説教「力を与えられる」

2024年2月11日、六浦谷間の集会

降誕節第7主日

                      

説教・「力を与えられる」、鈴木伸治牧師

聖書・申命記8章2-10節

   フィリピの信徒への手紙4章10-20節

   ヨハネによる福音書6章1-15節

賛美・(説教前)讃美歌21・290「おどり出る姿で」

   (説教後)讃美歌21・432「重荷を負う者」

 今朝は2月11日であり「建国記念の日」とされています。今朝は日曜日でありますので、明日の月曜日が振替祝日になっています。建国記念の日は祝日となっているのです。祝日を喜ぶわけですが、しかし、「建国」といわれましても、根拠のない建国なのであり、歴史的な経過というものがないのであります。もとは「紀元節」といわれていました。日本の歴史を示す「日本書紀」は、初代天皇の即位の日として1872年(明治5年)に制定されました。しかし、その後は廃止されたりしましたが、正式に「建国記念の日」として制定されるのは1966年(昭和41年)6月25日に成立したのでした。従って、建国記念の日として定められても、歴史が浅く、根拠もない建国なので、この日の意義がいつも問われているのです。外国では独立記念日として、共に喜びお祝いするのですが、日本の建国記念日は、何も喜びがないのです。

外国では独立記念日を建国の日としている国々がありますが、その場合には歴史の流れを示されながら国の始まりを示されているのです。そのため、キリスト教ではこの日を「信教の自由を守る日」として迎えています。各地で信教の自由を守る講演会、学習会が行われます。所によってはデモ行進まで行われています。前任の大塚平安教会時代、所属する湘北地区でも集会を開いていました。そういう中で講演会とか学習会も必要なのですが、何よりも神様にお祈りをささげることが大切なのであり、「信教の自由を守る湘北地区合同祈祷会」としての集会を開いていました。奨励をいただき、その後は三々五々集まり、祈祷をささげていたのです。何よりも神様にお祈りをささげ、御心を示されることが大切なのであります。神様から力を与えられて歩みたいのであります。

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と今朝の旧約聖書申命記8章1節以下で示しています。「知らせるためであった」というのは、人は神様の口から出るすべての言葉によって生きることであります。知らせるために奇跡をもって導かれているのです。神様は常に奇跡、人々にとっては不思議なことを与えながら人々を導かれておられるのです。

 申命記の書名は、ヘブライ語原典の書名は「これらは…ことばである」ということであります。日本語では申命記となっていますが、申命記の「申」には「重ねる」の意味があり、重ねて語られる命令ということで申命記となっているのであります。従って、申命記には重ねて、あるいは繰り返し主の戒め、教えが示されているのであります。そもそも繰り返し主の戒めを語るのは、指導者モーセでありますが、モーセは繰り返し主の戒めを語ることによって、モーセの使命を終えるのであります。モーセにエジプトで奴隷として苦しむ人々を救い出しなさい、との神様の使命が与えられました。モーセは躊躇しますが、神様の励ましと力、大いなる奇跡をいただき、奴隷の人々をエジプトから脱出させたのでありました。そして、40年間の荒野の旅があります。モーセは人々の不平不満の声を抑え、行く手に阻む諸問題を切り抜けながら、ついに神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地カナンにたどり着きました。今、その約束の土地を見つめながら、歴史を回顧し、神様の導きの奇跡を示し、主の戒め、教えを守るよう諭しているのであります。

 「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それをとることができる」と示しています。モーセは神様から使命を与えられたとき、二つのことをしなければなりませんでした。一つは奴隷で苦しむ人々を救い出すことです。それは果たされました。そして、次の使命は、救い出した人々に神様の御心を示すことでありました。神様の戒め、十戒を示し、しっかりと受け止めて守るように教えます。それによって神様を信じて生きる者へと導いたのであります。しかし、人々は示され、教えられても、なかなか守って生きることはできなかったのです。人は常に自己満足に生きるからであります。

 「あなたの神、主が導かれた40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」と示しています。奴隷の国エジプトを出て、まず困るのは食べ物でありました。そこで人々はモーセに詰め寄り、「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」というのでした。それに対して、神様はマナという食べ物を与え、荒れ野の40年間を養ったのでありました。さらに、飲み水がない状態のとき、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも乾きで殺すためなのか」と不平を言うのでありました。モーセは神様に言われるままに岩を打ちます。すると水が流れ出てきて人々の喉を潤したのであります。空腹を与え、渇きを与え、いろいろな困難を与えたのは神様でありました。それは人々が一層神様の導きを知るためなのであります。その都度、奇跡と思える「しるし」を与え、主の道を生きることの喜びを与えたのであります。まさに、この奇跡、「しるし」は神様のお恵みでありました。そして、それは困難のときにこそ、神様の戒めを守って生きる訓練でもありました。「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい」とモーセは教えています。

 主イエス・キリストは「永遠の命」を得させるために奇跡を与えています。今朝のヨハネによる福音書はイエス様が5,000人の人々を五つのパンと二匹の魚で養ったことを報告しています。このパンの奇跡はマタイ、マルコ、ルカによる福音書もそれぞれ報告しています。このヨハネによる福音書は、イエス様が山に上り、一休みしていると大勢の人々がイエス様を見つけて近づいてくる状況であります。そこで、イエス様は近づいてくる人々を見ながら、お弟子さんのフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」と言われたのであります。それに対しフィリポは、二百デナリオン分のパンを買っても足りないと答えます。一デナリオンというのは、聖書では一日分の日当にあたります。アンデレは二百デナリオンがあっても足りないと答えているのです。お弟子さんたちはこの世の秤でしかイエス様に答えられませんでした。それに対して、イエス様はこの世の秤、評価ではなく、神様の御心をお示しになったのであります。さらにお弟子さんの一人、ペトロの兄弟アンデレが、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、なんの役にも立たないでしょう」と言うのでした。弟子達はまったく不可能を前提にしています。大勢の人々に対する、自分達の考え、秤で結論付けているのです。この時、アンデレにしてもフィリポにしても、あの最初の奇跡、カナの婚礼で水をぶどう酒に代えた、あの奇跡をどうして思い出さないのでしょうか。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とイエス様が言われたとき、「あなたならおできになります」と言わなければならなかったのであります。

 「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々は満腹した」と報告されています。こうして、日毎のパンを与えられたイエス様は、この6章34節で、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と示しています。そして、最後の晩餐では、食事のパンを弟子達に与えながら、今後はわたしの体と思って食べなさいと言われ、さらにぶどう酒を与えながら、わたしの血だと思って飲みなさいと示されたのであります。このことが聖餐式として、今に生きる私たちも恵みにあずかっているのであります。私たちは聖餐をいただく毎に神様の御心へと導かれるのであります。主イエス・キリストの奇跡は、私たちに力を与えてくださるのであります。

