説教「献身の人生」

2011年1月2日、六浦谷間の集会 
降誕節第2主日」(新年礼拝)

説教・「献身の人生」、鈴木伸治牧師
聖書・サムエル記上1章21-28節、ローマの信徒への手紙12章1-8節
ルカによる福音書2章22-40節
賛美・(説教前)讃美歌21・269「飼い葉おけにすやすやと」、(説教後)278「暗き闇に星光り」

 2011年の歩みが始まりました。クリスマスにおいて新しい歩みが始まっていますが、この世のカレンダーが新しくなり、それなりに新しい歩みを導かれたいのであります。
 何処の国でもいろいろな儀式を持ちつつ歩んでいますが、日本の国もお正月の儀式を持ちながら始められています。書初め、仕事初め、お稽古初め等と、考えてみれば、今までしていたわけでありますが、年が改まったということで気持ちを新たにすることなのでありましょう。思いを改めるということでもあります。年が改まるとき、いつも示される聖書はローマの信徒への手紙12章2節であります。今朝の聖書です。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
 常に心を新たにして神様に喜ばれる歩みをしたいと願っています。
 今朝は新年礼拝としてささげていますが、キリスト教の暦で言えば、今週の6日がクリスマスの最後になります。1月6日に東の国の占星術の学者達が、救い主としてお産まれになったイエス・キリストベツレヘムでお会いしたのであります。羊飼いは聖書の国の人々ですが、占星術の学者達は外国人であります。イエス・キリストの福音は、お弟子さん達のペトロさんやパウロさんの働きにより世界の人々に伝えられたのでありますが、むしろ最初から世界の人々に福音が与えられていたのであります。従って、12月25日のクリスマスよりも1月6日の顕現祭を重んじる国々があるのです。
 娘の羊子がスペインにいますが、バルセロナにおける顕現祭について知らせてくれています。1月6日はレイジェスと呼ばれるお祭りということです。このレイジェスが顕現祭という意味だと思います。この日は三人の王様が子ども達にプレゼントを渡しに来るのだそうです。山車のようなものに乗った三人の王様が、アメを町中にばら撒きます。入院している子どもや老人達には、クレーンで病院の窓まで上がり、プレゼントを渡すということです。小さい子ども達は王様を信じていて、前もって欲しい物を紙に書いて注文します。6日の朝、起きると注文していたプレゼントがもらえるのです。王様がもってきてくれたと信じているようです。サンタクロースと同じようです。親は子どもの注文を揃えるのに大変であるということでした。クリスマスにもプレゼントはあるようですが、顕現祭・レイジェスの方が盛んということでした。羊子が言うには、デパートによって乗せられているということでした。これは何処の国も、商売に乗せられて行事が盛んになるというわけです。クリスマスで随分と儲けた商いの人たちは、今度はバレンタインデーを目指しているわけです。いずれもキリスト教が貢献していることになるのですが、日本の国のキリスト教徒は1%しかいないのです。100人で一人、1,000人で10人しかいないのです。これだけキリスト教が行き渡っているのですから、信じる人を多くしなければならないのです。新しいお告げを示され、2011年の伝道を深めて歩みたいと示されています。

 特に今年の新年礼拝で示されることは「献身」ということです。神様にこの身をささげて生きることであります。礼拝で席上献金をささげ、感謝のお祈りがあります。その時、「この献金をお恵みの感謝と献身のしるしとしておささげいたします」とお祈りするのです。献金は、私の体を神様にささげるのですが、その体の代わりとしてお金をささげるのであります。だから10円を捧げる人は、自分の体を10円としていることになります。安く見積もっているのではないでしょうか。100万円もする自分の体ではないでしょうか。身を献げるということは、神様のお心をいただきつつ歩むということなのです。
 旧約聖書はサムエル記上1章ですが、サムエルが生まれて、母親のハンナがサムエルを神様にささげることが記されています。エルカナという人がいて、昔のことなので二人の妻がいました。一人がハンナで、もう一人はペニナと言いました。ペニナには二人の息子が与えられていましたが、ハンナは子供が生まれませんでした。悲しみつつ神殿でお祈りしました。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません」とお祈りしました。「かみそりを当てない」と言うのはナジル人としての請願であります。請願を立てた人はかみそりを用いて髪の毛を切らないのです。後に登場するサムソンがそうです。サムソンの力の秘密は髪の毛にあったのです。だから敵なる者がその秘密を知り、サムソンの髪の毛を切ります。するとサムソンは力を無くし、今にも殺されようとするのです。しかし、捕らえられている間、髪の毛が伸びてきていました。最後の力を振り絞り、敵なる多くの人と共に死んで行くのです。
 ハンナの祈りは適えられました。神様はハンナに一人の男の子を授けます。ハンナはこの子が乳離れするまで育て、そして神殿のあるシロへと行くのでありました。そこの祭司エリにサムエルを託し、神様にささげたのであります。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしはここであなたの側に立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子が授かるように祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしはこの子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられたものです」と言うのでした。こうしてサムエルは祭司エリのもとで、神殿の仕事をしながら成長しますが、やがてエリに代わり祭司となり、聖書の国イスラエルの人々を導くのであります。
 少年サムエルの聖画があります。「サムエルの祈り」というものでありますが、この後3章1節以下に記されています。エリに仕えるサムエルは、ある夜に神様の呼び声を聞きます。サムエルはエリが呼んでいると思い、急いでエリのもとへ行くのです。「お呼びになったので参りました」と言うと、エリは呼んでいないと言います。サムエルが寝床で寝ていると再び呼び声が聴こえました。それで急いでエリのもとへ行きます。エリは呼んでいないというのです。さらに三度目の呼び声を聞きます。また、エリのもとへ行くと、エリはサムエルを呼んでいるのは神様であることを知り、「もし、また呼びかけられたら、『主よ、お話ください。僕は聞いております』と言いなさい」とサムエルに言うのでした。そして、神様はサムエルの名を呼びます。少年サムエルはその場で、「どうぞお話ください。僕は聞いております」とお祈りするのです。こうして御心を示されたサムエルは、成長してイスラエルの祭司となり、常に神様の御心を告げる人になったのであります。母親ハンナの祈りの通り、生涯神様にささげられた人生を歩むのであります。

