説教「新しい歩み出し」

2010年12月26日、六浦谷間の集会 
降誕節第1主日」(歳晩礼拝)

説教・「新しい歩み出し」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書61章1-11節、ヨハネの手紙<一>1章1-10節
マタイによる福音書2章12-12節
賛美・(説教前)讃美歌21・259「いそぎ来たれ、主にある民」、(説教後)278「暗き闇に星光り」

 今朝は2010年、平成22年の最後の礼拝となりました。この世のカレンダーのことであり、私たちは主イエス・キリストのご降誕により新しい歩みが始まっています。イエス様との出会いが新しい歩みへと導かれるのであり、カレンダーが変わったことでは新しい歩みはないということです。しかし、カレンダーを変えるということは、気持ちにおいて新たなる歩みということになりますので、カレンダーが終わり、また新しくなるということでは、それなりに意義があるのであります。
 今日が2010年の最後の主日礼拝でありますが、この一年を振り返った時、私たちに取りましては激動の一年でありました。何よりも長年牧会してきた大塚平安教会の退任であります。合わせてドレーパー記念幼稚園の退任であります。30年は本当に長い歴史を歩みました。皆さんとのお別れの集いが、今でも鮮明に示されています。それが3月末のことでありました。4月からはゆっくり過ごそうと思っていました。10月に開催される日本基督教団の総会で、8年間担ってきました総会書記を退任しますので、それまでは隠退できません。無任所教師として過ごすつもりでいました。ところが横浜本牧教会の後任に決まった森田裕明牧師が10月にならないと赴任できないということで、4月から9月までの間、代務者として担うことになったのでした。横浜本牧教会の代務牧師、また附属幼稚園の園長としての務めもあり、職務を担っているうちにも、あっという間に9月が終わりました。10月からは、ようやく無任所教師となりましたが、月に一度、横須賀上町教会の講壇に立つご用が与えられています。いわば激動の一年でありましたが、なんと4人の方が洗礼を受けられたことは大きなお恵みでした。お二人は大塚平安教会の方であり、お二人は横浜本牧教会の方でした。
 退任と共に転居があるわけで、私たちは実家に居を構えることにし、その実家は60年も経た古い家でしたので、4年前に建て替えました。従って、退任を考えつつ、少しずつ荷物を運んでいましたが、実際に生活している以上、そんなに運ぶことはできませんで、3月末に引越しを行ったのであります。4月からはそこに住んでいる訳ですが、ドレーパー記念幼稚園の設置者、学校法人大塚平安学園理事長の職務は、まだ続いていました。大塚平安教会も10月にならないと新しい牧師が就任できないのです。牧師が理事長を兼務することになっていますので、新しい牧師が就任するまで理事長を担っていました。それから社会福祉法人綾瀬ホームとさがみ野ホームの嘱託牧師としてそれぞれ礼拝を担当していましたので、これも新しい牧師が就任するまで担うことになり、週に一度は綾瀬に出かけていました。従って、この4月からは、いままで以上に忙しさが加わったと思いました。車で遠くまで移動することが多くなったのです。それからいままで16年間、担って参りました八王子医療刑務所教誨師、神奈川医療少年院篤志面接委員も3月で退任しました。八王子や相模原の橋本までは遠距離になり、きつい年齢にもなっているからであります。
 いままでの歩みを振り返りましたが、クリスマスは新しい歩みへの指針であることを示されています。それが今朝の聖書のメッセージでありまして、主イエス・キリストとの出会いは新しい示しを与えられるのであります。救い主をいただき、喜ぶということは、新しい一歩であると聖書は示しているのであります。