 私は84歳になっていますが、牧師として、幼稚園の園長として歩んでまいりましたが、自分自身を考えるとき、こんなに大きな働きをしてきたことをつくづく不思議に思っています。ですから自分を振り返るとき、奇跡の人生としか思えないのであります。神様が力をくださって、その働きを導いてくださったと示されているのです。私達はこのような自分に何ができるのか、と思っていないでしょうか。私達はこんな自分でありますが、今までの自分を振り返るならば、イエス様の数々の奇跡が見えてくるのです。こんな自分と言うなら、イエス様に申し訳ないのであります。イエス様は私の人生に奇跡を与えて導いておられるのです。私たちはイエス様の奇跡が与えられるとき、まさに自分を超えた存在になっているのです。さあ、さらに私に奇跡を与えてくださって導いてくださっているので、救いの奇跡、十字架を仰ぎ見つつ歩みましょう。力が与えられるのです。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架の救いを与えてくださり感謝致します。現実の生活を力強く歩ませてください。主イエス様の御名によって、アーメン。

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説教「すこやかな人生を歩む」

2024年2月4日、六浦谷間の集会

降誕節第6主日

                      

説教・「すこやかな人生を歩む」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨブ記23章1-10節、

   ヤコブの手紙1章2-8節

   ヨハネによる福音書5章1-18節

賛美・(説教前)讃美歌21・289「みどりもふかき」

   (説教後)讃美歌21・527「み神のみわざは」

 すこやかな体を持つことが願いですが、すこやかな体を持ちつつも、精神的には悩みつつ歩む場合もあるでしょう。また、逆に体に障害があり、それらの人を見ると「お気の毒に」と思う場合もあるのですが、しかし、ハンディキャップを持ちつつもすこやかに過ごされておられる皆さんもおられるのです。今年はフランスでオリンピックが開催されることになり、それと共にパラリンピックが開催されます。ハンディキャップを持ちながらも、スポーツの世界で力強く活躍しているのです。報道関係でもパラリンピックに出場する人々を紹介することが多いようです。なるべく多くの皆さんがパラリンピックを応援し、観戦してもらいたいこともあります。ハンディキャップを持つ皆さんの競技を体験していることも報道されています。目が見えない人の競技を体験するために、目を覆って見えなくし、競技を体験することでした。そのような傾向は、ハンディキャップを持つ人々を体験し、理解が深まると思います。イエス様が病気の人を癒されたとき、イエス様は必ず心の励ましを与えています。「あなたの信仰があなたを救ったのですよ」と言われているのです。体が回復されるとともに、心も健やかに導いておられたのです。今朝の聖書から「すこやかに導かれる」歩みをしたいのです。

 今、置かれている状況を神様に投げかけること、それが今朝ヨブ記23章の主題となります。ヨブ記は1章、2章で主題が設定されています。人間は神様の前にどう生きるかであります。天上において神様の前に天使たちが集まります。神様は天使サタンに言うのです。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」。これを聞いた天使サタンは神様に反論します。つまり、神様がお恵みを施しているから、ヨブは信仰があると言い、お恵みが無ければ神様を呪うというのです。神様は天使サタンがヨブに害を与えることを許します。それにより、ヨブの財産は無くなり、10人の子ども達まで失ってしまうのです。しかし、ヨブはお恵みが無くなったからと言って神様を呪いません。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」というのでした。天使サタンは、「ヨブは自分自身に命の害が無いので、そんなことを言うのです。彼の体に害があるなら神様を呪う」と主張します。天使サタンは神様のお許しを得て、ヨブに危害を与えます。ヨブは全身に皮膚病ができ、陶器のかけらで体中をかきむしるようになりました。そういう中でも、ヨブは神様を呪いませんでした。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」というのでした。

苦難のさなかにあるヨブを三人の友人が見舞うのですが、その中でも最年長者のエリファズがヨブを説得しているのが22章です。このようにヨブが苦しむのは、結局は罪の故であり、悔い改めない限り癒されないとして説得しているのであります。そのような説得は因果応報的な考えであります。今朝の聖書23章はヨブの反論です。「今日も、わたしは苦しみ嘆き、うめきのために、わたしの手は重い。どうしたら、その方を見出せるのか。その方にわたしの訴えを差し出し、思う存分わたしの言い分を述べたいのに。答えてくださるなら、それを悟り、話しかけてくださるなら、理解しよう。」

 この現実の意味を知りたいとヨブは叫んでいます。友人達が口を揃えて、お前の罪の故だと言うのですが、身に覚えのない罪であり、一口に罪を悔い改めなさいと言われてもできるはずがないのです。神様こそ現実の意味を示される方であると信じているヨブでした。答えてください、悟らせてくださいと叫んでいるのです。神様だけはわたしを真実に証明してくださると信じています。このわたしは人の評価ではなく、神様のみが正しく評価してくださるのであります。叫んでも叫んでも、この声は受け止められないのですか。神様は何処におられるのですか。どうぞ、僕の声を受け止めてくださいと独白が続けられます。

 ここに至って、ヨブは神様が自分を捕らえてくださっていることに大きな希望をもっているのです。現実を見る限り、それは悲しみの現実です。その現実から目をそむけたくなります。しかし、この現実は紛れもない現実なのであります。この現実を真実受け止めるとき、私たちはその現実にこそ神様の御心があり、導きがあることを示されるのであります。苦しい、悲しい現実であるが故に、逃げたり、別の自分になろうとする私たちへの警告であります。

 置かれている状況を神様に投げかけること、このヨブ記の示しを受けつつ、ヨハネによる福音書5章のメッセージとなります。エルサレムには羊の門の傍らに、「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊がありました。この回廊には病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていたのであります。つまり、池の周りに長い廊下のような小屋が建てられており、そこには多くの病の人がいたというわけです。その中に38年間も病気で苦しんでいた人がいました。イエス様はこの池にやってきて、横たわっている38年間病気の人に、「良くなりたいか」と声をかけたのであります。何か不思議な問いでもあります。38年間も病気であり、良くなりたいのは当然であります。しかし、あえてイエス様はそのような質問をしたのでした。それは、イエス様の問いに、38年間病気である人の答えに現れているのです。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りていくのです」と言っています。ベトザタの池は間欠泉であるようです。地面から新しい温泉が出てくる、その新しい温泉を浴びることで病が癒されると信じられていたのでした。従って、池の水が動き出すと、五つの回廊にいた人たちが一斉に池の中心に向かいますから、池の中はいっぱいになり、入れなくなるということです。38年間病気の人はそのような言い訳を言っているのであります。イエス様が「良くなりたいか」と聞かれた意味がここにあるのです。つまり、この人は、誰かがこの人を抱っこして水に入れてくれなければ治らないと思っています。しかし、誰も自分を水に入れてくれないと諦めきっているのです。

 「良くなりたいか」とイエス様が尋ねたのは、あなたは誰かの助けではなく、まず自分を神様に投げかけなさいと示しているのであります。今の状況、38年間病気であること、誰も助けてくれないこと、一人さびしく治らないと思い込んでいることを神様に投げかけなさいと言われているのです。自分であのようでなければ駄目だ、このようでなければ駄目だと決めるのではなく、そのままの姿を神様に投げかけなさいと導いておられるのです。そして、イエス様は言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。38年間病気の人は、今まで考えたこともないことを言われたのです。驚きました。何か新しい自分になっていることを知ります。歩ける思いが強くなっていきます。そして、立ち上がり、言われたように、床を担いで歩き出したのでありました。叫び求める人々にはお答えになり、叫ぶことを知らない人々には、自分を神様に投げかけることを教えておられるのです。「なおりたいのか」とイエス様は私たちにも問いかけておられます。「治りたいのは、当たり前でしょ」と言わないで、もう一度、自分の現実を見つめることなのです。そして、この現実を、そのままイエス様に投げかけることを示しているのであります。

