説教「新しい命」

2011年1月9日、六浦谷間の集会 
降誕節第3主日

説教・「新しい命」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨシュア記3章1-17節、使徒言行録10章34-48節
ルカによる福音書3章15-22節
賛美・(説教前)讃美歌21・280「馬槽のなかに」、(説教後)67「貴きイエスよ」

 前週1月6日が顕現祭で、東の国の占星術の学者さん達がお生まれになったイエス様にお会いしたのであります。前週もスペイン・バルセロナにいる羊子が報告する現地の顕現祭についてお話しました。6日の日に羊子からメールが入り、子供たちが博士さんが持ってきてくれるプレゼントを楽しみにしていると記していました。ショッピングセンターで、その三人の博士に出あったので、記念写真を写したというので送ってくれました。髭を生やし、王冠をかぶり、マントをつけていました。この人たちが子供たちに夢を与えているということでした。クリスマスは6日までで、7日からは冬のバーゲンセールが始まるということでした。どこの国でも、クリスマスが終われば、クリスマスの後かたもなくなってしまうのです。日本でも、もはやクリスマスはとっくの昔のことであり、お正月後の「初もの」で賑わっている状況です。
 2011年が始まり、企業も学校もそれぞれ新しい歩みを始めています。企業のトップの人たちの賀詞交換会で、それぞれのトップの人が抱負を述べていました。今年は「jump」の年にしたいということでした。今年は兎年であり、兎が飛び跳ねるということで期待が寄せられているようです。願うことは発展するということであり、企業決算が黒字になることを願うのです。私達キリスト者の願うことは伝道の成果ということでしょう。多くの人々が洗礼を受け、十字架による歩みが導かれることなのです。教会に多くの人々をお招きしなければならないのです。一昨年のプロテスタント伝道150年で、その決意を新たにしています。昨年、10月に日本基督教団総会が開催されました。そこで4期8年間担ってきた書記を退任したのですが、その総会により教団は新しい歩みが導かれたのであります。今までの山北宣久議長を中心とする体制は、本当に大変でありました。いつも意見が伯仲し、結論を得るのは困難でもあったのです。それは常議員会組織によるものです。わずかに議長を支持する常議員が相手側より多かったので、運営することができました。しかし、10月の教団総会における常議員選挙は、選ばれた27名の常議員は、今までの山北宣久議長体制を踏襲する人々でした。新しく選任された石橋秀雄議長は、その意味では議事運営がやりやすいと言えるでしょう。そのため、12月に開催された第37総会期第1回常議員会では、長い時間をかけて伝道について話し合ったということでした。今までは、なかなかそのように長い時間をかけて伝道について話し合うことはできませんでした。日本基督教団は毎年教勢が減少しています。高齢者が増え、洗礼者が減少しているのです。日本基督教団の目標は洗礼者を増やすということであります。そのために伝道に勢力を注がなければならないのであります。多くの人々を教会に招かなければならないのです。主イエス・キリストの十字架の救いへと導かなければならないのです。洗礼を受けて新しい命が与えられ、その喜びを多くの人々に証ししていくことなのです。