 「主はわたしに油を注ぎ、主なる霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」とイザヤは宣言しています。「打ち砕かれた心を包み、捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」と喜びのメッセージを与えているのであります。このようなメッセージを伝えなければならない社会的情勢がありました。まさに社会的には中心がなく、いわゆる拠り所がない生き方でありました。聖書の民はバビロンという大国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕囚として連れて行かれたのであります。約50年、異国の空の下で、捕われの身として過ごしたのであります。ところがバビロンの勢力が弱まり、ペルシャによってバビロンは滅ぼされたのであります。それにより聖書の人々は解放されてユダの国に帰るのであります。しかし、多くの人々はもはや住み慣れたバビロンに残っていました。帰還しても生活することは困難であることを知っていたからであります。まして50年は、もはや老人になっているのであり、力を弱くしているのであります。50年の空白を取り戻すことはできないと思ったのです。ディアスボラの民、離散の民と言われる人々であります。従って、都のエルサレムに帰ったのは、そんなに多くの人々ではありませんでした。都に帰った聖書の人々はまず崩された神殿の修築を致します。そして都の建て直しをするのであります。しかし、バビロンにつれて行かれなかった人々がいます。さらに周辺の人々がいます。50年もいなかった人々が帰って来た時、現地の人々は冷たくあしらったのであります。神殿も修築しなければならず、またユダヤ教の宗教生活もままならない状態でした。
 不安定な、中心が定まらない社会に生きる人々へのメッセージを伝えるのが今朝の第三イザヤなのであります。神様は困難な状況に生きる人々を決して見過ごされることはないのです。「貧しい人々に良い知らせ」を、「打ち砕かれた心を包んでくださる」とイザヤは示しているのであります。だから、新しい思いをもって歩みなさい、神様のお心を知りなさいと示します。「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる」と言うのであります。今までの生活は、たとえバビロンの捕囚という苦しい生活でありましたが、人々はそれなりに捕囚の生活にも馴染んだ生き方でありました。しかし、今また新しい歩みをする時、戻りたいという思いもあり、新しい歩みへの不安がありました。そういう不安に対して、神様の導きによる新しい歩みに、勇気をもって委ねなさいと教えているのがイザヤなのであります。新しい歩みとしての「晴れ着」を神様がくださるのです。
 「大地が草の芽を萌いでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」とイザヤは人々を励ましています。新しい歩みは不安であります。何が、どのようになるのか、自分はどのようにすべきなのか、際限なく問題を感じてしまうのであります。しかし、それは人間的な思いなのであり、神様の御心に委ねてこそ、新しい一歩を踏みしめることができるのであります。もはや過去の、また現在の歩みを基とする必要はありません。神様の御心こそが基なのであり、新しい歩み出しが導かれていくのであります。クリスマスのメッセージはそのことです。イエス様が現実の私の中に現れたという信仰は、私を新しい一歩へと導くのであります。

 イエス様が生まれたという知らせは多くの人々に不安を与えました。今朝の聖書はマタイによる福音書2章1節以下でありますが、登場する人々の不安が示されています。イエス様がベツレヘムでお生まれになった時、東の方から占星術の学者たちがイエス様に会いにやってきました。占星術の学者とは星占いの人々です。毎日、空を見上げては星を見つめていました。星の現れ方により世の中の指針を与えていたのであります。その彼らが不思議な星を見つけ、その星を目指して都エルサレムにやってきたのであります。占星術の学者たちは、不思議な星が救い主出現の意味であることを知り、まさに不安を持ちつつ会いにやってきたのであります。彼らがエルサレムで述べたことは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言っています。ユダヤにはヘロデ王がいます。それなのに、はっきりと新しい王様について述べているのでありますから、占星術の学者たちも不安があったはずです。しかし、新しい王様にぜひお会いしたいとの思いが強かったのであります。不安が思いを強めたということです。
 一方、占星術の学者たちの言っていることを聞いて不安を覚えたのはユダヤの人々、都エルサレムの人々でした。ヘロデ王がいるのに、また新しい王様が現れたとなると、これはいったいどうなるのかと不安を覚えました。なかでも不安におののいたのはヘロデ王自身あります。占星術の学者たちを呼び、ことの次第を聞き、送り出しました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と占星術の学者たちは確かに言っているのです。穏やかではありません。王様は祭司長、律法学者たちを集め、その事実を確かめさせるのであります。彼らは旧約聖書に示されている預言の言葉を王様に示すのでありました。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者達の中で、決していちばん小さい者ではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」と旧約聖書ミカ書5章1節の預言の言葉を王様に示したのであります。それにより王様は学者たちをベツレヘムに送りだすのでありました。ベツレヘムは都エルサレムからそれほど遠い距離ではありません。それでも車で30分はあったと思います。都ではありませんが大きな町でありました。
 不安を覚えると言うことは、新しい歩みに対する不安なのであり、新しい事実が分からないままに動揺するのであります。マタイによる福音書はヨセフさんを中心にイエス様の降誕物語が記されています。ヨセフさんはマリアさんとは婚約の仲でありました。ところがマリアさんは身ごもったというのです。ヨセフさんは不安を覚えました。こういうことがあってはならないということです。それでマリアさんとの関係を断つ決心を致します。しかし、天使に示されたことは、新しい事実を受け止めることであったのです。新しい事実は不安にならざるを得ないのです。しかし、その不安を励ましたのは神様でありました。これはルカによる福音書マリアさんにおいても同じであります。自分から子供が生まれる、しかも神の子が生まれるということ、非常に不安を覚えました。マリアさんの不安を励まし、新しい状況に一歩を踏み出すよう導くのは神様でありました。
 クリスマス物語は実に不安を突き破って、新しい状況へと歩み出す示しなのであります。占星術の学者たちは不安のままにお生まれになったイエス様とお会いしました。そして、もってきた宝物を贈り物としてささげたのでありました。まさに不安のままにイエス様とお会いしましたが、今や新しい歩みが始まったことを確信し、ヘロデ王に報告しなければなりませんが、報告することなく帰って行ったのでありました。不安はなくなりました。新しい喜びの歩みが占星術の学者たちに与えられたのであります。