 イエス・キリストは十字架にかけられる前、ゲッセマネの園でお祈りをいたしました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。杯とはイエス様が十字架にかかることですが、自分の気持ちにおいては十字架にはかかりたくないのです。しかし、すべてを神様に委ねられたのであります。そして、十字架にかけられ、いよいよ息を引き取るとき、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのであります。どうして神の子イエス・キリストがこのような叫びをするのだろうか、と思われるのでしょうか。一人の人間としてこの世に現れたイエス様です。死の苦しみは人間の苦しみなのです。絶望の叫びでもあります。しかし、この絶望の叫びを神様に向けているのです。

 人々の叫びを受け止め、叫ぶことのできない人々には叫びを示したイエス様は、自らが神様に叫びを上げていたのです。このイエス様に示される叫びを私たちも持ちたいのです。自分の何もかも、どのような状況でも、この私を神様に投げかけることです。そうすれば祝福が与えられますとは申しません。そのようなことを言えば、極めて人間的な理解になるからです。今朝の示しは、この自分を神様に投げかけるということなのであります。そのことで、「すこやかへと導かれる」のです。「すこやか」になること、私たちは健康な身体、日々楽しく、心配なく過ごすことを思いますが、「すこやかへと導かれる」とは、いつも、自分を神様に投げかけて歩むことなのです。新しい自分へと導かれるのです。神様に自分を投げかけても痛みは続くでしょう。その痛みは神様が受けとめてくださっているのです。私を励ましてくださっているのです。

<祈祷>

聖なる神様。何事も神様に投げかけ、現実をしっかりと受け止めつつ歩めるようにしてください。主イエス・キリストによって。アーメン。

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説教「救いを教えられる」

2024年1月28日、六浦谷間の集会

降誕節第5主日

                      

説教・「救いを教えられる」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨブ記22章21-30節

   ヨハネの手紙<二>4-11節

   ヨハネによる福音書8章31-38節

賛美・(説教前)讃美歌21・288「恵みにかがやき」

   (説教後)讃美歌21・507「主に従うことは」

 クリスマス以後は、イエス・キリストが成長し、人々に現れて、救いを与える記録が聖書に示されます。しかし、聖書はイエス様の伝記を記しているのではなく、救いを与えてくださる存在として証しをしているのです。従って、少年時代に両親と共に都に行き、両親がイエス様を見失ったことなどが記され、また青年時代にバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことが記されますが、その後はイエス様の救いを示しているのです。今朝はイエス様の教えが示されています。そのイエス様の教え、救いをいただいて私達も人々に証しするのですが、すぐに教えを信じる人は少ないと言えるでしょう。今朝のイエス・キリストを示される時、孤独な姿を示されます。イエス様も人々が理解できない中で、神様の御心を教え続けたのでした。今朝は「教えるキリスト」が主題であり、イエス様が教え続けておられることを示されるのです。信仰は孤独であります。ただ神様を仰ぎ見つつ歩むこと、人々の理解がなくても、その歩みこそ祝福なのであり、本当の自由を与えられた者としての歩みなのです。イエス様の教えをいただく時、自由なる者としての歩みとなるのです。

 旧約聖書ヨブ記が示されています。旧約聖書は39の書物が聖書となっていますが、それらは歴史書、文学書、預言書に分けることができます。ヨブ記詩編と共に文学書であります。従って、歴史的に登場した人物を記すのではなく、文学的に設定された人物群を通して神様の御旨を示しているのであります。ヨブ記は1章、2章で主題が設定されています。人間は神様の前にどう生きるかであります。天上において神様の前に天使たちが集まります。神様は天使サタンに言うのです。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」。これを聞いた天使サタンは神様に反論します。つまり、神様がお恵みを施しているから、ヨブは信仰があると言い、お恵みが無ければ神様を呪うというのです。神様は天使サタンがヨブに害を与えることを許します。それにより、ヨブの財産は無くなり、10人の子ども達まで失ってしまうのです。しかし、ヨブはお恵みが無くなったからと言って神様を呪いませんでした。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」というのでした。天使サタンは、「ヨブは自分自身に命の害が無いので、そんなことを言うのです。彼の体に害があるなら神様を呪う」と主張します。天使サタンは神様のお許しを得て、ヨブに危害を与えます。ヨブは全身に皮膚病ができ、陶器のかけらで体中をかきむしるようになりました。そういう中でも、ヨブは神様を呪いませんでした。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」というのでした。

苦難のどん底で苦しむヨブを三人の友人が見舞いに来ます。そして、順次見舞いの言葉と共に、ヨブに言い含めるのです。すなわち、あなたがこのように苦しんでいるのは、あなたが罪を犯したためであり、だから速やかに神様に罪を悔い改めなさいということでありました。悪いことをしたから苦しむ結果になる、すなわち因果応報的な考えであります。三人の友人は大変立派なこと、あたかも神様のお心であるかのように、ヨブに述べています。しかし、結局は因果応報的な解釈であり、この現実は明らかに罪の故であるとするのです。それに対してヨブは、何ゆえ正しい者が苦しまなければならないのか、と反論しますが、ヨブ自身も因果応報的に受け止めているのです。今朝の聖書はヨブ記の22章であり、見舞いに来た友人、エリファズの説得であります。エリファズは、「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう」とヨブに言っていますが、根源にあることは因果応報の論理であり、それは極めて人間的な結論であるのでした。良いことをすれば祝福があり、悪いことをすれば不幸になるということ、これは人生訓的でもあり、格言的なとらえ方なのであります。人間が考えた祝福であり、呪いでもあるのです。このような人間的な善悪の判断でよいのかということが旧約聖書の問いかけでもあるのです。人間が、真に命に導かれるのは神様の示しなのであり、人間の人生訓ではないことを示したのがヨブ記でありました。

 ヨハネによる福音書にはイエス様と人々の会話がかみ合っていません。 かみ合わない対話の中にイエス様は真理を示し、神様の御旨を示しているのです。今朝の聖書は8章31節からでありますが、イエス様が示そうとしていることは8章1節以下に記される出来事、すなわち人間の救いということなのです。ここには一人の罪を犯した人について記されています。一人の人が罪を犯したというので、人々はその人をイエス様のところに連れてきます。このような人は石で打ち殺せと律法に記されているが、あなたならどうするか、とイエス様に詰め寄るのです。明らかにイエス様の答え方次第で、訴える口実を作るためなのです。どうするのか、どうするのかと答えを迫っている人々に対して、イエス様はかがみ込み、指で地面に何かを書き始めていました。しかし、人々がしつっこく問い続けるので、身を起こして言われるのでありました。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この人に石を投げなさい」と言われ、再び身をかがめて地面に書き続けられたのでありました。イエス様の言葉を聞いた人々は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、連れてこられた人だけがそこにいるのでした。つまり、人を裁いていますが、自分自身を考えてみれば、自分は罪がないとは言えないのです。「あの人たちは何処にいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」とイエス様は言われ、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのであります。イエス・キリストは裁くためではなく、一人の存在を真に生かすために来られていることを示しているのです。そして、その後のかみ合わない対話も、イエス様が救いについて示しているにも関わらず、理解しない人々なのであります。

