説教「ひかり輝く存在」

2011年4月3日、横須賀上町教会 
「受難節第4主日

説教・「ひかり輝く存在」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記34章29〜35節
   ルカによる福音書9章28〜36節
賛美・(説教前)讃美歌21・298「ああ主は誰がため」、(説教後)474「わが身の望みは」


 前回、一ヶ月前の3月6日にこの講壇に立たせていただきました。「奇跡を行うキリスト」と題しての説教でした。奇跡は不思議なことを見るのではなく、私達の生活における恵みを確認することであることを示されたのであります。「数えて見よ主の恵み、数えて見よ主の恵み」との讃美歌がありますが、私達は神様の恵みに満たされているのであり、それが奇跡であると示されたのでありました。ところで、その週の3月11日に東北関東大震災が起き、今、被災された人々をはじめとして、日本中の人々が苦難に直面しています。自然災害の恐ろしさをつくづく示されているのであります。そして、原発事故はむしろ人的災害であり、深刻な状況に陥っていることに日本中が憂慮しているのであります。この災害から一刻も早く立ち直ることをお祈りしています。
 災害地でも福島県相双地区には、何回か訪れています。この相双地区には浪江伝道所があり、以前大塚平安教会出身の牧師が就任していました。建物が古くなり、十字架塔も錆びが出てきているというので、大塚平安教会の有志がワークキャラバンとして訪問したのでした。浪江伝道所は教会員も少なく、若い人がほとんどいません。就任した牧師も結構の年齢なので、あまり力仕事はできないということでした。草むしり、ペンキ塗り等をしたのであります。それが1989年でした。翌年には、大塚平安教会には音楽家が何人かいましたので、聖歌とお話の集いとして、相双地区を訪問し、鹿島栄光教会、中村教会、小高伝道所、原町教会等を訪問し、聖歌を中心とした伝道集会を開催したのであります。その時、比較的近くにある福島原子力発電所を横眼で見ながら移動したことが思い出されます。その相双地区に地震と共に大津波が襲い、多くの被害を与えたのであります。浪江伝道所のほかは、状況が分かっているのですが、浪江伝道所は連絡がつかず、どのようになっているのか不明であります。おそらく大津波によって流されてしまったのかもしれません。現地には行くことができないので、東北教区をはじめとして日本基督教団は案じているのであります。今、日本中が救援に立ちあがっていますが、日本基督教団も社会委員会を通じて募金を開始しています。このとき私達は「主よ、奇跡を起こしたまえ」と祈りつつ、導きと恵みの確認をしつつ被災者を救済したいのであります。
 今朝は2011年度の最初の礼拝であります。2010年度は前週で終わりましたが、横須賀上町教会にありましては牧師の異動があり、今は代務者を置いての歩みでありますが、主のお導きは確実に働いているのであり、この困難な状況にありましても、この地に建てられている教会として、主のご栄光を現して歩んでいるのであります。神様は必ず新しい歩みをお導きくださいますから、神様のお導きに委ねたいのであります。
 4月となり、新しい歩み出しであります。めぐみ幼稚園を卒園した子供たちも小学校1年生として新しい歩みを始めるのであります。私達も新しい思いをもって歩み出します。今朝は「ひかり輝く存在」、すなわち主イエス・キリストのご栄光の姿を示されるのでありますが、私達も主のご栄光の姿に導かれるのであります。

