説教「悪と戦うキリスト」

2011年3月20日、六浦谷間の集会 
「受難節第2主日

説教・「悪と戦うキリスト」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記6章11-22節、ヨハネの手紙<一>4章1-6節
ルカによる福音書11章14-26節
賛美・(説教前)讃美歌21・457「神はわが力」、(説教後)539「見よ、闇の力」


 東北関東大震災が発生し、多くの人命が奪われ、まだ多くの行方不明者がいます。死者は2万人を超えるのではないかと推測されています。悲しいことです。日本中が救済に立ちあがっており、ボランティアも活動できるようになりつつあります。こうした中で、各国は救援に協力してくれていますが、各国が驚いていることがあります。このような状況になると略奪や盗みが多くなるのに、それが見られず、被災者は整然と救済を待ちうけているということで、驚き、模範としなければならないと評価しています。以前にもニュースで見ましたが、外国の災害地で支援物資が到着すると、被災者が殺到し、奪い合う状況が報じられていました。日本にはそれが無く、救済を待ちうけている人々が、互いに支え合っていることは模範にしなければならないとの感想が報じられていました。日本人の民族性と言っても、それは何であるかは言えません。法治国家であることなど指摘する人もいるでしょうが、日本人には基本的に助け合いの姿勢があるようです。しかし、防災倉庫からガソリンや諸物資が盗まれたとの報道もあり、諸外国の模範とは言えないのです。被災地ではない所で生活の混乱があるのは、買占め等があるわけで、助け合いの精神がどこまで浸透しているのか、考えさせられることでもあります。
 前週の礼拝説教は、「荒れ野の誘惑」であり、主イエス・キリストが荒れ野で悪魔と戦うことが示されました。荒れ野はこの社会であります。イエス様に悪魔が誘惑したのは、食生活であり、保障であり、信仰でありました。空腹であるイエス様に食べることを誘惑しますが、イエス様は「まず神様の御心を食べる」と答えたのでした。さらに、イエス様はこれから社会に出て行くにあたり、保障の問題があります。しかし、それには人間関係に従属していかなければならないのです。それは悪魔に従うことでもあります。だからイエス様は、「神さまのみに仕える」と示したのでした。そして、信仰の誘惑です。たとえ、どのような状況になろうとも、困難な状況になろうとも神様を信じて生きることが大切なのです。このように、私達は既にイエス様の荒れ野に生きる勝利を示されています。主イエス・キリストはこの荒れ野の社会の勝利者です。イエス様を仰ぎ見つつ歩むことが私達の勝利なのであります。
 悪と戦うイエス様を今朝は示していますが、悪とは何かということです。明らかに悪者と言われる存在がありますが、もちろんそれとの戦いがありますが、一番の悪は私の中にある自己満足であり、他者排除でもあるのです。荒れ野の誘惑に登場する悪魔は、イエス様の内面的な姿でもありました。内面の闘いに勝利したということです。人間としてこの世に現れたイエス様は、人間的な姿を当然持っていました。だから、荒れ野の誘惑がありました。内面的な自己満足をすべて克服し、自分に勝利したイエス様でもあるのです。今朝はさらに悪と戦う主イエス・キリストを示されるのであります。