 その後、イエス様は12節で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。すると人々は、「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と否定します。そのような対話があって、今朝の聖書は、イエス様が「わたしはある」という存在であることを示しているのです。すなわち、救い主であることを証しているのでありますが、人々は常識的な範囲でしかイエス様を理解することはできないのでありました。

 ヨハネによる福音書はかみ合わない対話、人々とイエス様の対話が次々に示されています。そのことはヨハネによる福音書2章23節以下に記されることが基となっているのです。このように記されています。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と示されています。イエス様の証しに対して、人間は極めて常識的な判断しかできないと示しているのです。それはヨブ記でも示されたように、あたかも神様の御旨であるかのように教え諭していること、因果応報的に示すことしかできないことであります。神様の御旨として受け止めていることの中には、私の思い、希望がたくさん含まれているのです。人間の教え、人間の理解である限りイエス・キリストの教えは信じられないのです。イエス様の教えを信じること、それが主の教えに向かうことであり、私が真に生きる者、自由に生きる者へと導かれることなのです。

 イエス・キリストの教えは人間の救いであります。聖書に向かうとき、人それぞれがイエス様の救いの教えに導かれるのですが、私自身がイエス様の救いの教えをいただいています。先ほども示されましたが、人々が罪を犯した人を連れてきて、「イエス様ならこの人をどうするか」と迫りました。その時、イエス様は「あなたがたの中で、罪を犯したことのない人が、この人に石を投げなさい」と言っています。結局、人々はだれもいなくなりました。当時の社会はユダヤ教の社会で、中心は十戒の教えでした。その十戒には、「あなたは殺してはならない」との戒めがあります。普通に生活をしていれば、殺すことはしません。だから、自分は戒めを守っていると思います。しかし、イエス様は「他者を心の中で憎んだら、殺したのである」と示したのであります。イエス様は、十戒の再解釈をしています。それはマタイによる福音書5章に示されています。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、欲するな」などの教えでありますが、人々は表面的には十戒を守っているのです。しかし、イエス様は表面的ではなく、内面的に守りなさいと教えているのです。内面的に、私の存在すべてにおいてイエス様の十戒の再解釈の教えをいただくことにより、「救いを教えられる」のであります。何よりもイエス様は十戒を二つにまとめたことです。「神さまを愛し、自分のように隣人を愛しなさい」と教えています。救いの教えであります。この教えを基として歩むことが救いの原点なのであります。

<祈祷>

聖なる御神様、主の教えに向かわせてくださり感謝いたします。十字架の主に真に向かわさせてください。主の名によって祈ります。アーメン。

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説教「新しい歩みが導かれ」

2024年1月21日、三崎教会

降誕節第4主日

                      

説教・「新しい歩みが導かれ」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記33章12-17節

   ヨハネによる福音書11章1-11節

賛美・(説教前)讃美歌21・281「大いなる神は」

   (説教後)讃美歌21・471「勝利をのぞみ」

 今朝はイエス・キリストが神様の御心を人々に伝える最初の頃を示しています。イエス様が現れた時代はユダヤ教の社会です。その時代の人々は旧約聖書で示された十戒が基準であり、十戒を教える人々、模範的に実践する人々が社会的にも重んじられていたのです。そのような固い地盤の中にイエス様が宣教を開始されたのです。宣教とは神様の御心を人々に示すことです。しかし、イエス様が宣教を開始しても、今までの生き方があり、なかなか新しい教えを受け入れられないのでした。今朝の新約聖書は「カナの婚礼」についての示しですが、困難な時代にイエス様がどのように御心を示したのか、そのお示しが現代の私達に示されているのです。私たちもイエス様の御心へと導かれたいのであります。

 今朝の旧約聖書出エジプト記であります。聖書の人々はヤコブの時代にエジプトで寄留することになります。それは全国的に冷害に見舞われ、食糧の危機でありました。神様のお導きで、ヤコブの11番目の子どもヨセフがエジプトの大臣になっていました。その経過については割愛しますが、聖書の人々はエジプトに寄留することになるのです。後の時代になって、聖書の人々がエジプトに寄留していることを知らない王様となり、この国によその国の人々が住んでおり、しかも次第に増えてくることに不安を持ち、奴隷としてしまうのでした。それからは聖書の人々の苦しい時代になります。その苦しみを救ったのがモーセでした。神様はモーセを選び、奴隷の人々を解放させたのです。解放までには紆余曲折がありますが、ついにエジプトの王様は解放を許すのでした。

 そして、その後は神様が示す土地へとめざして旅が始まるのです。その旅は40年間ともいわれています。そんなに長く荒れ野をさまようのは、聖書の人々の不信仰があったからです。今朝の聖書は、その荒れ野の旅の途中であります。神様は御心に従わない聖書の人々なので、もはや共にはいないとモーセに示すのでした。神様が共におられるから、希望をもって旅ができるのであり、モーセは神様に切に求めているのです。「お願いです。どうか、この国民があなたの民であることにお目をお留めください」とお祈りしています。神様が、もはやこの民とは共にいないと言われるのは、聖書の人々の不信仰があるからです。エジプトからの解放という大きな神様の救いを経験しながら、いつも不平、不満を述べているのです。食べ物が無くなったといってモーセに詰め寄ります。飲む水がないといってはモーセに詰め寄るのです。そのような不信仰な人々ですが、神様はマナと言う食べ物を毎日与え、飲む水も与えで荒れ野の旅を導いていたのです。今、もはや人々とは共にいないといわれるのは、人々の悔い改めのためなのです。悔い改めて神様の御心に従うという人々に対して、「わたしはあなたの前にすべての善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとするものを恵み、憐れもうとする者を憐れむ」とお答えになられたのでした。こうして、人々は信仰をもって荒れ野の旅を導かれることになったのです。「主という名を宣言する」といわれています。救いの神様であることを宣言すると言われているのです。自分勝手な生き方ではなく、「主という名」の存在が導いてくださっているという信仰を持つことです。「主」という名ということですが、神様の名前を示しているのですが、「主」は名前ではありません。本来、神様の名前はヤハウェという固有名詞です。昔はエホバと称していました。最初に聖書を訳した人たちは、読み方が分からなくてエホバと訳したのですが、その後の研究でヤハウェと読むことにしたのです。ところがモーセシナイ山十戒を与えられた時、その戒めの中に「あなたの神、ヤハウェの名をみだりに唱えてはならない」と示されています。そのため、聖書の人々は神様の名のヤハウェと言わないで、その代わりにアドナイというのでした。このアドナイが日本語で「主」なのです。昔の文語訳聖書は神様の名前のエホバをそのまま記していました。その後、口語訳聖書になった時、聖書の人々が、神様の名のエホバと言わないでアドナイと言っているので、神様の名のエホバを「主」と書くようになりました。そのため、聖書には神様の固有名詞が書かれてないので、現代の人たちは本当の神さまのお名前を知らないということです。

3.