 神様のお導きが大いなる救いを与えてくださることは、聖書が報告している通りです。まず旧約聖書ヨシュア記に示される神様の導きを示されています。ヨシュア記は、エジプトで奴隷であった人々が神様によって立てられたモーセにより脱出し、一路カナンを目指して歩んでいるのでありますが、今はモーセの後継者ヨシュアを指導者としています。モーセの後の指導者として、若きヨシュアは不安を覚えながらも神様のお導きに委ねて歩んでいるのです。今朝はヨルダン川を渡る聖書の人々です。ヨルダン川を渡ることは約束の土地カナンに進入することになるのです。今、そのヨルダン川を前にして宿営しています。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を超えんばかりの水嵩であったと言われます。従って、ヨシュアの悩みは、このヨルダン川をどのようにして渡るかということでした。しかし、ヨシュアは神様の導きを信じていたのであります。まだ、神様の導きが与えられていませんが、必ず導きがあることを信じて、人々に命令するのであります。ヨシュアは、「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約2千アンマ(900メートル)の距離を取り、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる」と人々に示したのであります。神様がどのように導いてくださるか分かりません。ヨルダン川を前にして、もう三日も経っています。神様の導きを信じて歩み始めたのであります。前方は水嵩があふれるほどのヨルダン川なのです。さあ、どのようにしてヨルダン川を越えてカナンに入って行くのでしょうか。いつまでも考えているのではなく、神様の導きを信じて動き始めることなのです。
ヨシュアが動き始めた時、神様はヨシュアに言いました。「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなるものにする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」と言われたのであります。神様を信じて腰を上げたヨシュアに対する祝福であります。箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、遥か遠くの方で壁のようになったというのです。川床は干上がりました。それにより聖書の人々はヨルダン川を渡って行ったのであります。まさに水からの救いでありました。この経験は二度目ということができるでしょう。それはモーセの時代でした。奴隷から解放されて、神様の約束の土地へと旅を始めたとき、後ろからエジプトの軍隊が追ってきたのです。しかし、前は紅海という海でした。どうすることもできません。その時、神様は海の水を分けました。干上がった海底を人々は歩き、ついに向こう岸に達したのです。渡り終えると、エジプトの軍隊も後を追って海底を渡ってきますが、神様は水を元に戻したので、軍隊はおぼれてしまうのです。水からの救いを既に与えられているのです。今、ヨシュアは人々を促して、行くてはヨルダン川ですが、神様の導きを信じて歩み始めたのでした。大いなる神様の導きを与えられたのであります。またもや水からの救いを与えられたのでした。
聖書において、水の救いは意味深く示されています。まず創世記においてエデンの園から流れ出る四つの川があります。それらの川により人間は命をはぐくむのであります。そして、創世記には悪を滅ぼすノアの洪水物語が示されています。エゼキエル書にも神の都から流れる命の水が示されているのです。詩編にも黙示録にも、命の川のほとりに植えられている木について示しています。水は悪を滅ぼし、命を与え、水の中を通ることにより救いが与えられることを示しているのであります。

 先ほども、この世の歩み出しについて触れましたが、聖書もイエス様が成人した状況になっています。イエス様が洗礼を受け、そして人々に現れて、神様の救いの御心、福音を宣べ伝えて行くことが始まるのであります。
 まず、バプテスマのヨハネについて示しています。ヨハネはイエス様より先に生まれ、そして先に人々に現れました。神様の御心に生きるよう、人々に悔い改めを迫るのであります。厳しく神様の御心に生きるよう示すので、人々はヨハネに質問するのです。「わたしたちは、どうすればよいのですか」と尋ねた人に、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物をもっている者も同じようにせよ」と諭しています。徴税人に対しては、「規定以上のものは取り立てるな」と示しています。兵士に対しては、「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と教えるのでした。厳しく神様の御心をもって諭すヨハネに対して、人々は彼がメシアではないかと思うのです。それに対して、ヨハネは救い主、メシアはこの後に現れることを示しています。今は水で洗礼を授けているが、後から来られるメシアは聖霊と火で洗礼を授けて下さるというのです。このように救い主の出現を予告するヨハネでありましたが、彼は悪を悪とはっきりと示しました。時の領主ヘロデがよからぬ生活をしているので、はっきりと悪であることを指摘しました。それで領主ヘロデは彼をとらえて牢に入れてしまうのです。
 洗礼を授けているヨハネのもとにイエス様もやってきました。そしてヨハネからイエス様も洗礼を受けるのです。ヨハネとイエス様のやり取りについては、ルカは割愛しています。マタイによる福音書によりますと、イエス様がヨハネさんから洗礼を受けようとすると、「わたしこそ、あなたから洗礼をうけるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」とヨハネさんは言いました。それに対してイエス様は、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われました。
 洗礼は罪の悔い改めであるのに、主イエス・キリストが洗礼を受けるということは、では主イエス・キリストも罪があったのか、との素朴な疑問がもたれます。ヨハネはイエス様に言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」それに対して、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言われたのであります。つまり、主イエス・キリストがこの世に現れたのは人間として現れたということです。人間であれば、人々が持つ罪の方向は当然持ち合わせているということです。このことはその後のマタイによる福音書4章1節以下でも示されるとおりであります。悪魔との戦いは、人間として持つ欲望との戦いであったのです。この誘惑については後に示されます。人間として通らなければならない道を歩み、悪を退け、神様のお心に従うことであります。主イエス・キリストは常に神様に向かい、御心を仰ぎ、実践してゆく姿勢であります。イエス様が洗礼を受けると、天がイエス様に向かって開き、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのでありました。神様が「わたしの心に適う者」と言われたとき、主イエス・キリストは死に至るまで、神様に心を向けて歩まれたのであります。御心を仰ぎ、従う主イエス・キリストは十字架の死に至るまで従順でありました。イエス様はゲッセマネの園で祈りました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られ、すべては御心に委ねたのであります。イエス様の洗礼は人間として必要な道順でありました。新しい命に生きるために、洗礼を受けることが出発点になるのです。
 バプテスマのヨハネが授けた洗礼の意味は、神様の御心に生きる決心のしるしであります。それに対して主イエス・キリストの名による洗礼は、単に決心というのではなく、イエス様の十字架の贖いが、私の罪をぬぐい去ったことを信じるのです。イエス様の十字架の死と共に、私が持つ罪の姿、自己満足、他者排除を滅ぼされたのであります。私達は十字架を仰ぎ見て、救いの確信を与えられるのであります。イエス様が十字架により、私に新しい命をくださったということです。