 旧約聖書は創世記6章に示されるノアの洪水物語です。今朝の聖書は6章11節からであり、ノアが神様に命じられて箱舟を作ることが記されています。箱舟を作ることを神様はノアに命じましたが、それは悪を滅ぼすためでした。6章の最初に意味深く示しています。「さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」と記しています。このあたりは神話の世界でありますから、あまり事実性として捉える必要はありません。その時に言われた神様の言葉です。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」と述べられた結果、人の人生は120年となったというのです。今朝の6章の前の5章には、人間が900歳、800歳まで生きたことを示しています。しかし、6章には120歳と定められました。つまり人間が罪に生きることにより寿命が短くなったことを示しているのです。人間が造られたとき、神様は粘土で人の形を作り、その鼻に神の息、霊を入れました。すると人間は生きたものとなったのです。今6章では、「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」と神様が言っておられるのです。すなわち、神様の霊をいただいているにも関わらず、人間は自己満足が優先されているのです。そして、神様はこの世を見るとき、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」人間を認めるのです。そこで神様は、「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われているのです。神様の霊をいただいて造られた人間でありますが、肉なる人間は最初から自己満足を持つ者として示しているのが聖書です。創世記3章には堕罪が記されています。アダムさんとエバさんは、神様から戒められていた禁断の木の実を食べてしまいます。それは「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」のであります。自分の欲望を満足するためには、たとえ戒められていても自分の満足を優先するのであります。
 そこで今朝の聖書は、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地をご覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」と示しています。神様は、この地を滅ぼすために、ノアと家族だけを残すことにし、ノアに生き延びるための箱舟を作らせるのであります。神様はノアに、「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい」と命じました。この後、神様は箱舟の具体的な作り方を示しています。箱舟の長さは300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマとしています。1アンマは人間の手の肘から中指の先までで、およそ45センチメートルです。従って、長さは135メートル、幅22メートル、高さ13メートルになります。やはり大きな船になります。そして、この船ができたとき、神様はすべての動物の雄と雌を入れさせ、そしてノアの家族も皆箱舟に入らせ、扉を閉めさせます。すると雨が降り始め、40日間降り続いたのであります。地上はすべて水となり、生き物はすべて絶えるのであります。こうしてノアは神様の導きにより生きる者となったのでありました。箱舟は救いのシンボルとなりましたが、モーセが生まれたときも、箱舟により救われる者になったのです。悪を滅ぼし、正しい人間を救うことを旧約聖書は示しています。神様の御心に従うものが正しい者とされ、救いへと導かれるのであります。

 主イエス・キリストは悪なる存在と常に戦っています。先ほども示されましたように、世に現れる前から悪と戦っていました。そして、神様の御心を人々に示す時にも、イエス様の前に立ちはだかる存在と常に戦っていました。今朝はルカによる福音書11章14節からです。「ベルゼベル論争」との標題になっています。ベルゼブルとは悪霊の頭だとされています。イエス様が人々に神の国の教えを与え、悪霊につかれた人を癒していました。ここに口の利けない人がいました。悪霊にとりつかれていたからだとしています、イエス様はその人の悪霊を追い出しました。するとその人はものを言うようになったのです。このことで人々は驚き、どうしてそんなことができるのかと不思議に思うのです。中にはイエス様が悪霊を追い出したのはベルゼブルの力によるものだというのです。それに対してイエス様は、悪霊が悪霊を追い出すのは内輪もめだと答えています。悪霊を追い出すのは神様の力だとしています。20節の言葉がこの聖書の中心になります。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ている」のであります。口の利けない人、目の見えない人、病気の癒しは、神の国の到来を示しているのであります。口の利けない人を癒すことは医者ならできるでしょう。しかし、今、イエス様が神様の指の業として癒す時、そこに神の国の到来があるのです。イエス様の癒しについては、以前にも示されました。癒されることは神の国に生きる者へと導かれるということなのです。神様の指の業をいただくことです。そこに神の国に生きる喜びと希望があるのです。23節に、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」と言われています。「集める」と言うことは、イエス様が神の国に生きるために人々を集めていることなのです。羊飼いが羊を集めるように、イエス様は神の国に人々を集めているのです。そして神様の指の業で汚れた霊を追い出し、神の国に生きる者へと導いておられるのです。
 24節からも汚れた霊についての示しです。汚れた霊は追い出されて、砂漠をうろつきます。しかし、休む場所がないのです。砂漠ですから人がいないのです。人の中に入ることはできないのです。休む場所がないので、今まで入っていた人の所に戻るのです。すると、「家は掃除をして、整えられていた」と言います。そこで、汚れた霊は自分よりもっと悪い七つの霊を連れてきてそこに住みつくというのであります。面白いたとえであると思います。つまり、汚れた霊を追い出された人は、すっかり喜んで、これからは真面目に正しく生きようと思っています。そういう姿が「家の中を掃除する」ことなのです。しかし、掃除するだけではだめなのです。掃除したら、そこにしっかりと土台を据えなければならないのです。イエス様が神様の指の業によって汚れた霊を追い出して、神の国を与えてくださったのですから、神様の御心が満たされ、神の国に生きる喜びを持たなければならないのです。それが無いから、再び汚れた霊が戻ってきますし、もっと悪い七つの悪霊が住み着くことを示しているのです。
 私達はイエス様によって神様の指の業により、汚れた霊を追いだされました。だから神の国に生きる者として、常に御心をいただく者でなければならないのです。コリントの信徒への手紙<一>3章16節に、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分達の内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」と示されています。私達が神殿であるとき、神殿には神様の霊が置かれるということです。神様の霊が置かれている者として生きるとき、砂漠をさまよっている汚れた霊は戻ってこないのです。神様の神殿がある以上、入る余地がないということです。
 以上、ルカによる福音書において、イエス様の悪霊との戦いを示され、私達の戦い方を示されました。悪霊が付け入るすきを与えてはいけません。神殿であるという姿勢を持ち続けることであります。

