご受難が私の救いのためであることをしっかり受け止めつつ歩みたいのであります。
 東北関東大震災により、被災者の皆さんは、まさに苦難の生活をされています。全国の皆さんが救済に立ちあがっていますが、まだまだ救済が行き届いていません。そして、被災を直接受けない私たちも、生活の混乱がありますが、被災者の皆さんを覚えて、困難な状況を受け止めつつ歩んでいるのであります。時はまさに受難節であります。自然災害でありますが、この困難、十字架を仰ぎ見つつ歩むのであります。昔は受難節となると克己の生活が奨励されました。昔はと言いますが、今でも克己の生活は必要なことでもあり、実践されておられる方もいます。「克己」の「克」は「力を尽くして相手に打ち勝つ」という意味です。この場合、相手は「己」でありまして、自分に打ち勝つのであります。自分は、いつも自己満足に生きています。自分の思いのままに歩んでいるのです。そういう自分を第三者的に見つめることが大切であります。自分の欲望の奴隷にならないことであります。自分の思いではなく、主イエス・キリストの御心により歩むことなのであります。
 私たちが主イエス・キリストを信じて歩むこと、それは私たちもイエス様の歩みに倣いつつ歩むことなのです。それは受難節に限りません。常にイエス様に倣いつつ歩むことで祝福があるのです。私の青年の頃、「キリストに倣いて」(イミタチオ・クリスチ)という本を愛読しました。この本は1953年(昭和33年)に角川書店から発行されています。聖書に次ぐ宗教的古典として世界の人々に愛読されている本であります。日本においてもキリシタン時代から訳されていたとも言われています。青年の頃に読んだとき、強烈な示しを与えられたのでした。修道院に入ったような思いで読んだことが思い出されます。信仰に生きるには、常にイエス・キリストに倣うことが教えられているのです。いくつかを紹介しておきましょう。第一章は「キリストに倣って、この世のあらゆるむなしいものをさげすむべきこと」であります。1.「わたしに従ってくる者は、やみのうちを歩くことがない(ヨハネ福音書8章12節)」と、主は言われる。2.このみ言葉は、もしわれわれが自分の無知から啓蒙され解放されたいと願うならば、キリストとその生き方とに倣わねばならぬ、と勧められているのである。3.だから、われわれの主要な努力と無常の関心とは、キリストの御生活に照らして自分を訓練することでなければならぬ。
 最初の部分だけの紹介ですが、「キリストに倣いて」(イミタチオ・クリスチ)を読むとき、限りなく自分を捨てることであり、主に従うことが示されるのであります。しかし、イミタチオ・クリスチであるとき、最終的には自分の成果であるように思うのは間違いであります。イミタチオ・クリスチをしたから、信仰が導かれているのだと自分の成果にしてしまうことであります。そうではありません。神様が苦しい私達を導いてくださっていることを知らなければなりません。主の十字架が私をイミタチオ・クリスチへと導いてくださるということなのであります。