 光輝く存在を旧約聖書は示しています。今朝の旧約聖書出エジプト記34章29節以下でありますが、「モーセの顔の光」との標題で示されています。エジプトの奴隷であった聖書の人々は、神様がお立てになったモーセによってエジプトを脱出しました。奴隷から解放されたのであります。その時、壮年男子は60万人でありました。女性や子供たちを数えれば100万人を超える人々がエジプトから出て行ったのでありました。もともと聖書の人々がエジプトに住むようになったのは、ヤコブの時代であります。11番目の子供ヨセフが、神様の不思議な導きでエジプトの大臣になっていたのであります。全国的に冷害となり、エジプトの大臣であったヨセフは、ヤコブと一族をエジプトに呼び寄せ、そこから寄留の生活が始まったのでありました。実に430年間のエジプトの生活でした。聖書の人々がエジプトに寄留していることの理由を知らない王様が、増大するこの外国の民に恐怖を持ち、奴隷にしてしまったのであります。苦しい奴隷の生活を神様が顧みてくださり、モーセを通して解放させたのでした。エジプトを出て3ヶ月を経てシナイ山の麓に着き、そこでしばらく宿営することになります。シナイ山モーセがエジプトで奴隷である人々を救うように召命をいただいた場でもあるのです。再び、そこに戻ってきたモーセは、神様の導きのもとにシナイ山に登りました。シナイ山は2285mの 高さであります。
 以前、聖地旅行でこのシナイ山に登りました。その時のお話は10月の第一日曜日に講壇に立ったとき、お話致しましたので割愛しますが、岩の山という印象です。私達は山と言えば、緑の多い、または高山植物があることを思いますが、シナイ山は麓から岩山が上に伸びているのです。ほとんど草木が生えていません。そういうシナイ山モーセは登って行き、神様の御心をいただき、十戒をいただいたのです。十戒をいただいて下山すると、人々は指導者であるモーセが山に登ったまま帰って来ないということで、中心となるべき金の子牛の偶像を作り、その周りで踊り狂っていたのであります。モーセは激しく怒り、その石の十戒を砕いたのでありました。従って、十戒の石の板が無くなっているのです。そこで、神様は再び十戒を授けるとし、石の板を用意させて、モーセを再びシナイ山に招くのでした。モーセは改めて、神様の御心を示され、石の板に十戒を刻むのでした。
そこで今朝の聖書になります。モーセシナイ山から下山すると、モーセの顔は光を放っていたのです。従って、人々はモーセに畏れを持ち、近づけなかったのでありました。しかし、モーセの招きのもとに、人々の指導者達がモーセのもとに集まってきました。モーセは神様から示された御心を示し、今後はいただいた十戒を守りながら歩むことを示すのでありました。モーセの顔が光輝いていたということは、神様に接したからであり、神様のご威光がモーセに与えられたのであります。神様の御心に生きるとき、まさにその顔が輝くのであります。
「光を放つ」というヘブライ語は「角」にも由来致します。「角が出る」とも訳されるのです。昔のヒエロニムスという人がラテン語ウルガタ)で、「モーセに角が出ていた」と訳したので、ミケランジェロの「モーセ」には角が生えているのであります。正しくは光を放つモーセの顔であり、神様の御心に生きるときモーセであろうと誰であろうと顔に光が現れることを示しているのであります。

 新約聖書は栄光に輝く主イエス・キリストを示しています。ルカによる福音書9章28節以下が今朝の示しになっています。
28節、「この話をしてから八日ほど経ったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた」と最初に記されています。「八日の後」とは前週示されました弟子達の信仰告白であり、イエス様が十字架への道を歩むことをお示しになってからのことであります。十字架への道が主イエス・キリストのご栄光であることを示しているのであります。山に登られ、イエス様が祈っておられるうちに、イエス様の顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いたのであります。そこにはモーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っていたというのです。何を語らっていたのかと言えば、「イエスエルサレムで遂げようとしておられる最期について」であったのです。ペトロと仲間は、ひどく眠かったのですが、じっとこらえていたのです。そういう中でイエス様と二人の人を見たのでした。夢とも幻とも受け止められるのですが、確かに三人の栄光に輝く姿を見たのです。するとペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです」と言うのでした。すると光り輝く雲が彼らを覆ったのであります。そして雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と神様の声が聞こえたのであります。その声が聞こえたとき、もはやそこにはイエス様しかおられませんでした。それは一瞬のことであり、弟子たちは沈黙を守り、見たことを誰にも話さなかったというのであります。
マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも、この「山上の変貌」は記されています。しかし、イエス様とモーセ、エリヤが栄光のうちに語らっていた内容について記すのはルカによる福音書だけです。何を話していたのか。「イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期について」なのであります。栄光に輝く姿は十字架の主・キリストでありました。十字架と栄光、これは切り離されないこととてして、ルカは三人の語らいとしたのであります。
 この山上の変貌は十字架の道を歩むイエス様の勝利の姿であると示されます。まさにその通りでありますが、モーセとエリヤの出現が山上の変貌を意味深く示しているのであります。モーセもエリヤも昔の存在でありますが、モーセ十戒を与えられ、人々に神の言葉として教え導いた人であります。神の戒めを示す存在でありました。それは旧約聖書出エジプト記24章で示されたとおりであります。そしてエリヤは神様の御言葉を人々に示す預言者であります。預言の言葉は力となり、人々に神様の御心を示したのでありました。モーセは律法であり、エリヤは預言であるのです。イエス様がモーセとエリヤと話していたということは、主イエス・キリストが律法と預言であることを示しているのであります。そして、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言われたのでありますが、マタイやマルコは「これはわたしいの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」との神様のお言葉でした。しかし、ルカは十字架による救いのために、神様がお選びになっているのであると示しているのであります。十字架に向かう主イエス・キリストが栄光に輝いていることをルカによる福音書は私達に示しているのであります。まさに「ひかり輝く存在」は主イエス・キリストなのであります。
 お弟子さん達は、そこにはイエス様しかいないことに気が付きますが、この「ひかり輝く存在」を深く心に示されたのでした。