 新約聖書ではヨセフさんとマリアさんが、生まれたイエス様を神様にささげるためにお宮参りをしているところであります。今朝の聖書はルカによる福音書2章22節以下であります。ここにおける赤ちゃんをささげるということは、ハンナがサムエルをささげた意味合いとは異なります。聖書の人々は生まれた子供は神様の子供としてささげることが定められているのです。最初に「モーセの律法に定められた清めの期間が過ぎた時」と記されています。旧約聖書の掟として、出産ということは出血を伴うので、汚れた存在になります。その汚れを清めるために贖罪の捧げものをすることが義務付けられているのです。本来は一歳の雄羊を焼き尽くす捧げものとします。しかし、貧しいものは家鳩または山鳩二羽をささげることになっています。従って、マリアさんは山鳩をささげていますので貧しい者として捧げています。このように捧げものをしながら生まれた子供が神様の祝福をいただくことをお祈りするのでした。
 ヨセフさんとマリアさんが神殿に行きますと、そこにシメオンと言う老人がいました。シメオンは救い主が生まれることを信じて神殿にいたのであります。必ず救い主にお会いできるという希望を持っていました。そこへヨセフさんとマリアさんが赤ちゃんを連れてやって来た時、すぐに救い主であることを知りました。彼らから赤ちゃんを受け取り、腕に抱きながらお祈りしたのであります。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす掲示の光、あなたの民イスラエルの誉です」と神様にお祈りしたのでありました。ヨセフさんとマリアさんはシメオンさんがそのように言うのを驚いて聞くのでした。しかし、マリアさんにもヨセフさんにも生まれる子供の秘密は示されているのですから驚くにはあたらないのです。とはいうものの、秘密は彼らだけと思っていたのでしょう。それをシメオンさんが赤ちゃんを救い主と呼んだのですから、そのことで驚いたのでありましょう。
 シメオンさんはマリアさんに言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺しぬかれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と恐ろしいことを言うのです。まさに主イエス・キリストの救いを預言しています。イエス様は多くの人々を神様のお心にあって立ち上がらせました。しかしまた、神様の御心の前に倒れて行く人もありました。そして、イエス様は時の指導者達の反対を受け、十字架の道を歩むのであります。十字架上のイエス様を見て、マリアさんは剣で心を刺しぬかれるのであります。
 こうしてイエス様はヨセフさんとマリアさんにより、律法にしたがって神様に捧げられるのですが、むしろイエス様はご自身を人間のために捧げられたのであります。人間がどうしても克服できない罪、自己満足・他者排除を十字架の死と共に滅ぼされたのであります。それは神様の御心でありました。神様に身をささげることは、人間に身をささげることでありました。人が人を愛し、共に生きるために主イエス・キリストはこの世に出現し、神様と人間に身をささげて平和を来らせてくださったのであります。

 聖書において献身を示されていますが、私たちはどのように歩むのかを示すのが、今朝のローマの信徒への手紙12章です。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい」と示されています。この生き方が私達のなすべき礼拝であるというのです。そのために、「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようにしなさい」と示しています。心を新たにすること、神の御心、何が善いこと、神によろこばれる、このことを祈りつつ生きるのが私達なのであります。それでも、何を示しているのか分かりません。それを知るのはイエス様が喩えをもって示していることを理解することです。
 マタイによる福音書25章31節以下に示されています。王様がいて、王様の前にいる右側の人たちに言いました。「お前たちは、わたしが飢えているときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と言いました。すると右側の人たちは、「いつわたしたちは、飢えておられるのをみて食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」と言うのです。実際、王様の側にいるわけではなく、王様については分からないのです。しかし、王様は言いました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである」と言われたのであります。つまり、王様には何もしていませんが、この社会の中で、一人の存在を見つめ、手を差し伸べ、体を近づけて共に歩もうとすることは、この国を支配する王様の喜びなのです。まさに王様にしたことと同じであるのです。今度は、王様は左側の人々に言いました。「お前たちはわたしに何もしなかった」と言うわけです。すると左側の人たちは、「わたしたちは、いつも王様のお側にいて、何かと王様のお世話をしていました」と言います。しかし、この人たちは社会の人々には目を向けず、手を差し伸べることはなかったのです。王様が支配する国の中で、貧しい人がいれば王様の悲しみなのです。それをあなたがたは何もしなかったというわけです。
 このイエス様の示しが献身に生きるということなのです。このイエス様のお心に押し出されて生きる人々は多くいます。アフリカで働いた神学者、音楽家であるアルベルト・シュバイツァーが牧師として、お医者さんとして人々に献身的に仕えたのでした。インドのマザー・テレサもしかりです。いちいち名前をあげなくても、多くの人々がイエス様に押し出されています。イエス様のたとえ話は、王様を見つめて生きるということは、自分を見つめて生きることであり、自分の利得のためなのです。社会の中で一人の存在を見つめて生きるということは、神様の御心を求めて生きることなのです。一人の存在を見つめるとき、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれることなのか」が導かれて来るのであります。今朝は新しい年の歩み、指針を示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。過ぎる年のお導きを感謝致します。新しい年を歩み始めました。一人の存在を見つめ、献身の歩みを導いてください。主イエスの名によりささげます。アーメン。