 今朝のヨハネによる福音書2章は「カナの婚礼」の場面ですが、その終わりに、イエス様が「最初のしるしをガリラヤのカナで行われた」と示しています。つまり、イエス様は人々に神様の御心を示す前に、神様の御業を示されたのでした。それは、この後もいろいろな形で御業を示すのですが、旧約聖書で示されますように、「主という名」が前にある生き方を示されているのです。ガリラヤのカナという村で婚礼が開かれました。イエス様もお弟子さんたちもその婚礼に招かれているのです。そして、イエス様の母でもあるマリアさんも婚礼のお手伝いに来ていました。その婚礼が賑やかに行われていたようですが、婚礼にはお祝いのぶどう酒が振舞われています。お祝いであるので、その振る舞いのぶどう酒が無くなってしまうのです。そこでマリアさんがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と報告するのでした。マリアさんがイエス様に、ぶどう酒がなくなったからどうにかしてください、とお願いしているのではないのでしょう。マリアさんもイエス様にそのような力があるとは思っていないでしょう。その時、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われたのですが、意味不明の言葉でもあります。「わたしとどんなかかわりがあるか」と言われたこと、マリアさんのイエス様への思いを示しているのでしょう。イエス様がお生まれになった時、羊飼いさんたちが喜びつつイエス様を拝みに来ました。その時、マリアさんは羊飼いさんたちがイエス様を拝んだことで、マリアさんは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らした」とルカによる福音書は報告しています。それらの関連から示されるならば、まだイエス様の宣教は始められたばかりであり、神様の御業を現されていないのですが、イエス様という存在に重い存在を感じていたマリアさんであると示されます。マリアさんは召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っているのです。

 マリアさんに対して、ぶどう酒がなくなったことには無関心であるように見受けられますが、イエス様は召し使いたちに、そこにある「石の水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われたのでした。ぶどう酒がなくなったのに、水がめに水を入れることに何の意味があるのでしょう。しかし、召し使いたちは、マリアさんがこの人のいうことを、「そのとおりにしてください」と言われているので、イエス様のいうとおりにしたのでした。召し使いたちがかめにいっぱい水を入れたとき、「それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と言われたのでした。世話役がそれを味見すると、とてもおいしいぶどう酒になっていたのでした。それで世話役は、花婿に「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を取っておかれました」といって称賛したのでした。イエス様の神様の御業であることは知りません。知っているのはマリアさんと召し使いたち、またイエス様お弟子さんたちでありましょう。そして、この出来事の終わりに、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と記しています。そして、そのことでお弟子さんたちは、イエス様についてきたのですが、この最初のしるしにより、イエス様を信じたのでありました。

 この最初のしるしは、お弟子さんたちにとって、旧約聖書で示されている「主という名」がいつも前にあるという信仰として導くことになるのです。イエス・キリストは、「主という名」であり、前に立って導いてくださる方なのです。

 私たちは、いつも「主」という言葉を使っています。「主人」とか「主婦」と言っていますが、この場合には中心的な存在の意味で使っています。ところで聖書を開くと、ほとんど「主」という言葉で示されています。それについては先ほども示されました。神様の固有名詞はヤハウェ、エホバですが、「みだりに神様の名前を唱えてはならない」という十戒の戒めがありますから、神様の名を唱えるときは「アドナイ、主」と言う言葉で唱えているのです。そうすると、私達は「主イエス・キリスト」と言っていますが、「アドナイ・イエス・キリスト」ということになり、「エホバであるイエス・キリスト」と無意識に唱えているのです。讃美歌21を見ると実に70の讃美歌が「主」という言葉で始まっています。讃美歌21の484番は「主われを愛す」です。いつも感銘深く歌っています。ここで歌っている「主」とはイエス様であります。しかし、聖書の全体的に示されるならば、「アドナイわれを愛す」であり、さらに「エホバわれを愛す」と歌っているのです。「主」はイエス様ですが、そのイエス様がエホバ、神様であるということです。今朝は「新しい歩みが導かれ」と題しての聖書の示しをいただいています。新しい歩みとは、今朝の聖書で示されましたように、私達は「主という存在」に導かれているということです。その「主」の存在は十字架によって示されているのです。

<祈祷>

聖なる御神様。救い主の存在が私達の生活の中にありますこと感謝いたします。「主という名」によりお導きください。主のみ名により、アーメン。

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説教「御心を示されながら」

2024年1月14日、六浦谷間の集会

降誕節第3主日

                      

説教・「御心を示されながら」、鈴木伸治牧師

聖書・サムエル記上3章1-10節、

   ガラテヤの信徒への手紙1章11-24節

   ヨハネによる福音書1章35-51節

賛美・(説教前)讃美歌21・287「ナザレの村里」

   (説教後)讃美歌21・432「重荷を負う者」

  今朝は主イエス・キリストが世に現れたとき、最初にお弟子さんになった人々を示されながら、私たちも弟子としての歩みを導かれたいのであります。弟子は師である先生を見つめ、指導をいただき、次第に師である先生に近づいていくのであります。しかし、まったく師である先生と同じになってしまうのではなく、師である先生の真理を受け止めつつ、私に与えられた賜物により、師である先生の教えと真理に生きることであります。イエス・キリストが福音を与えてくださいましたが、選ばれた最初のお弟子さんたちも、イエス様の福音を人々に伝えながら歩んだのであります。今朝のヨハネによる福音書によりますと、最初にイエス様に従ったのはアンデレさんと言われます。そのアンデレさんが兄弟のペトロさんをイエス様のところへ連れて行きました。そして、ペトロさんは選ばれた12人のお弟子さんたちの中心になって、イエス様に従い、その後は人々にイエス様の福音を宣べ伝えたのです。イタリアのローマ、ヴァチカンの中心はサン・ピエトロ大聖堂ですが、そこに祀られているのはペトロさんであります。ペトロさんの信仰を中心にしているのがカトリック教会であるのです。私たちはプロテスタント教会ですが、明治以来、外国の宣教師たちがイエス様の福音を伝えたので、多くの皆さんが信仰へと導かれているのです。喜びを与えられる。その喜びを人々に伝えること、それが伝道でありますが、伝道された者は、自らも伝道者になることです。イエス様の最初の弟子たちの伝道を示されながら、私達も伝道者へと導かれたいのであります。

 今朝の旧約聖書サムエル記上3章に記される少年サムエルのお話は意味深く示されます。サムエルの母ハンナさんは子どもが与えられないので、神殿に行ってはお祈りをささげていました。そのことは1章の初めの部分に記されています。1章10節、「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげします。』」とお祈りするのでした。この祈りを神様は聞いてくださり、ハンナさんに男の子が与えられ、サムエルと名付けたのでした。そして、ハンナさんはお祈りしたとおりに、サムエルが乳離れすると共に、まだ幼いのでありますが、神の宮にいる祭司エリさんのもとへ連れて行ったのでありました。サムエルは幼くして宮に仕える者となり、エリさんの指導で成長するのでありました。

 今朝の聖書は、もはや少年になっているサムエルです。「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」という時代でした。サムエル記の前はルツ記、その前は士師記であります。士師記は、一時的に現れた強い人が聖書の人々を救ったという記録です。聖書の人々はエジプトから脱出し、40年間荒野を彷徨し、ようやく神様の約束の地・カナンの土地に定着したのであります。定着したものの、もともとそこに住んでいた人々が、聖書の人々を攻撃してきますので、そのようなときに、地域的に強い人が現れ、敵から守ったのが士師といわれる人たちでありました。これらの士師たちは聖書の民の全体を救ったというのではなく、地域的な救済でありました。「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることはまれであった」と言っているのは、そのような時代的な背景であったからです。つまり、全体的には平穏な社会であったということなのです。しかし、サムエル記をもって今までの12部族宗教連合は終わりを告げ、一つの王国となるのであります。風雲急を告げてきたからでありました。周辺の国々は王国であり、結束して攻めてくることにより、連合体としての聖書の人々は対抗できないのであります。サムエルさんの時代に王国となり、サムエルさんは王国の見張り役として生きたのでした。