 旧約聖書イザヤ書63章7節以下から示されています。まさに、ここには神様の「執り成し」があり、だから人々が祝福を与えられることを示しているのであります。聖書の人々はバビロンに滅ぼされ、多くの人々が捕われの身となり、バビロンの空の下で苦しみつつ過ごしました。そのような中で預言者達の希望の言葉に励まされていたのであります。約50年間の苦しみでしたが、ついに解放されました。人々は喜びいさんでユダの国に帰り、都エルサレムを中心に生活を始めたのであります。破壊された神殿の修築もなかなかはかどりませんでした。それでも、ようやく神殿を再建しましたが、人々の生活は困難極まりないのであります。喜びと希望をもって帰って来た現実は、相変わらず苦しみの現実であったのです。希望を無くしている人々に慰めを与え、希望を与えているのが今朝の聖書であります。
 「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄光を、主がわたしたちに賜ったすべてのことを、主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを」とイザヤは示しています。歴史を顧みるならば、苦しみの中にも神様が厳然と導いておられるということであります。エジプトの400年間の奴隷生活があります。しかし、神様はモーセを指導者にして奴隷から解放してくださったのであります。その後、40年間の荒れ野の旅がありますが、この旅を導き、ついに約束の土地カナンに入ることができたのであります。そして、再び捕われの身となりました。苦しみはいつまでも続きません。解放されて都エルサレムに帰ることができました。その後、困難な生活でありますが、歴史を導く神様の憐れみと慈しみを、心に深く刻みなさいと示しているのであります。そして、神様が常に救い主であることを示しています。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった」神様であります。神様の憐れみと慈しみを忘れてはなりませんということです。「しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」としています。神様の憐れみと慈しみを忘れたことで、「主の聖なる霊」を苦しめたと言っています。これはルアッハを苦しめるということです。ルアッハとは、創世記に示されますように、人間が粘土で形造られますが、神様の息、ルアッハをいただくことで人間は生きた者になったのであります。本来、人間の基本的な生きた者としての姿、すなわちルアッハを与えられている者として歩みがありますが、自己満足に生きる姿勢がルアッハを排除していることになるのであります。そして、現実に目を向けるとき、困難な状況しか見えないのであります。それは何故か。神様の憐れみと慈しみを忘れ去ったからであります。従って、困難と見える現実は自らの責任なのであります。
 そこで、昔の幸せを思い起こします。モーセに導かれた時代のことを、人々を憩いの場へと導いた昔の日々を思い起こすのであります。しかし、神様の憐れみと慈しみは、現実においても与えられているのであり、人々のかたくなな姿が、それを見えなくしているのです。憐れみと慈しみの神様は現実においても、あなたを導いておられるとイザヤは示しています。だから、現実が困難であると嘆いてはならないということであります。この困難な状況にこそ、憐れみと慈しみの神様は共におられると示しているのであります。

 「だから、自分の十字架を背負って、主に従いなさい」と新約聖書は示しています。ルカによる福音書9章18節以下が今朝の聖書になっています。主イエス・キリストはひとりでお祈りしていました。お弟子さんたちも共におられました。そこで、イエス様はお弟子さん達にお尋ねになられます。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」ということです。今朝の前の部分には、イエス様が五つのパンで五千人を養った奇跡が記されています。イエス様が人々にお話をされているとき、もう夕刻になったので、群衆を解散させ、それぞれ食事を取らせましょうとお弟子さん達が提案しました。それに対してイエス様は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」といわれるのです。お弟子さん達は、持っているのは二匹の魚とパン五つしかありませんので、どうすることもできないと思いました。しかし、イエス様はパンが五つもあるとして、それを祝福し、五千人の人々のお腹を満たしたのでした。そのパンの奇跡を体験した人々の感想を記してはいませんでした。今、イエス様が「群衆は私のことを何者だと言っているか」とお弟子さん達に尋ねたとき、これまでにイエス様は病人を癒し、パンの奇跡を行い、神の国に生きる教えを与えてきているのです。当然、人々のイエス様に対する思いがあるはずです。
 イエス様の問いに対して、お弟子さん達は答えています。「洗礼者ヨハネだと言っています。ほかに、エリアだという人も、だれか昔の預言者が生き返ったのだと言う人もいます」と人々の見方を言いました。それを聞いたイエス様は、「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。お弟子さんの中でも中心的なペトロさんが、「神からのメシアです」と答えたのであります。メシア、救い主と答えました。群衆の見方は洗礼者ヨハネ、昔の預言者のような人であると言うことです。群衆の見方にはメシアはありませんでした。人々はメシアの到来を待望しているはずです。聖書の人々は、歴史を通して困難な状況を歩んでまいりました。そういう中でメシア待望が生まれたのです。イエス様が現れた時代もメシア待望が人々の中にありました。しかし、イエス様が神の国の福音、病人の癒し、パンの奇跡を示したとしても、人々はイエス様をメシアとは信じなかったのでありました。人々にとって、メシアとは王様のような権力、権威ある存在であったのです。
 この時点ではお弟子さん達だけがイエス様をメシア、救い主と信じていました。そこでイエス様はメシアに従う者としての生き方をお示しになられたのであります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」との教えであり。イエス様をメシアと信じるなら、自分の思いのままに生きるのではなく、救い主が示す道を歩むと言うことです。自分を捨てるというは自己満足を捨てるということです。まだ、この時点ではイエス様は十字架にお架りになっていませんのに、イエス様は「自分の十字架」と言っているのです。自分の思いではなく、イエス様の御心に生きるとき、それは自分との戦いになるのですが、その戦いが十字架を負うということなのであります。まさに克己の歩みとなると言うことであります。主イエス・キリストは、荒れ野の40日間、悪魔と戦いました。それはイエス様が自分との戦いに勝ったことです。そして、その後も汚れた霊、悪霊と戦いながら、人々に神の国の福音を示されているのであります。イエス様はお弟子さん達に自分の十字架を負いつつ生きることを示していますが、イエス様ご自身が既に十字架への道を歩まれているのであります。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と示されているのであります。お弟子さん達は、イエス様を「神からのメシア」であると告白しました。そのメシアは苦難を受けると示しているのであります。そして、苦難のメシアを信じるのであれば、自分の十字架を負うことになるということです。主イエス・キリストがこの私のために十字架にお架りになるのですから、私は自己満足を放棄してイエス様の御心の道を歩まなければならないのであります。