 主イエス・キリストが十字架にお架りになり、人々を救うことになりました。復活し、昇天され、そしてお弟子さん達に聖霊が降り、お弟子さん達は十字架の福音を多くの人々に宣べ伝えて行くことになりました。多くの信者が与えられるようになりました。原始教会の誕生です。お弟子さん達は使徒としてイエス様の福音を宣べ伝えて行くので、7人の働き人を選びました。その中にステファノという人がいました。彼がイエス様の十字架の福音を人々に語ったとき、人々はいきり立ってステファノを捕らえ、石打ちの刑で殺してしまうのです。石を投げられながら、ステファノは天を見上げます。すると神様の栄光とイエス様が示されるのです。その栄光のイエス様に、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。この罪を彼らに負わせないでください」と祈りつつ眠りについたと記されています(使徒言行録7章54節〜)。その時のステファノは栄光に輝いていたでありましょう。十字架の栄光のイエス様を仰ぎ見ることは、私達も栄光の姿へと変えられて行くのであります。栄光に輝く存在は、今こうして礼拝をささげている皆さんです。この栄光の輝きを人々に証しすることが、私達の歩みなのであります。
 栄光に輝く存在ということでは、いつも私の神学生時代のことが思い出されます。私は日本聖書神学校で学びました。入学したとき、金井為一郎先生が校長先生でした。この先生は本当に栄光に輝いていたと思います。お顔ばかりではなく、全身から輝きがほとばしっているとの思いがありました。神学生達も、その栄光の校長先生を見つめつつ勉学していましたので、やはり栄光に輝く存在へと導かれていたと思います。神学校に入学し、先輩達が歓迎会を開いてくださいました。その時、12、3人が入学しました。先輩達が歓迎の言葉をかけてくださいましたが、一人の先生が新入生に、「君達はまだ栄光に輝いていない。先輩達を見なさい。栄光に輝いているでしょう」というのです。この言葉を聞いて、面白くないと思いました。先輩達、どう見てもくたびれた服を着ており、どこが栄光に輝いているのかと思いました。それに対して、希望をもって入学したのに、栄光に輝いていないというのは、違うのではないかと思ったのです。おそらく新入生達は、入学の喜びを持ちながらも、不安を持ち、いろいろな心配を持っていたのです。その後、神学校生活をしているうちに、言われた先生の言葉は本当だと思うようになったのです。先輩達は、まさに栄光に輝いていると思うようになったのです。
 主イエス・キリストは十字架の道をひたすら歩みました。この十字架の道は人間を救う基となるのでありますから、「神さまの選ばれた方」でありました。ルカによる福音書はそのことを強調しているのです。十字架に進む主イエス・キリストこそ、「ひかり輝く存在」であるということです。私達は十字架により新しい命が与えられたのであります。十字架を仰ぎ見れば見るほど、私達もまた「ひかり輝く存在」へと導かれるのであります。
 混乱がある社会の中で、真の喜びを人々に証しすることを示されたのであります。大震災で被災された人々を、ひかり輝くイエス様が導き下さることをお祈り致しましょう。
<祈祷>
聖なる御神様。栄光のイエス様は十字架により私達をお救いくださいました。「ひかり輝く存在」として証しすることを導いてください。主の名によりささげます。アーメン。