 少年サムエルに主の御心が示されることが今朝の聖書であります。今、少年サムエルに神様の呼び声が聞こえてきます。夜、寝ているサムエルは呼び声を聞いたので、祭司エリさんのもとへ行きます。「お呼びになったので参りました」というと、エリさんは「わたしは呼んでない。戻ってお休み」と言います。そのようなことが三度あったとき、エリさんはサムエルを呼んでいるのは神様であることを知るのでした。従って、今度呼ばれたら、神様に向かって答えなさいと示すのです。そして、サムエルを呼ぶ声がしました。その時、サムエルは「どうぞお話しください。僕は聞いております」と神様に向かって答えたのでした。神様は少年サムエルに、これから神様が行うべきことを告げます。3章19節に記されるように、「主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた」のであります。「どうぞお話しください。僕は聞いております」との姿勢こそ、お弟子さんとしての歩みなのです。

 ヨハネによる福音書の今朝の聖書は「最初の弟子達」であります。最初に弟子になったのはアンデレさんでありました。彼は、最初はバプテスマのヨハネの弟子でしたが、師であるヨハネさんがイエス・キリストを指して、神の小羊だと言ったので、そのイエス様の後をついて行くのです。すると、イエス様が「何を求めているのか」と声をかけてくれるのです。そのアンデレさんが兄弟シモンさんをイエス様のところへ連れて行きます。すると、イエス様はシモンに声をかけます。「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩という意味)と呼ぶことにする」というのでありました。このシモンがペトロと呼ばれるようになります。そして、イエス様は、今度はフィリポさんに出会い、「わたしに従いなさい」と声をかけます。フィリポさんは友達のナタナエルさんをイエス様のところに連れて行こうとします。するとナタナエルさんは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言って誘いを断るのですが、フィリポと共にイエス様のところに行きます。するとイエス様はナタナエルを見て、「まことのイスラエルの人だ。この人には偽りがない」というのです。「どうしてわたしのことを知っておられるのですか」と言うナタナエルに、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われたのでした。するとナタナエルは、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言います。イエス様は言われます。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と言われ、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われるのでした。「人の子」とはイエス様のことです。天が開け、天使たちが主イエス・キリストのもとに天を昇ったり降ったりするのを見る、つまり、神の国がこの世に実現するのを見ることになりますよ、と示しているのであります。旧約聖書・創世記で、ヤコブが石を枕にして野宿しています。その時、夢を見るのです。天にまで達しているはしご・階段があり、御使いたちがその階段・はしごを登ったり降ったりしているのです(創世記28章10節以下)。このことは、神様の御心の国が実現することを意味しているのです。天が開け、天使たちがイエス様のもとに昇り降りする様は、まさに神の国の実現なのであります。そのために声をかけられたのがアンデレ、ペトロ、フィリピ、ナタナエルでありました。そして、旧約聖書はサムエルを示しているのです。これらの人々はイエスの招きを聞きました。そして、彼らはイエス様のお弟子さんとして、イエス様に従うことになりました。「主よ、お話ください。僕は聞いております。」と神様に向かうことこそ、私たちに求められていることなのです。

 イエス様の福音、喜びの導きを私達もいただいています。そして、この福音を人々にお伝えしているのです。何をどのようにお伝えしているのか、と考える必要はありません。イエス様の十字架の救いを信じて、喜びつつ歩むこと、そのことで人々への証しとなり、イエス様の救いの証しを人々にお伝えしているのであります。今朝はガラテヤの信徒への手紙が示されています。パウロさんという人の証しが記されています。パウロさんは、もとはユダヤ教を熱心に学ぶ人でした。その熱心さが、その頃、次第に増え広がってきたイエス様の救いです。パウロさんはそれが面白くなく、イエス様を信ずる人々を迫害し始めるのでした。ダマスコとい町にいるイエス様を信じる人々を迫害するために出かけたとき、復活のイエス様のみ言葉を聞くことになるのです。「パウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」との声を聞いたとき、彼は初めて目が開かれ、イエス様を信じる者へと導かれたのでした。パウロさんの回心については使徒言行録9章に記されています。今まで迫害していたイエス様の教えをいただく者になったとき、イエス様を信じる人々はパウロさんを恐れて近づかなかったのですが、パウロさんの熱心な証しを受け止めるようになりました。パウロさんはイエス様の十字架の救いを人々に示すため、多くの手紙を書いています。新約聖書の多くはパウロさんが書いているのです。イエス様を信じる人々を迫害していたパウロさん、しかし、今は熱心なイエス様を信じる人になり、その喜びを多くの人々に伝えたのでした。私たちもイエス様の御心を示され、お弟子さんとしての歩みを導かれているのです。

<祈祷>

聖なる神様。主の弟子へと導かれ感謝致します。いよいよ師である主イエス様を仰ぎ見つつ歩ませてください。キリストのみ名により、アーメン。

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説教「救いの始まり」

2024年1月7日、六浦谷間の集会

降誕節第2主日

                      

説教・「救いの始まり」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書42章1-9節、

   エフェソの信徒への手紙2章1-10節

   ヨハネによる福音書1章29-34節

賛美・(説教前)讃美歌21・280「馬槽のなかに」

   (説教後)讃美歌21・494「ガリラヤの風」

  新しい年を迎えました。2024年の歩みが、祝福の歩みであった2023年を基にして、いよいよ祝福の年となることを願っています。

 今朝は新年の一回目の礼拝としてささげています。キリスト教の暦で言えば、今朝からイエス・キリストの最初からの救いを示されるのであります。昨日は1月6日であり、まだクリスマスとしての歩みでした。その1月6日が公現日、顕現祭でありまして、東の国の占星術の学者達が、救い主としてお生まれになったイエス・キリストベツレヘムでお会いしたのであります。羊飼いは聖書の国の人々ですが、占星術の学者達は外国人であります。イエス・キリストの福音は、お弟子さん達のペトロさんやパウロさんの働きにより世界の人々に伝えられたのでありますが、むしろ最初から世界の人々に福音が与えられていたのであります。従って、12月25日のクリスマスよりも1月6日の顕現祭を重んじる国々があるのです。

 2015年はその顕現祭をバルセロナで体験しました。2014年の10月21日にバルセロナに渡ったのですが、スペインのクリスマスを体験するために翌年の2015年1月7日まで滞在しました。クリスマスは1月6日の顕現祭までだからです。顕現祭には広場に大勢の人々が集まります。東の国の占星術の学者が船に乗ってバルセロナにやってくるのです。その学者たちが広場に造られた舞台に座りますと、伴の者たちが人々にお菓子を配って歩くのです。学者の前では、イベントが行われ、それを囲んで見ている人々の歓声等で大変な騒ぎになります。これらの状況をテレビを見ながらその模様を知りました。顕現祭はクリスマスなのですが、三人の学者が中心であり、お生まれになったイエス様のことは何一つ言われないのです。日本のサンタクロース中心のクリスマスと言う印象でした。