 今朝の聖書、使徒言行録には異邦人と言われる人がイエス様の福音を信じたことが記されています。聖書の人々は、神様の御心は自分たちに示されているのであり、他の外国人、すなわち異邦人には示されていないと思っていたのです。イエス様のお弟子さんたちもそのように思っていました。しかし、福音は世界の人々に与えられているのであり、使徒言行録はそのことを証ししています。コルネリウスという人は外国人でありますが、神様の導きを受けます。イエス様の弟子であるペトロを招きなさいということでした。一方、ペトロも神様の導きを受けていました。幻のうちに天が開けて、四隅でつるされたものが上から下りてくるのです。その中にはあらゆる動物がいました。ペトロは天から声を聞きます。これらのものを食べなさいということでした。しかし、その中には汚れた動物も含まれていたのです。「汚れたものを口にすることはできません」とペトロは断りました。そういうことが三度もあったのです。不思議に思っているペトロのもとに、コルネリウスからの使いがありました。外国人と付き合うなとは古い教えでもあります。従って、ペトロは躊躇しますが、ここで幻の意味が分かるのです。汚れているとか、いないとかは人間が定めていることであり、神様の導きにおいては汚れたものは存在しないのです。それで、ペトロはコルネリウスの家に行き、主イエス・キリストの救いを教えるのであります。「この方を信じる者は誰でも、その名によって罪の赦しが受けられる」と示したのでした。コルネリウスを始め、そこにいる異邦人と言われる人々が洗礼を受けたのでありました。
 洗礼を受けるということ、新しい命の始まりです。それは自分の欲望に捕われない生き方へと導かれるからです。聖書には「古い人、新しい人」について示しがあります。古い人とは、聖書で言えば、今までの律法による生き方です。戒律によってのみ生きる人です。戒律によって生きているようでありますが、自分の生まれながらの生き方なのです。すなわち自分の欲望のままに生きているということです。それに対して、「新しい人」というのは、自分ではなく、自分の思いを超えてイエス様の御心に生きようとすることなのです。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」との教えをいただいて生きるとき、その時こそ「新しい命」をもつ者として、新しい人として生きるのです。自分の思いを超えて生きること、「新しい命」の人生なのです。新しい年は「新しい命」の歩みなのです。
<祈祷>
聖なる神様。新しい年を歩み始めました。新しい命をいただいて、多くの人々に証しすることができますよう導いてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。