 ダルクという組織があります。ダルクは薬物問題に苦しむ方の回復を支援しております。家族、知人がこのダルクに相談しています。薬物依存症者に共同生活の場を提供し、薬物を使わない生き方のプログラムを実践することによって、薬物依存からの回復を支援しているのです。回復していくための場、時間、回復者モデルを提供し、プログラムによって新しい生き方の方向付けをし、各地の自助グループにつなげていくということです。教誨師をしている頃、ある研修会でダルクの研修をしました。薬物依存症であった人が、このダルクによって救われ、薬物依存症の皆さんに救われた体験談をお話しているのですが、教誨師にも話をしてくれたのです。その人は、親がお医者さんでしたが、自分はどうしても医者にはなりたくなかったのです。だいたい個人の医院は世襲が多く、親が医者なら子供も医者にするという習わしであることが多いようです。親の希望に反するあまり薬物に依存します。どうしても抜けきれなくなるのです。ダルクは宿泊して癒しを行います。まず、徹底的に話し合うということです。グループミーティングを重ねます。ダルクで行われているミーティングとは、基本的に「言いっぱなし」の「聴きっぱなし」のスタイルで行い、非難や批判をされることなく、お互いの経験を分かち合う場であるということです。また、その場で話されたことは、他の場所で話題にすることはお互いにせず、個人の秘密は守られるということです。朝1時間、午後1時間30分、夜1時間30分のミーティングを行っては、薬物依存から離れる努力をしているのです。刑務所で講師としてお話された人は、自分と同じように薬物依存症になっている人を助けたいと力強く話されていました。山梨県にもダルクがあり、知人の牧師達も応援しています。
 ダルクで癒された人達は、もう大丈夫と思っても、そこに新しい土台を据えないと再び依存症が始まるのです。神の国の希望と言う土台が据えられることにより、再び依存はなくなるのです。しかし、これが他の何かの場合、例えば趣味とか、仕事とかの生きがいであった場合、そういうものはつまずくことがあるのです。人間関係の行き詰まりがあり、それを解消するために、また薬物に手を出すこともあるのです。麻薬で刑務所に入り、もう絶対薬には手を出さないと決心しつつ出所しても、また麻薬でつかまり、再び刑務所生活をしていると受刑者から聞いています。土台が無いからです。砂漠から汚れた霊が帰ってきてしまうのです。信仰による人生には土台があります。神様の神殿が据えられているのです。
イエス・キリストの十字架の贖いが神殿を支えてくださるのであります。主イエス・キリストが悪と戦い、汚れた霊を追い出してくださるのです。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様により神の国をいただきました。感謝致します。この喜びの福音を多くの人に証しすることができますよう。キリストの御名によりささげます。