 「主に従う道」をイエス様は教えておられるのです。「あなたがたは自分を愛するように隣人を愛しなさい」との教えこそ、自分の十字架を負って生きる道なのであります。主に従う道を実践しつつ歩んでいる私達でありますが、主に従う道を力強く示した人がいます。マーチン・ルーサー・キング牧師です。「私には夢がある」という説教を紹介します。

友よ、私は今日皆さんに申し上げたい。今日も明日もいろいろな困難や挫折に 直面しているがそれでもなお私には夢がある。それはアメリカの夢に深く根ざした夢なのである。いつの日か この国が 立ち上がり、わが国の 信条の次の言葉の真の意味を貫くようになるだろう。『私たちはこれらの真理を自明のことと考える。すなわち、全ての人間は平等に造られている』。いつの日か ジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷主の子孫たちとが 共に兄弟愛のテーブルに着くことができるようになるだろう。いつの日か私の幼い四人の子どもたちが、彼らの肌の色によって評価されるのではなく、彼らの人格の深さによって評価される国に住めるようになることであろう。いつの日か 「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、 肉なる者は共に見る」(イザヤ書40:4-5) 。これが私たちの希望なのである。こういう信仰を持って、私は南部に帰る。こういう信仰があれば、私たちは絶望の山から希望の石を切り出すことが出来る。こういう信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに 変えることが出来る。こういう信仰があれば、私たちは共に働くことができる。共に祈ることができる。 共に闘うことができる。共に監獄へ行くことができる。共に自由のために立ち上がることができる。いつかは自由になると信じることができるのだ。その日こそ、 神のすべての子どもたちが、あの歌を新しい意味を込めて歌うことができる日となるであろう。わが国、それは汝のもの、麗しき 自由の国。われは汝を讃える。わが父祖たちの死せる国、 巡礼父祖の誇れる国、すべての山腹から自由の鐘を鳴り響かせよ。もしアメリカが偉大な国になるべきなのであれば、このことが実現しなければならない。 だから、自由の鐘を鳴らそう ニュー・ハンプシャーの大きな丘の上から、ニューヨークのそびえ立つ山々から。

 黒人差別と戦ったキング牧師は、主に従う道を実践しつつ、人々に叫んだのであります。主イエス・キリストが十字架にお架りになって人間をお救いになったのは、一部の人ではなく、すべての人の救いであったからです。主に従う道を、愛を実践しつつ歩みましょう。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様により救いが与えられ感謝致します。主に従う道を力強く歩むことができますようお導きください。主イエス・キリストによりささげます。アーメン。