 顕現祭が終わることによってクリスマスが終わることになります。従って、クリスマスは昨日で終わり、今朝の聖書からイエス様の救いのメッセージを示されることになるのです。クリスマスが終わったとき、聖書は、改めてイエス・キリストの最初からの救いを示すのであります。今朝はイエス様の洗礼が主題となっています。イエス様の洗礼を通して「救いの始まり」を示されたいのであります。

  旧約聖書には、神様が遣わす僕としていろいろな人が登場します。エジプトの奴隷から人々を救い出したモーセ、周辺の国々から苦しみを受けるときに立ち上がったのが士師たちでした。ギデオン、サムソン等が聖書の人々を救ったのです。そして、名君といわれたダビデがいます。偉大な王様であったので、もう一度ダビデの出現を願っていたのです。その後、預言者たちの働きがあります。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等の預言者たちが神様の御心を示し、人々に希望を与え、導いたのであります。

 今朝の旧約聖書イザヤ書であります。イザヤ書の背景は、聖書の人々がバビロンという国に捕われの身にあります。捕われの異国の空の下で、悲しみと苦しみの生活を余儀なくされているとき、預言者イザヤは神様のお心を示すのであります。あなたがたのために神様が僕を選び、あなた方を救うと宣言しています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と言い、「彼の上にわたしの霊を置く」と言われています。神様が選んだ僕があなた方を救うというのです。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」と悲しみと苦しみに疲れ果てている人々に述べているのです。もともとバビロンに捕われの身になるのは、指導者の責任でもありますが、人々自身にも責任があるのです。歴史を通して導いておられる神様の御心に従わなかったからでした。しかし、神様はこの人々に主の僕を送り、助け出すというのです。「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩くものに霊を与えられる」と示しています。すなわち、神様のお造りになった大地に生きる者には神様の息が与えられ、霊が与えられて力強く生きる者へと導かれることを示すのです。神様の息、これは創世記でしばしば教えられていることです。すなわち、神様は天地をお造りになりました。人間は最後に造られます。神様は土の塵で人を形づくります。いわゆる粘土で人の形を造るのです。しかし、それはまだ人間ではありません。その粘土で造られた人の形の鼻に命の息を吹き入れられたのでありました。「人はこうして生きる者になった」と記しています。神話物語ですが、ここに聖書の深い意味が示されているのです。人は生まれたままでは自己満足と他者排除の姿でしか生きられないのです。神様の息が与えられて、人間として基本的な歩みが導かれるのです。そして、この地を生きるとき、神様の霊が与えられ、人が共に生きる者へと導かれていくのです。神様の息を与え、霊を注ぐものとしての主の僕が現われますよ、とイザヤは人々に希望を与えています。これは預言の言葉です。しかし、人々は今に現われる主の僕の出現を待望しつつ、悲しみと苦しみに疲れ果てながらも、希望を持ちつつ歩んだのであります。

 その希望が実現しました、と証しするのが新約聖書ヨハネによる福音書であります。今朝のヨハネによる福音書1章29節以下はイエス様の洗礼について記しているのです。ヨハネによる福音書はイエス様の洗礼が主題となっていますが、イエス様が洗礼を受けたとも、受けていないとも記していません。しかし、はっきり記していませんが、やはりイエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。ヨハネによる福音書によりますと、バプテスマのヨハネは、イエス様が自分の方へやってくるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い、この方に霊が降ってとどまるのを見たと証しするのです。つまり、ヨハネによる福音書はイエス様が洗礼を受けたとはっきり記していないのですが、洗礼を受けることによって霊が降ったと証ししているのです。

 イエス様の洗礼については、例えばマタイによる福音書は、はっきりとイエス様が洗礼を受けたと記しています。マタイによる福音書3章13節以下、「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川ヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』。しかし、イエスはお答えになった。『今はとめないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです』。そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」と記されています。マタイによるメッセージは、イエス様がこの世に現われたとき、一人の人間として現われたことを示しています。

 今朝のヨハネによる福音書1章29節以下は「神の小羊」として証ししています。ヨハネは、自分の方へイエス様が来られた時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのです。聖書にイエス様は神の小羊であるとしているのがヨハネのメッセージであるのです。旧約聖書以来、小羊は救いの基でありました。聖書の人々がエジプトで400年間の奴隷であり、その苦しみから解放するために、神様はモーセを立てて救われたのでありました。なかなか解放しないエジプトの王様に、モーセは神様の審判を行います。その都度、王様は解放を宣言しますが、審判がなくなると、かたくなになり、さらに過酷な労働をさせるのでした。そして、ついに最後の審判が行われます。エジプトにいる最初に生まれたものは死ぬという審判でした。エジプトには奴隷の人々もいるわけです。そのため、審判のとき、奴隷の人々の家の鴨居と入口の二本の柱に小羊の血を塗るように命じられます。審判が始まり、エジプトの最初に生まれた人が死んでいくという恐ろしい審判が始まったとき、小羊の血が塗られた家は、神様の審判が通り過ぎて行ったのでした。ついにエジプトの王様は解放を宣言したのであります。従って、小羊は救いの基となったのであります。ヨハネによる福音書は、イエス様が神様の小羊として、人々を救うために現れたと証ししています。

 新しい年を迎えたとき、人々は、やはり新しい思いを持って歩みだしています。そのために神社仏閣に行っては新年のお参りをいたします。お参りと言っていますが、お願いであります。そのお願いは、家内安全、商売繁盛、合格祈願といろいろな願い事です。人間として当然のことでありましょう。人間の素朴なお祈りかもしれませんが、神社仏閣でお願いをする、心からお願いしているのです。キリスト教でも礼拝、ミサでお祈りをささげていますが、礼拝に出席する人々は神様に向かい、心からお願いをささげているのです。神様のお導きを信じているからです。

私たちは聖書を通してイエス様の救いを示されているのです。私達にとって、イエス・キリストが十字架にお架かりになることにより、救いを与えられたのですが、その救いを与えてくださったイエス様が現れたことは、「救いの始まり」として受け止めなければならないのです。

<祈祷>

聖なる御神様、救いの始まりを与えてくださり感謝いたします。救いの原点を示されて歩ませてください。キリストの御名により、アーメン。

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説教「お導きに委ねつつ」

2023年12月31日、六浦谷間の集会

降誕節第1主日

                      

説教・「お導きに委ねつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書11章1~10節

   ガラテヤの信徒への手紙3章26-節-4章7節

   マタイによる福音書2章1~12節

賛美・(説教前)讃美歌21・254「小鳥も飛び去る冬のさなか」

   (説教後)讃美歌21・510「主よ終わりまで」

今朝は2023年の最後の礼拝です。歳晩礼拝とも称しています。この一年を振り返って、いろいろなことを思い出しています。今朝は東の国の占星術の学者さんたちがイエス様にお会いし、喜びにあふれたことが示されています。その出会いが「顕現祭」、「公現日」、「栄光祭」とされています。外国では、特にこの顕現祭が大事にされています。