 この一年間は激動の年であったことを最初に述べました。そのような中で4人の方が洗礼を受けられました。私たちが3月で退任することになったので、そのためではありませんが、今まで体内でくすぶっていたことが表に出てきたのであります。一人の方は、長きにわたりキリスト教に接していました。そして数年前から礼拝に出席されるようになり、教会の皆さんとのお交わりも深められていました。しかし、洗礼の決意には至りませんでした。私が退任すると言うことで、一度お話をしたいと言われて面接日にお出でになりました。ご自分のこれまでの人生をお話されました。そういう人生で、キリスト教に触れながらの歩みであり、今の礼拝出席の生活も今までとは変わらないことを述べておられたのです。神様はそんなに長く導きを与えてくださっていたのですよ、と申し上げました。単に、キリスト教とふれ合いながらの歩みではなく、それがお導きであったと申し上げたのです。すると、この方は神様のお導きを深く受けとめられたのです。キリスト教に触れつつ歩んでいて、それ以上進むことに不安があったようです。その不安がなくなったのです。新しい一歩が導かれたのでした。もう一人の方は、先の先まで自分の姿を心に描いている方でした。だから、洗礼を受けても、この先どうなるか分からなないとの不安をもっていたのです。私たちは明日のことについては分からないし、明日を考えれば不安です。だからイエス様の導きに委ねて歩むのですと申し上げました。素直に受け入れてくれました。この方も小さい時からキリスト教の中で成長したのです。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6章34節)とイエス様が教えておられます。今、「神の国と神の義」を求めて生きることなのです。明日は不安だらけです。しかし、明日のことではなく、今をイエス様のお心にあって生きるとき、不安はなくなるのです。明日の不安など考えてはいられないほど、今イエス様のお心に生きるということなのです。
 横浜本牧教会でもお二人の方が受洗しました。お一人の方は癌を宣告され、余命いくばくもないと告知されている方でした。お連れ合いが信者であり、二人のお子さんも幼児洗礼を受けています。従って、以前より教会の礼拝には、時々出席されていました。命の宣告を受けた時、やはり不安、絶望の思いは当然でありますが。この方はご自分の命をしっかりと受け止め、神様に委ねられたのでありました。召天される数時間前にお見舞いしました。神様があなたを受け入れてくださいます、とお話すると、がくんと力が抜けたようでした。安心されたのであります。もう一人の方は、むしろ今まで洗礼を受けられなかったことに不安を覚えておられる方でした。洗礼への導きが与えられて、不安がなくなったのです。主イエス・キリストを受け入れるとき、不安から平安へと導かれるのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。ご降誕により新しい歩みが導かれていることを感謝致します。勇気をもって新しい歩み出しができるよう導いてください。主の御名によりささげます。アーメン