どこの国の人々もお祭り騒ぎが大好きです。日本では、秋には各地でいろいろなお祭りがありますが、10月にはハロウィンのお祭りで賑やかになります。ハロウィンが終わるやクリスマスのお祭りです。そして、お正月を迎えるのです。お正月はお祭り騒ぎと言うより、いろいろな行事があり、それはそれで楽しいのです。そして春を迎えるのですが、キリスト教の国ではカーニバルのお祭りがあります。イエス様が十字架への道を歩む前に、その時はイエス様のご受難を示されます。質素の生活をしますので、その生活が始まる前においしい食べ物を食べましょうということでカーニバルが開かれるのです。それは来年のことですが、まもなくお正月になり、神社仏閣には大勢の人々が出かけるようです。いつもテレビでその模様を見ていますが、混雑することは分かっていながら、皆さんは出かけるのです。大勢の人々との触れ合いが喜びなのでしょう。前週はクリスマス礼拝でした。久しぶりに大塚平安教会の講壇に立たせていただき、メッセージを取り次がせていただきました。礼拝後の祝会では皆さんと共にお祝いしました。皆さんと共に喜びを与えられたのですが、その様な喜びと共に、私たちは本当の喜びを与えられているのです。それはお生まれになられたイエス様にお会いすることです。救い主であるイエス様との出会いが、本当の喜びであるのです。今朝は東の国の占星術の学者たちがイエス様にお会いし、喜びにあふれたと示しています。私達も喜びにあふれる導きをいただきたいのであります。

 旧約聖書イザヤ書11章ですが、「平和の王」について示しています。聖書の国である南ユダは、当時大国として力を振っていたアッシリアの国に支配されるようになっています。その前に、同じ聖書の国であった北イスラエルはこのアッシリアによって滅ぼされてしまっていました。南ユダは滅ぼされないで支配されることになったのです。いわば降伏したからです。アッシリアに支配されていることは、支配されるままに生きることで、もはや戦いの心配もないわけですから、いわば平和の社会にもなっていたということです。そのような力における平和に生きる人々に、イザヤは真の平和を宣べ伝えているのが今朝の聖書であります。

 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」と示しています。エッサイの子どもがダビデであり、このダビデが成長して名君となりました。神様のお心をもって人々を支配し、導いたのであります。ダビデが油注がれた者として人々に救いを与えたのであります。これは昔のことでありますが、今また、神様はダビデのような救い主、メシアを出現させると言っているのです。そのメシアは、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」存在であることを示しています。メシアを待望して歩むことが大切であると示しているのです。

 さらにメシアが現れると、それこそ力の平和ではなく、真の平和が与えられることを示しているのです。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」と示しています。これこそ「平和」を示しているのです。小さい子供は攻撃する力はありません。しかし、その姿こそ力であり、神様の平和を示しているのです。インドの聖人とされているガンディーは「非暴力主義」で自由を勝ち取った人でした。戦いではなく、存在そのもので相手の前に立ちはだかったのでした。そして、アメリカのマーチン・ルーサー・キング牧師も、非暴力主義で人種差別撤廃運動に立ちあがったのでした。イザヤ書が「獰猛な野獣を子供が導く」と言っているのは、そのことであります。神様の平和が与えられているからです。「牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛も干し草を食らう」と平和の姿を示しているのです。

 主イエス・キリストがこの世に現れた時、神の子として、救い主として現れました。それは今朝のイザヤ書11章で預言されている「平和の王」そのものでした。人々に真の平和を与える存在として現れたのです。しかし、当時の世界はローマが支配者であり、初代皇帝になったアウグストゥスは人々から「平和の王」としてたたえられたのです。その時代に主イエス・キリストが現れた意味を聖書は深く示しているのです。「平和の王」は人間ではなく、メシアこそ真の平和を与えるものであると示しているのです。人間の「平和の王」は消えて行きましたが、メシアの「平和の王」は今日にありましても平和の基を導いておられるのです。その「平和の王」はイザヤが示すように「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」のであります。

現実の生活の中に神様の救いの「しるし」を見たのは、マタイによる福音書の証言は東の国の占星術の学者であったということであります。占星術の学者とは、ペルシャの国のゾロアスター教の祭司と言われます。彼らは天文学、薬学、占星術、魔術、夢解釈を行う人たちでした。当時の学問に通じた学者でありました。従って、ユダヤ教には関係ない人たちでしたが、彼らの生活の中で神様の「しるし」なるものを知ったのでありました。祭司の働きをしていますから、何事も神託を求めていたのであります。星を見つめているとき、今まで見たこともない星を見つけます。学者達は毎日、星空を見上げては、今日はどんな星が出ているのか、強い光の星、弱い光の星、大きい星、小さい星を見つめていたのです。不思議な星と思える星を見たとき、彼らはすぐに御神託と示されたのであります。神様が救い主を生まれさせてくださったと理解したのであります。そして、すぐに不思議な星、神様が日常の生活の中に与えた「しるし」の星を目指して旅立ったのであります。

 こうして遠い東の国、ペルシャからユダヤにやってまいりました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と人々に聞いて歩くのです。これを聞いたユダヤの人々は驚きました。今はヘロデという王様がいるのに、また新しく王様が生まれたのかということです。嫌な予感がします。ヘロデ王も学者達の言っていることを耳にします。穏やかなことではありません。早速、学者たちを呼び、「見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と学者達を送り出したのでありました。学者達は星に導かれて、ついに幼子のいる場所に来たのでした。学者達は喜びにあふれたと報告しています。いかにも物語でありますが、マタイのメッセージとして示されなければなりません。

 学者達が家に入ってみると、幼子はマリアと共におられたのであります。ルカによる福音書は、イエス様の生まれた場所は馬小屋であったと示していますが、マタイによる福音書は普通の家であります。普通の生活が営まれる家の中に生まれたということであります。学者達はひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのでありました。そして、このことを王様に知らせることなく、別の道を通って帰って行ったのでありました。ユダヤの普通の人々の生活の中に救い主がお生まれになったのであります。普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めなければならないのです。しかしユダヤの普通の人々は、自分達の普通の生活の中に、神様の救いの「しるし」を受け止めることができなかったのであります。神様が世の人々をお救いになるために、御子イエス・キリストをこの世に生まれさせたとき、聖書の人々ではなく、外国の人が最初にイエス様にまみえたと報告しているのであります。

 マタイによる福音書に示されている占星術の学者さん達について示されています。彼らは「お導きに委ねつつ」歩んだとき、ついに救い主とお会いすることができました。しかし、この記録の中に、間違いがあったことも聖書は記しているのです。星の導きは「先立つお導き」でした。彼らが都に入ったとき、その時は星の導きはなかったのです。星の導きに委ねていれば都に入ることはなかったのです。ところが彼らは星の導きではなく自分の思いを優先させたのでした。救い主であるから都に出現したのであろうとの思いです。それは自分の思いなのであり、先立つお導きではありませんでした。従って、彼らが都を出たとき、再び「先立つお導き」の星が現れたと記しています。先立つお導きに委ねて歩むこと、そこに祝福の人生があることを示しているのであります。私達の生活の中に先立つお導きが与えられているのです。お導きに委ねつつ歩まなければなりません。

 今朝の歳晩礼拝において、今年の歩みを振り返っていますが、「お導きに委ねつつ」の歩みであったか、反省しなければなりません。新しい年が始まりますが、自分の生活設計もありますが、いつもお導きに委ねつつ歩みたいのであります。私たちのお導きはイエス様の十字架であります。

<祈祷>

聖なる神様。この一年のお導きを感謝致します。新しい年もお導きに委ねつつ歩ませてください。キリストのみ名によりおささげします。アーメン。

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